
諸行無常・諸法無我(無について)
諸行無常・諸法無我は仏教の言葉であるというだけで、宗教的なものではなく、ただの事実です。
・万物は流転する (ヘラクレイトス)
・ゆく川の流れは絶えずしてしかも元の水にあらず・・・(鴨長明)
と言ってることは同じです。
なぜ急に、諸行無常・諸法無我を出してきたかというと、この言葉の意味を知り、体得することが「無」への必須条件のように感じるからです。
諸行無常
これはご存じの通り「この世のものは全て流動変化しており、一瞬といえども同一性を保持できない」ということ。
我々人間は、1年ですべての細胞が置き換わると言われています。
一瞬一瞬で、体のどこかの細胞が壊れ、また作られています。
5歳の時と10歳の時と同じ「OOさん」と呼ばれますが、全く違う身体であることは歴然としています。
存在はするけど、実体はないということです。
これは福岡伸一先生の「動的平衡」を読むとすごくよくわかります。
諸行無常が宗教的ではなく、科学的に証明されていることを説明してくれています。
(福岡伸一先生のHPを見ると、視覚的にその作用が見れます
※著作権とかがよくわかりませんので、リンクは貼りません)
諸法無我
これは、「全ての物は関係性で存在しているだけで、実体性はない」ということ。
「右」があるから「左」が存在できる。
「あなた」がいるから「わたし」が浮かび上がる。
「走るのが早い人」がいるから「走るのが遅い」と知ることができる。
みたいな。
諸行無常と併せて、全てが流動的に変化する中、実在はなく何がその存在を担保するかは関係性だけだ、ということ。かな。
知を通しての「無」へ
この「常態化したものは一切なく、関係性の中だけで万物は存在している」という事を知り、知るだけでなく体得する?身に染みて分かる?感じ取る?ことを通してしか「無」というものには辿り着けないのかなと。
数字を知らないのに九九を覚えても意味がない。 ちょっと違うか
数字を知らずに九九を知ることはできない。 これも違うか
字が読めないと文章は読めない。 これも絶対違う
とにかく、「知る」ことは坐禅の準備運動として必要。
調身・調息・調心
長々と書いてきましたが、「調身」と「調息」は本を読んだり、動画を見たり、なんなら自己流でもできるようになりませ。
ただリラックスを超えた「調心」を求めるならば、いろいろと知らなければならないことがあるように思います。
仏教の祖のお釈迦さんが偉いのは、そのパイオニアだったということですね。
「知る」ことが大事と書きましたが、神様や仏様、お経や阿弥陀如来や大日如来などの宗教チックなことを「知る」必要はなく、ただお釈迦さんが見出した、現代で科学的に証明された「事実」を体得するのが重要かと。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
また何か書きます。