街の記憶 / Toronto
秋の風がひんやりと肌を撫で始めた頃、
私はエアカナダに揺られて、
初めての出張地である、
カナダのトロントへとやってきた。
空港に降り立ち、
カナダの空気を胸いっぱいに吸い込むと、
静かな興奮がふわりと心に満ちていくのがわかった。
荷物を受け取った私は、いつも通り、
タクシーに乗りホテルへ向かった。
車の窓から、
色づき始めた木々が並ぶトロントの街を眺める。
異国の景色なのに、
どこか懐かしいような気持ちが寄せては返す。
チェックインを済ませて部屋に入り、軽く一息つく。
窓の外には木々が揺れる静かな通りが見え、
レンガ作りの建物が並んでいた。
高速道路や高層ビルの喧騒は、ここにはない。
風に揺れる木々と静かな通りが続いていて、
かすかに秋の香りを含む街並みが、
静かにそこにあるだけだった。
窓の外を眺めていると、
街の雰囲気が気になってきた私は、
明日の下見も兼ねて、
暗くなる前に少し外出することにした。
まずは、翌朝の出勤経路を確認するため、
近くの地下鉄駅からユニオン駅に向かう。
ゆっくりと、
街の鼓動を確かめるように電車に揺られる。
トロントの地下鉄の雰囲気はどこか柔らかく、
乗客たちの様子も穏やかだった。
成田からの長旅で疲れていた思考が、
車内の温かな静けさに包まれ、
次第に落ち着いていくのがわかる。
見慣れない駅名をいくつか通り過ぎた頃、
ユニオン駅に到着した。
外には薄闇が広がりはじめていた。
私はしばしこの時間に浸りたくなる気持ちを抑え、
オフィスの入り口の場所や、
周囲の様子を簡単に確認すると、
ホテルへと戻ることにする。
ホテルの最寄り駅を出ると、
空は深い藍色に染まり始めていた。
街の通りにも灯りがひとつひとつ灯りはじめ、
ふいに少しだけ心細さを感じた。
その時、
見慣れたスターバックスの店舗が目に入った。
あたたかな灯りにひかれて立ち寄り、
季節限定のパンプキンスパイスラテをオーダーする。
オーダーを終え、
店内の会話にぼんやりと耳を澄ませていると、
聞きなれた名前が耳に飛び込んでくる。
呼ばれた名前に応えて受け取ったカップからは、
ふんわりとスパイスの香りが立ち上り、
その香りに包まれた私も、
そこでようやくホッと一息をつく。
出張中であることを忘れてしまいそうな、
甘く、あたたかな空間。
思わずこのまま腰を落ち着かせてしまいたくなった。
それでも、
小さな使命感を振り絞り、店を後にした。
そして、
せっかくのコーヒーが冷めないうちにと、
夕食用に近くのデリで、
サンドイッチとフルーツを購入した。
部屋に戻り、
備え付けのデスクで簡単な夕食を済ませると、
早速、明日のミーティングの準備に取り掛かる。
日本にいる間に要点はまとめてあるので、
オフィスの各部署からヒアリングする内容を、
もう一度頭の中で整理する。
ついでにミーティングの進行方法についても、
シュミレーションを行った。
その間も、
部屋の中に漂うほんのり甘いスパイスの香りが、
時折訪れる不安や緊張をほぐしてくれた。
一通り資料に目を通し、
ふと顔をあげると、
窓の外はすっかり夜に沈み、
静けさがガラス越しに伝わってくる。
それは私の心の落ち着きにも似ている気がした。
「明日からの数日間、
どんな出来事が待っているだろう」と考えてみる。
上手くいくミーティングばかりでは、
ないかもしれない。
それでも、
帰る頃には、
この街の記憶に、
手ごたえを重ねている自分がいるのだろう、
と少しだけ想像してみる。
そんな前向きな気持ちを抱きながら、
優しくカーテンを閉じると、
街の灯りがふわりと消え、
部屋には静かで穏やかな夜の気配だけが残った。