「見通し」を見通す
AARサイクルという言葉をよく目にするようになりました。AARサイクルとは、Anticipation(見通し)-Action(行動)-Reflection(振り返り)の頭文字をとった学習サイクルのことを言います。OECDのEducation2030プロジェクトでも重要語句として示されています。
ところで、みなさんの授業では、「見通しを立てて(発表して)ください」と指示したら、子どもは何を書く(言う)のでしょうか?「見通しなんて書かせていないよ」という人も多いかもしれませんね。なぜ見通しは必要なのか。そもそも見通しって何なのか。みんな分からないまま、「見通しって重要だよね」という言葉だけが飛び交っているのが現状です。「誰かがやれと言うからやる」では、気分も上がりません。一度、見通しについて考えてみませんか?
(1)見通しは「段取り」か「視点」か「問い」か?
見通しを立てることは、学習計画を立てることなのか、問題解決の視点を持つことなのか、それとも、課題に対して問いを持つことなのか。料理に例えて考えてみます。
① 料理上手な人
料理上手な人は基本のレシピが頭に入っていて、材料を見ながら適当にアレンジできる。また、食事の時間から逆算して、何をどんな手順で作っていくのか、無駄がないように段取りを決める。
料理上手な人の見通しは、学習計画を立てることに似ている。つまり、見通しで学習計画を立てることができる人は、ある程度の学習経験があり、問題解決の道筋が見えている人だろう。
② 料理初心者
料理初心者は、レシピがあればなんとかできるが、上手くアレンジできず修正が利かない。段取りが苦手なので、とりあえず材料を切るなど、できることからやろうとする。
料理初心者の見通しは、視点を持つことに似ている。学習課題に対して視点を設定し、とりあえず試してみる。結果、上手くいかないことがあっても、やってみるのも大事な経験。
③ 料理をしない人
全く料理をしない人は、とにかくいろんなことが分からない。レシピを見ても、そこに書いてあることがイメージできない。頭の中には「?」ばかりがうかんでくる。当然、段取りなんて考えない。
料理をしない人の見通しは、問いを持つことに似ている。とりあえず、分からないことを表に出すことが起点になる。よって誰かの援助が欠かせない。
見通しを立てたり振り返ったりするのは、熟達した学び手としての力を身に付けるためです。普段料理をしない人が料理上手になることです。料理に例えると、見通しもまた、学び手の上達の度合いによって変わってくるということが分かります。
まったく分からない、お手上げ状態の人は見通しが立てられないのではないか?という疑問がわきます。そういう人は、誰かの問いや視点、段取りを模倣しながら学んでいきます。誰かの立てた問いを一緒になって考えたり、誰かの視点や段取りをまねてみて、その人の学びをなぞりながら一緒に考えたりすることです。つまり、先に進む誰かが分からない子の見通しになっているのではないでしょうか。
(2)見通しは教科の特質によって違うのか?
算数の問題は、それ自体が問いを発しています。それに対して、国語のテキストは、自分が問いをもつか、または誰かによって問いを与えられる必要があります。教科それぞれの特質によって見通しの形も違ってくるのでしょうか。
① 文学の授業をアートの学びととらえる
佐藤学は、文学の授業をアートの学びとして位置付けている。そう考えると、文学を読むとは、言葉が表している意味から、作品の世界を豊かに読み描き、読み味わうことといえる。そこでは、情景や行動、心情の描写に対して、「なんで?」「どうして?」「どういう意味?」という問いが、読むことの起点になる。よって、見通しは問いの形になっていく。
② 文学の授業を論理の学びととらえる
文学の授業を、作品の分析による解釈の授業と位置付ける場合もある。このような授業では、色彩語や比喩、オノマトペ、転換点、主題など、作品を読む道具(視点)をもとに論理によって検討していく。その際、見通しを立てるときにどの道具を選択するかが重要となる。よって、見通しは視点を選択するような形で表現される。
③ 説明文は論理の学び
同じ国語でも、説明文は論理を読むことが中心となる。段落構成に着目したり要約したりするのはそのためだ。作者の主張がどう表現されているのかを読み取るのも論理の学びである。
④ 算数は論理の学び
算数は論理の学びであり、問題がすでに問いを投げかけ答え方を命じている。問題を解決するために、足し算する、表を書く、きまりを見つける、線分図を書く、補助線を引く、比を使う…などの方略を自分で見つける必要がある。よって、見通しを立てることは、問題を解決する方略をもつことを意味する。
⑤ 社会科の学びは両方ある
社会科の本質は、人間の社会的行為を科学することである。よって、論理的に問題解決することが基本となる。「青森県でリンゴ栽培が盛んなわけ」を考えるときに、歴史的経緯、品種改良、ブランド戦略などの視点を見通しとして問題解決していくのが通例だ。一方、人間の行為なので論理だけでは解決しない場合もある。「リンゴ農家の木村さんはなぜ無農薬にこだわったのか」という課題を解決するには、理屈を超えて木村さんの人間性に迫る「どうして?」という問いが大きく立ち上がってくる。
実際には、問いの形、視点の形と明確に分かれるのではなく、混ざり合って表現されることが多いような気がします。自信がなければ「表を書けば答えが出るかも?」「その土地の歴史を調べれば答えが見つかるんじゃないかな?」と、半信半疑で考えていくのだと思います。自信のある子は、見通しなんて書かなくても、さっさと問題を解決できてしまうでしょう。逆に言えば、見通しを意識しないと困るような、歯ごたえのある問題が必要なのだと言えます。
(3)問題解決のスパンによって違うのではないか?
「今解決すべき算数の1問」に対する見通しと、前時で自分の意見をつくり、次の時間にクラスで話し合うような2~3時間単位で問題解決するときの見通し、もう少し長い数時間のスパンで大きな問題を解決していくような場合の見通しでは、見通しの形も当然変わってくるように思いませんか?
① 短いスパンの(1時間単位)の問題解決
今日の1時間で問題解決するような授業の見通しは、(1)(2)の例で考えることができそうだ。
② 中ぐらい(2~3時間単位)の問題解決
このような授業スタイルでは、全体で話し合うことを見据えて、自分の考えをじっくりと構築できる。よって、視点も一つでは物足りなくなって、複数の視点で考えようとする。問いも同じで、考えているうちに新しい問いが生まれ、結果、いくつもの問いに自分で答えを出していくことになる。
③ 長いスパン(数時間単位)の問題解決
自由進度学習や個人研究に取り組むような授業が想定できる。このような授業では、問いや視点はもちろんのこと、計画を立てることが大きな意味をもつ。当然、見通しには段取りが記述されていく。また、その日の進み具合によって見通しは修正され、次の時間には修正された見通しをもとに課題に取り組む。
近年、ゴールまでのスパンが短い授業だけでなく、スパンの長い授業が求められています。その中で、粘り強さや自己調整がよく表れてくるからです。また、個別的個性的な学びも、長いスパンの方が個々の個性が際立ちそうです。
このサイクルを短いスパンで回すのか、長いスパンで回すのか、どちらのスパンで授業を設計するかによっても見通しの形は変わってきそうですね。
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