人麻呂が見た「炎」の真実④
東野炎立所見而反見為者月西渡
柿本人麻呂
前回は、漢字学者の白川静の説を紹介しました。白川静もまた「炎」を夜明け前の曙の光だと考え、阿騎野冬猟歌を魂振りと魂鎮めの言霊の儀式であると解き明かしました。
しかし、そんな重要な儀式の場所として、なぜ阿騎野が選ばれたのでしょうか。
阿騎野は当時でも霊が棲む異界の地であり、仙郷であるととらえられていたようです。持統天皇や柿本人麻呂が、わざわざ霊力が強いとされる場所を選びたくなる気持ちはよくわかります。失敗したくないですからね。
では、なぜ阿騎野は霊力が強いのでしょう。これからは、阿騎野という場所の特異性について述べていきます。
冬至の朝に太陽が昇る方角
冬猟歌が詠まれたのは冬至の朝でした。その場所を現在の宇陀市にある阿紀神社あたりであると仮定してみます。この神社から冬至の朝に朝日が昇る方角を辿ると、三重県度会郡大紀町錦のあたりで熊野灘に出ます。そこには錦湾という入り江があり、近くには神武台という史跡があります。小高い丘の上には神武天皇が座った石まであります。
錦湾には、ここから神武天皇が上陸して大和を目指したという説があるようです。古事記には、熊野から上陸した神武天皇は土着の有力者である丹敷戸畔(にしきとべ)という人物(女性?)を殺害し、八咫烏に導かれて阿騎野に至ったと記されています。「にしきとべ」の言葉が、現在の錦という地名との関連を暗示させます。また、大紀町からは三角縁神獣鏡も出土していて、ヤマト王権との結びつきもあったようです。
7世紀に神武東征はどう理解されていたか
神武天皇が実在し、古事記が言う通り、紀伊半島を回って熊野から大和に入ったというつもりはありません。それはおそらく事実ではないでしょう。しかし、大事なことは、柿本人麻呂が生きた7世紀に、何が当時の常識として認知されていたかということです。もしかしたら、7世紀当時には、錦湾あたりから神武が上陸したと信じられていたのかもしれません。そう考えると、冬至の朝に上る太陽と、太陽の神である神武がやってきた方角を重ね合わせようとしたとも考えられます。
ついでにいうと、阿紀神社からまっすぐ東に進むと伊勢神宮があります。真西には神武を祀る橿原神宮があり、阿紀神社が特別な場所であることを示しています。
そもそも阿騎野がある現在の宇陀市には、神武天皇にまつわる場所がたくさんあり、古事記にも詳しく書かれています。宇陀と神武とのかかわりは無視できないでしょう。
しかし、この説では、人麻呂が見た「炎」は、やはり「かぎろひ」になってしまいますね。真実を探るために、もう少し掘り下げてみましょう。それは次回に。