映画『茶飲友達』〜偽りの愛が欲しい人は、喪黒に目をつけられちゃうかもよ〜
「邦画、エリック・サティで連想される映画は?」という問題があれば、ジムノペティ→「わたし、お祖父さんを殺してしまった」by薬師丸ひろ子からの『Wの悲劇』と回答してしまいそう。
では、「邦画、エリック・サティのジュ・トゥ・ブで連想される映画は?」と来れば
私の頭では、外山文治監督『茶飲友達』となってしまった。
『ジュ・ドゥ・ブ』の意味は、あなたが欲しい。なかなかに意味深!画面に映る人たちの安心した、時には恍惚に見える表情にビタッと来る。この曲が流れる時のシークエンスから、エロースにとろける人たちの平和な世界が覗き見れる。「誰にも迷惑をかけてるわけじゃあないし〜、本人たちが良ければいいっしょ」という牧歌的な世界が広がってる。まあまあそうだけど、と後退りしながら見る。クローズされたその場限りの世界にあてがわれた光も優しく温かく、そして音楽も優雅、それが故にこのまま終わるわけはない事を予感させる。
映画の元ネタになったのは2013年に報道された事件。警視庁に摘発されたのは、「高齢者売春クラブ」で、男性会員は1300人を超え、女性会員は350人に及ぶ数だった。最高齢は男性88歳、女性82歳で、経営者として逮捕されたのは70歳の男性だったよう。当時の報道によれば、対象者を高齢者に絞り、売春目的の風俗店の印象を与えない「茶飲み友達募集」という名目で人集めをしていたそう。応募して来る人は、もちろんそこに売春目的があることを承知していたと言う。
スタッフの合言葉も、承知で〜す!
映画の肝は、経営者を29歳の女性に仕立てていること。そして、若者集団が高齢者の幸せを願い、その孤独を埋めてあげるために展開している社会事業とでも錯覚させるような雰囲気を醸しているように描いていること。しかし、この女性佐々木の笑顔と言動には逐一、痛さや辛さを感じてしまう。生き抜いてきた知恵を持つものは狡猾であり老獪であり、人に依存することも上手だったりするのにさ。
元ネタから推察すれば、老いの孤独を描いていると思いがちだけれど、実は今の時代の家族観の変化や若者たちの置かれている状況、生きづらさにこそ焦点があたっている。私くらいの年代で、毎日報道されるニュースが他人事で済み安全に生きてきた人たちは、「なんだコレ?」「そんなこともあるの」という映画かもしれない。人間の悪は巧みにそこかしこに潜んでいる。
人を蝕む一番の原因は「孤独」かもしれない。この年になれば、孤独がすべて悪いことだとは思わないし、孤独とも少し仲良くしとこう、という心境に変化していく。
けれども、自分自身を否定的に捉えかつ孤立している状態にしてしまえば、心は弱っていくに違いない。
とはいえ、偽りの関係で自分の心の隙間を人の心で埋めようとしてもそれはやはりハリボテにすぎず刹那的であろう。
祭りの時が過ぎれば、虚しい風が吹き抜けていくのを感じて一人ぼっちの感慨が増すのが関の山のように思う。それでもいいんだ、という人がたくさんいるにせよ。
刹那的な愛は、テキサスの砂漠のように乾いてる。『ジュ・ドゥ・ブ』のような燃える愛は本能に支配される欲望の泉から湧き出る。
ご同輩たちよ、本能の支配からは、なかなか逃れえぬなあ。あゝ。
何かを語れる筋のものではないが、生きとしいけるものの命や世界とのつながりを感じることに思いを馳せ、あとは泡沫の妄念と思い断ち切ろう!なんて言ってみたくなった。笑
秋の夜長、いろいろ考えることの多い映画だったわ。
☆
あれっ、
どーん、という音が聞こえたと思ったらあの人の顔が浮かんだ。
そうそう、藤子不二雄の描く喪黒福造。「この世は老いも若きも男も女も、心のさみしい人ばかり、そんな皆さんの心のスキマをお埋め致します。いいえ、お金は一銭もいただきません。お客様が満足されたらそれが何よりの報酬でございます。さて、今日のお客様は…」
登場人物に気持ちを寄せ過ぎたそこのあなた、喪黒福造に呼ばれるかもですよ。
あっ、アブね。