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國分功一郎著『目的への抵抗』を読んで考えた

「あらゆるものが目的合理性に還元されてしまう事態に警戒しろ」

ちょうどコロナ感染拡大が始まった4年前の二月、仲間と一緒にドキュメンタリー映画の自主上映会を行う予定を立てていた。事前に周辺の中学校をまわり、生徒さんに声をかけたり、監督のつくる映画のファンに声をかけたりと精力的に宣伝活動をした。しかし、中国でコロナ感染拡大の報道が出て、まもなく横浜に留め置かれたクルーズ船でも感染拡大が起こった。いろいろな議論があったが、やむなく中止の決定をした。残念でならなかった。任意団体がやっていることなので、どこからかの命令があったわけではない。パブリックの施設での上映会だったが、自己責任でどうぞという状況。毎日、感染拡大が広がっている情報の中では、リスクを冒す気持ちにはなれなかった。その中止を決めた時に映画監督と喫茶店で話をした。彼は不要不急という言葉に強い憤りを感じており、中止の決定にも大きな不満を感じていた。

緊急事態宣言の中の「不要不急」か。

監督の気持ちを考えると思考が停止した。話す言葉もなかった。今でも、あの決定で良かったのか?考えることがある。もちろん、数人の観客でも行うことはできた。しかしながら、実際に感染が起こったならばと頭の片隅に少しでも過ぎれば「やりましょう」と言い出すことができなかった。善し悪しではなく、明らかに監督の考えていることと自分の取った行動とには断絶があった。

冒頭に掲げた「あらゆるものが目的合理性に還元されてしまう事態に警戒しろ」という言葉は、國府功一郎氏『目的への抵抗』から。この言葉に触れ、先程の経験が甦った。

監督は自主上映の際に必ず壇上に立ち自分の言葉を語る。そこには映画とともに自分の身体を盾にしている姿がある。映画は子どものようと語る彼は、対面で一人ひとりと向き合いたい人。ミニシアターにひとりも観客が入らなかったときも客席に向かって舞台挨拶をしたというエピソードもある。奇矯に思う人もあるかも知れないが、わたくしはある種の凄みを感じてる。目的合理性からは距離がある人。

全体主義においては、「チェスのためにチェスをする」ことが許されない。全体主義が求める人間は、いかなる場合でも、「それ自体のために或る事柄を行う」ことの絶対にない人間である。だから芸術のための芸術も許されない。もちろん食事のための食事も許されない。

この文章を読んだら、考えが少し解けた。

監督は「不要不急」にその影を見ていたのかも知れない。そうだとすれば、「命をかけてでも…」と思っていたかも。

とは言え、優しい人なので言うだけいったら、あとは沈黙だった。

「人間の活動には目的に奉仕する以上の要素があり活動が目的によって駆動されるとしても、その目的を超え出ることを経験できるところに人間の自由があるということです」

本書の結論的なことは、ここにありそうだ。この結論は、自分のような性分の人間には心地よい。

そうだった自主上映活動には、映画を沢山の人に見てもらえるようにという本来の目的を越え出て、そのプロセスの中で人と協力したり、思いがけない出会いがあったりすることに魅力がある活動だった。確かに。

あれから、4年が過ぎた。今であれば「お客さんが一人でもやりましょうよ」と監督に軽やかに言えるかもしれない。

当時あったような立場やしがらみなどと距離ができたことも幸いしている。

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