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映画『桐島、部活やめるってよ』見た 映画って時間が経つと刺さり方が変わるよね
『桐島、部活やめるってよ』を久しぶりに見た。一度目は、目黒シネマで見ているので二度目。
一度目は、最後まで桐島が出てこないという仕掛けに、テーマを忍びこませる凄技に唸らされたのを覚えていたけれど、そこまでは刺さらなかった。青春時代の人間模様を掬ったストーリーは好みの物語だけれど…。私自身は、いわゆるスクールカーストみたいなものを意識しないで生きてきた世代だからか、登場人物にあまりリアルを感じなかった。イフで言えば、その時に自分の子どもたちの視点からこのドラマを見ていたら感想が違っていたかもしれない。
二度目は、なんとなく見始めたのだけれど心への刺さり方が変わっていた。何でだろう?最近、スクールカーストの洗礼を受けて育ってきた人たちと同じ目線で働くようになったからだろうか。リアルな人物と物語の虚像が重ね合わせられるのを感じた。
画面から哀しい時代が、あぶり出されてる。
未来を簡単には信じられない若者たちの心のゆらぎが画面を覆う。
シンプルにワクワクしたりドキドキしたりすることが失われつつある世界の空は、グレーに彩られる。青春がアオくない。
『桐島、部活やめるってよ』を『怪物』に被せれば『桐島、だーれだ』という問いが現れる。
ベケットの傑作『ゴドーを待ちながら』に擬えて「桐島を待ちながら」と見る向きも世間にはある。
そう見たてれば、あの屋上は神と交信する場所のようにも見えてくる。
沢島部長の吹くテナー・サックスには、恋の神を呼ぼうとする悲しい響きがあり、神の再来を願う若者が地上からあの丘を見上げれば、自分たちの行く道を指し示してくれる神が見えたり隠れたりする。
そして、この世界で指針を見失った者たちが、群衆と化してあの聖なる屋上に集まるシーンは、再来する神を待つ人間の乾ききった心を表現してる。
ひとつの物差しで測られることに慣れきってしまった若者たちの行きどころのない魂の咆哮。人それぞれに事情は違うけれど、学校という囲いの中に閉じ込められ同じように鬱屈した魂がウロウロしてるように見えた。
若者たちのレジスタンスを主導するには心もとない弱者の前田が世界を転換させる。精いっぱいの勇気が世界を変転させる。
よくある物語のようだが、この物語の勇者の声は小さく相手に視線も合わせない。かける言葉は「俺達に謝れ」
弱々しいのだけれど、カーストによる世界の分断が解かれ混乱が始まる。
そして、魔法の号令。
「ドキュメンタリータッチでやるよ」
「こいつら全部喰い殺せ」
この後の映像が秀逸。これぞ、映画の魔術。
桐島に救いを求める心が食い破られた時、迷える若者も目を覚ました。
ベケット曰く
God is a witness who cannot be sworn
神とは誓うことのできぬ証人である
そうであるならば、ちっぽけであっても自分を信じよう。桐島はどこかで我々をみているかも知れないが、いつまでたっても現れない。
もうひとつ、ベケットから。
Ever tried. Ever failed. No matter. Try Again. Fail again. Fail better.
試してみたら失敗した。
だが、それがどうしたというのだ。
もう一度試せばいい!
もう一度失敗し、
今度はもっとうまく失敗するのだ。
誰かにあてがわれた価値基準以外の世界が、囲いの外にはたくさんあるのだと思えば、潔く自分が心から楽しめるものを見ようと思える。ホントの価値は自分のモノサシで決める。
時代の同調圧力の中で埋もれているけれど、監督の前田も野球部のキャプテンも直観的にそれを知る人。社会へのレジスタンスというほどに激しくはないが、周りに惑わされずに進む。
ああ、良い映画観た。
サミュエル・ウルマンが言うように、青春は情熱を捨てたときに終る。還暦でも二十歳よりアオハルな人はいる。
希望を持てない未来を描いてるのは、実は8割、9割が自分自身の心なのだ、と自分に言い聞かせてエンディングの曲を聴いた。