自分自身をニュースサイトにしない
SNSでもブログでも、時事的な事柄・ホットな話題への反射的な言及が自分自身では減ったと感じている。気を付けてそうしているというより、そうすると自分が嫌になる・苦しくなる、という心理的なハードルが上がって勝手にやらなくなってきている。
この「気分」は個人的なものだけでなく、全体の風潮の影響も受けていて、一定の一般性があり得るかもしれない。現時点で「どういう気持ちがあるのか」を書き残すといいかもと思ってメモ。
炎上加担の功罪
「ホットな話題への言及」には利点/欠点の両面がある。
「不正義・不条理で苦しめられた」などの案件が、炎上で是正されるケースもよくある。
企業・行政vs個人で、昔なら個人が一方的に不利益を押し付けられて終わりのケースで、個人が救われたりする。
一方で「実は不正義じゃなかった」案件の炎上に参加して、意図せず加害行為に加担してしまうケースもあり得る。
例えば、草津町議が町長からの性被害を訴えた事件も、発生当初は町長を非難する世論が巻き起こったが、その後の状況で(完全に確定的でないとしても)町議の虚偽の可能性が大きいと分かった事件もあった。
※町長vs町議/男性vs女性/年上vs年下という強弱関係があり、相対的に弱い側に立つという態度はあり得る。ただ赤の他人が即座に参戦すべきかは別問題。
スマイリーキクチ氏中傷事件でも、中傷した当事者は「自分が正義だ」と認識していた(検挙された19人中18人がキクチ氏が「女子高生コンクリート詰め殺人事件」の犯人の一人だと信じていたという)。
時事的に不確定な話に飛びついて自分が加害に加担してしまうと、自分がダメージを受ける。信用を失うとか、自分自身がつらくなるとか。
「自分が加害者になった」事実を受け入れられないと、「みんなもやっていた」「あの時点ではしょうがなかった」「自分の方が騙された」と弁解して、自分に自分で嘘をついて、ゆっくり壊れていく。
それでも何かを書くなら、時事的・発作的にではなく、情報を丁寧に集めて客観的で自分が心底納得できるようにやる。ワンテンポ遅れるくらいでちょうどいい。
「沈黙は加害と同じ」の意味
「中立・沈黙は加害者への加担と同じだ」という言説を見かける。
炎上加担の正義面を重視する立場からは、そう見えるのは理解できる。
例えば、いじめの現場で見て見ぬふりした奴らも同罪、という気持ちはわかる。
「加害と同じ」と言えるかは距離・関与度・影響力の度合いよる。
いじめなら、担任教師・校長・加害児童の保護者 > 同級生・被害児童の保護者 > 同学年の生徒・同級生の親…… など距離や力によって「見て見ぬふり」の加害性が変わる。
距離を無視して「知ったのに黙っているのは加害と同罪」と一律に断罪するのは無謀だ。
「沈黙は加害」も全体に適用されるのではなく、距離が近いほど適応度が上がる、グラデーションになっている。
「お客様は神様と思え」が商売人の心得ではあっても、客の側が言い出すとおかしくなるのと同じで、「沈黙は加害者への加担」も自己の行動規範として自分に言うのはともかく、他人へ強いるとおかしくなる。
「状況が不確定な状態で首を突っ込むべきか?」もこの「距離」による。
「立場の弱い側/被害を訴える側に加担した結果、実は無実な人物を攻撃してしまった」も、その人が推定被害者と距離が近ければ(家族や友人など)「しょうがない」と言い得ても、赤の他人が攻撃するのは「やり過ぎ」になる。
「緊急事態では無免許でも医療行為が許される(緊急避難)」に近い感覚。他に手がない、自分が本当にやるしかない時に限定的に許される。
作品の感想
「ホットな話題に反応しなくなってきた」は炎上に限らず、アニメ・漫画・映画などの感想でも同じ。
最近は「作者が込めた伏線や意図を先に読んで公言したもん勝ち」ゲームをみんなでやっているようで疲れちゃう。
行き過ぎるともう、制作側をあまりに信用し過ぎて、ほとんど無意味な細部に意味を見出して「こういうことだ!」と言ってしまう。
聖書の引用・解釈バトルみたいな。(これは神学の体系を全然理解せずに勝手なイメージで言っている)
noteのコメントでも「みんなが同意しそうなことを先に言って星を集めるゲーム」に近いと感じることがある。
無意味とは言わないが「自分が参戦しなくてもいいや」という気持ち。虚しさがある。
仮にやるなら、特にホットではない(他に言う人がいなくて埋もれてしまいそうな)ものに対してやる。
もっと素朴に「自分がどう感じたのか」を書き残すだけの方が、かえって価値がある気がしている。「その時のある個人の記録」が蓄積・共有される方が後世には貴重な気がする。
運動会の映像よりもテープが余ったので撮ったいつもの自宅風景とか、録画した番組自体より間に入っていたCMの方が、後からは貴重になるみたいな。
もう一歩踏み込んで「そう感じた理由」まで書ければなおいい。
あるいは(作者の意図とは無関係に)その作品の持つ位置付けや構造を明らかにするような営みができれば、それはもう感想や分析を超えて批評(一つの別の作品)になり得る(が高い能力が要求される)。
素人専門家になる
特定のジャンルでずっと時事的な反応を続けていると、「この人はこれ系の人」と認知されて、フォロワーも増えて権威を帯びていく。
場合によってはメディアに呼ばれたりしてさらに権威性が高まる。
その分野の専門家と見なされる。
学問的なバックグラウンドや体系的な理解がなく、ただのウォッチャー/コメンテーターでも、分野を絞ってやり続けると「専門家」になれたりする。
例えばテレビ番組の「マツコの知らない世界」に出てくるゲスト達も割とそうかもしれない。
見ていると「それが好きで仕方がない人」(さかなクンみたいな)と、「評価される自分が好きな人」と大別して2種類ある気がする。(続けていたら専門家枠に入ったのでそのまま続けてる、という人もマイルドな後者かもしれない)
MDXがゲストと異なる感想や意見を言った時に、前者は「意見の一つ」と受け入れられるが、後者は「自分を否定された」と感じて反発してしまう。(MDXは後者に対しては比較的厳しい態度で接しているようにも見える)
それは素人専門家に限らず、学界や会社でも同じ。
「〇〇が気になる/好きだからやる」ではなく、「〇〇に詳しい自分」にアイデンティティを見出して、それを壊されるのが怖くてやり続ける。
一種の罠かもしれない。「気の利いたこと」「ちょっと詳しいこと」を言うとみんな「すごい」と言ってくれて、気持ちよくなってしまうと抜けられなくなる。
「認められて嬉しい感情」を努力のドライブに利用すること自体は悪くないし、それで努力を継続できるのは素晴らしいが、そこから抜け出せなくなって自己弁護的・攻撃的になるとつらい。
「あくまで自分が好きでやってるだけだ」と言い聞かせて、そういう感情と上手に距離を取る必要がある。
ダブスタ批判の危うさ
「〇〇に言及したのに、××には沈黙してるからダブスタ」という非難はよく見かける。
しかしその言い方をすると自分が苦しくなるのでは?
発言が矛盾している、文脈や前提を加味しても二枚舌としか言いようがない、といった言説ならともかく、ただ「言及していない」だけで非難するのは苦しい。
現実には仕事や学業や遊びに忙しかったり、単にニュースを見逃していたり、なんか元気がなかったり、考え方が変わったり、理由は様々ある。
そうした外側からは見えない可能性の束をいきなり捨象して「言及しないのはダブスタだからだ」と攻撃すると、間違えのもとになる。
個人ではなく、集団がスルーしている場合は、個別事情(私生活)とは無関係になり得るが、その場合でも批判や攻撃の材料にしない。(彼らの内在的なロジックや構造を分析する材料にはしても)
ダブスタ批判は「本当にスルーしているのか?」の検証がザルだと、かえって批判した当人が批判を受けるので本当は気軽にやれない。
例えばNHKもよく右派からは「〇〇を報じない、売国奴だ」と言われ、左派からは「××を報じない、政権べったり」と言われたりしても、実際によく見るとどっちもそれなりにニュースで扱われていたりする。(「自分が思う重大性」と「扱いの大きさ」にギャップがあると不当だと感じてしまう)
個人のニュースサイト/コメンテーター化
ダブスタ批判を真面目に受け取ると「あらゆるニュースをキャッチして実生活の状況にかかわらず反応し続ける」スタイルを強いられる。個人がニュースサイトやワイドショーのコメンテーターになる。
この批判を発した当人が真面目だと、自分自身にもそのスタイルを課さざるを得なくなって(「お前こそダブスタだろ」と責められるのが怖いので)、自分で自分の首を絞めることになる。
このスタイルは報道機関やメディアが担えばいいことで、個人が背負うと一気にしんどくなる。
それで疲れて、いきなりアカウントを消したり極端に振れる。
でも「それをやる個人」は前述の通り権威を帯びて「専門家」になれたりして、嬉しくなってしまうのでハマりがち。
一貫性を自他に求め過ぎない
「一貫性の欠如=批判すべき」という前提には飛躍・短絡がある。「一貫性がないからダメ」というより「一貫性のなさで議論が成立しなくなる」とか「一貫性のなさが信用を失う」とか。
「一貫性」の縛りを大きくしていくと、前言を撤回するのも難しくなるし柔軟性を失う欠点が大きくなってくる。
※最近は一貫性の要求が強い傾向にある、という状況の中で「一貫性を求め過ぎない」と言ってるだけで、なくなればいいということでは当然ない。一貫性があまりに失われている状況にあれば逆に「一貫性を重視すべし」と言う。利点/欠点のバランスの問題。
一貫性重視の風潮は、インターネットだと新旧関係なく言説が簡単に検索でき、過去発言との矛盾を指摘して相手の信用を落とす攻撃方法が低コストで実現できるようになったことで、防御のために一貫性を重視せざるを得なくなっているため、と想像している。
一貫性や整合性・わかりやすさへの圧力が強まった(疎かにするとすぐ叩かれたり燃やされたりする)のは、根本はネット人口の増大にあると考える。
「個人が気軽・手軽にパブリックへ発信できる」は人口が少ない時、ネットの黎明期に限定的に生じた利点で、もはや成立していない。広く遠くまでリーチすると個人が大手メディアと同等の水準を要求されて気も重ければ手間もかかる。
「前提を共有しない人にも誤解なく伝わる」「本質的でない些事に他人が引っかからないようにする」は手間がかかるし技術がいる。
「一貫性の欠如」自体は、攻撃材料ではなく分析材料にとどめておくのが、全体にとってハッピーなやり方だと思っている。
精神衛生を守る
「ちゃんと怒ることが大事」とは最近よく言われる。
しかし「怒ることが大事」を「タイムリーに・正確に抗議できる技術を身に着けよう」ではなく「感情を爆発させよう(感情に振り回されることの肯定)」と取り違えると、おかしなことになる。(が、誤解されがちな気がする)
※その意味で「怒ることが大事」と「アンガーマネジメント」は矛盾しないし根本精神は同じはず。アンガーマネジメントも「感情を抑圧しろ」ではない。
「怒ることが大事」と「一貫性が大事」の両方を真面目に(表面的に)受け取って、全部に怒っていると心がしんどくなる。
精神衛生を守ることがまず重要。
この気分の背景
ネットユーザーの数もとても増えて、炎上した時のダメージも大きいし、リスクが大きくなってきてる、それで失敗してる人も見てるとか、それでそういう気分が出てきている。
後はホットな話題を追う気力や時間がなくなってるからかもしれない。老化だったり、仕事や他にやりたいことがあったり。
同居人がいて、ちょっとした話題や何かの感想を話す相手が日常的にいる、というのが結局一番大きいかもしれない。ツイートしなくても満足して終わる。
逆に言えば、同居家族も友人もいなくても、ツイートとかで反応もらえて、そこで救われる人も多い(自分も一人暮らししてた時はそうだった)。でもそれはクローズドじゃないから「全体の数」になってしまう。
適当にやっても平均化するから大丈夫
正義感による炎上も、作品解釈バトルも、利点/欠点があるので、「全部やめろ」と「参戦し続けろ」の二択で極端に考えてはいけない。バランスするポイントを見出す。
個人的には「やりたくなったらやればいいし、やる気がなければやらない」「本当に興味があることだけ反応する」「他人の自分への反応や文句は(受け入れはしても)直接的に反応しない」という方針。
一貫性至上主義者からは「ズルい」「都合がいい」と見えても、私はニュースサイトではないから気にしない。
炎上も作品解釈バトルも、自分が参加してもしなくても、マスで見れば変わらず存在するので変に義務感を背負わない。そこにアイデンティティを見出したりしない。
全員が妙に背負ったりせず適当にやっていても、ネットイナゴは消滅せず一定規模あって、不正義はちゃんと炎上するし、人気作品はちゃんと解釈されるのでお前がいなくても大丈夫。と思って(そもそも存在しない)肩の荷はおろす。
「不正義を見逃す自分が許せない」と感じたとしても、例えば「寄付は自分の経済力の範囲で(自分の生活を破壊しない範囲で)やる」のと同じことで、「精神的なキャパシティの範囲で(自分の精神を破壊しない範囲で)やる」で良いのだが、まだ人間がネットに慣れてないからやり過ぎる。
先鋭化したり熱心な人が界隈で評価されてるのを見ても、羨ましがる必要はない。でもやりたければその覚悟でやればいい。