閑話休題の前に2~「光る君へ」のゴールはどこになる?~
はじめに
大河ドラマと言えば、主人公の生涯を描くという印象が強いと思われます。必然的に、最終回は、主人公の死、つまり、人生の完遂という形で締めくくるものが増えます。実際、ここ10年の大河ドラマのうち、7作が主人公の死をもって、ドラマの幕が閉じられています。この中で特に印象的な幕引きだったのは、「鎌倉殿の13人」でしょう。この作品では、最愛の姉の手で死を迎える北条義時…その彼の意識が途切れた瞬間に暗転して完結します。彼の死と同時にドラマ自体が突然、切れて終わるというラストは、当時、衝撃を受けた人も多かったのではないでしょうか。
そして、主人公の死をもって、終わらなかった残り3作のうち、明智光秀が主人公の「麒麟がくる」は最後の華々しい功績「本能寺の変」で、群像劇であった「いだてん」は1964年の東京オリンピックをもって終わります。要するに、歴史上の一大イベントをクライマックスにした最終回が描かれたのです。人生の途中で終わった「花燃ゆ」は、珍しい最終回と言えるでしょう。
このように大河ドラマは、歴史ものであるがゆえに、主人公の死や歴史的大事件といった明確なゴールが当初から設定されているものが、ほとんどです。ところが、「光る君へ」は、この明確なゴールというものが存在していないように見えます。
何故なら、本作の主人公である紫式部の没年は1014年~1031年頃までと諸説あり揺れ幅が15年以上あるからです。また、平安中期の歴史的大事件は、紫式部にとってはほとんどが無関係です。今後は彰子付の女官としてかかわることも出てきても、中心人物ではありません。となると、「光る君へ」はどこで終わるのか…現時点では不明です。当初から、この大河ドラマはどこまでを書くのだろうと思われた方がいたのも当然でしょう。
そこで、今回は、紫式部の没年のいくつかの説から想像されるゴールを見て、その没年設定が作品の質にどんな影響を与えるのかを考えてみましょう。
1.1014年没説
1960年代までの通説が、1014年を没年とするものです。これは、実資の代理で資平(実資養子)が皇太后彰子へ拝謁したとき、その取り次ぎをしたのが「越後守為時女」だったという「小右記」の記録を、紫式部が正式に確認できる最後と考えたことからできた説です。諸説のなかでは、もっとも早い30代半ばでの死ということになります。
この説をもっともらしくする要素の一つが、1011年に越後守に任じられた為時が、1014年、任期を1年残して辞して帰京していることです。辞任理由は不明ですが、死病に取り憑かれた愛娘の看病のため戻るということもあるということでしょうか。因みに為時の動向を紫式部の死の理由にする説には、他に2016年没があります。2016年は為時が出家した年だからです(為時は1029年没)。どちらにせよ、娘を気遣う「光る君へ」の為時ならば、ありそうな説ですね。
さて、もしも「光る君へ」が1014年没説取った場合、まひろは為時の手厚い看病のもと、道長の訪問も受けながら、去っていくことになるでしょう。まひろは、安定しない政局のなかにいる志半ばの道長を置いていくことになります。道長の嘆きは相当のものになるでしょう。
史実的には、1014年あたりの道長は、三条帝との仲が険悪になっている時期です。大勢は道長にあり、三条帝は孤立、さらには眼病を患い、これを機に道長は譲位を迫っています。そして、1015年に道長に屈した三条帝は、1016年正月に道長の孫である後一条帝に譲位することになります。それは、摂政道長の誕生でもあります。
同年3月に彼の居る土御門殿が火事に見舞われますが、諸国の受領たちが彼に気に入られんと、資材を差し出し、その再建を支えることになります。その結果、先年火災にあった内裏の再建が後回しになったと言われます。公よりも私…つまり、摂政道長の誕生は、傲慢な為政者という後世のイメージの始まりとも言えます。
ライバルを蹴落とす傲慢な為政者というイメージは、本作の善良で民を救う理想に燃える道長とは真逆です。しかし、まひろの没年を1014年とした場合、もしかすると、その転換点はまひろの死という可能性が生まれます。まひろという光を失った道長が、目指すべき道を見失い、非情な為政者になっていく…この世を思うままにする道長の絶対権力の完成が、「光る君へ」のゴールということになりますね。こうなると世の無常とも言うべきラストになりそうですね。
ただ、1014年ですと、娘の賢子はまだ15歳程度です。現在、発表されているキャスティングからすると、賢子は双寿丸なる武士を志す男性と惹かれ合うような展開もありそうです。まひろと道長と重なるような恋になるのであれば、そのドラマを描くには1014年にまひろが死んでいる場合ではないような気がします。そうなると1014年は、少し厳しいように思われます。
2.1019年没説
近年、中心になっているのは、この説のように思われます。これは、「小右記」の1019年正月の項目で実資と会った女房がいるのですが、これを明記はされていないが紫式部と認めるというものです。この場合、まひろは一応、四十の賀を迎えていますね。勿論、この場合も、為時が看病、道長も訪れて、まひろの死を看取るということがあり得るでしょう。
ただ、道長の側の状況は、5年の間にだいぶ変わります。まず1017年には、嫡男頼通に藤原氏長者に譲り、後継体制を固めます。また、三条院崩御で彼の息子敦明が東宮を辞退し、後一条帝の同母弟…つまり道長の孫である敦良親王(後の後朱雀帝)が東宮となります。さらに翌年には、この東宮に娘の威子を入内させます。つまり、藤原氏九条流による摂関政治は安定期を迎えることになるのです。
「光る君へ」へ寄せて言い換えるならば、道長はまひろとの約束の一端、政の安定を成した時期です。ですから、1014年没説のように、志半ばの道長を置いていくということにはなりません。そうなると、道長と死を迎えるまひろとのやり取りは、寂しさと哀しさを持ちながらも、ある種の充実があるということになるでしょう。若い頃からの思い出を語らい、自分たちの想いを再確認し、そして自分たちの人生を振り返る…そうした場面になるでしょう。
そして、道長は、息子たちに大まかなことを譲り、ようやく自由になれるというときに、まひろが去っていくということを嘆くかもしれませんね。勿論、まひろは、そんな道長を「哀しまないで」と慰めるでしょう。死してなお、傍にいるとか、「源氏物語」のなかに私がいるだとか、月並みな別れのシーンがあってもよいでしょう。
また、1019年は、周りを驚かせたという道長の突然の出家の年でもあります。権力闘争が難しいのは、終わりがないからです。権力を奪取するまでは上を目指し、政敵たちと戦い続けます。では、頂点に立ったら終わりかというと、今度は自分のいる座を目指して、多くのものが下から襲い掛かる。それらから自分を守り続ける戦いが、次には始まるのです。つまり、権力闘争とは一度、足を踏み込めば、死ぬまで終わらない修羅の道だと言えるでしょう。だからこそ、頂点を極めた兼家の死も、道隆の死も、哀しいものになっています。
彼らと同じ道をたどらない唯一の方法があるとすれば、それは権力を手放すことです。権力は魔物です。一度、つかみ、それを振るう快感を味わってしまうとその誘惑は果てしないもの。道長のような無私で志高い人であっても例外ではないでしょう。そこを救うのが、まひろということになるのかもしれませんね。頼通に譲ることも権力放棄の一つ(まひろの助言かも)ですが、世俗を捨てる出家はさらに間違いのないものです。まひろの死が、道長にその決意をさせるのだとすれば、政治のあり様をずっと描いてきた「光る君へ」の展開としては、筋が通っているかと思われます。止む無く権力を志向した若者が、どうやってそこから解放されていくか。最愛の女性が、それを仄めかすのです。
このような展開がありえた場合、道長の出家によって、道長の心の中にいる女がまひろであることを、倫子も知ることになるかもしれませんね。そのことを倫子が道長に話すとき、その話に道長に真摯に答えるとき、今は拗れている道長夫婦に和解と真の夫婦関係が訪れるかもしれません。まひろは道長を愛していますが、倫子も大切な友人でしたから、まひろにとっても決して悪い展開ではないように思われます。
ところで、1019年没説を取ると「源氏物語」執筆期間は割と短くなり、果たして54帖すべてを書けたのか?という疑問も湧きそうです。こうなると使われそうなのが、「源氏物語」の最末尾の第三部の後半「宇治十帖」だけは作者が紫式部ではないというものです。元々、「源氏物語」は複数人で書かれた説がありますが、「光る君へ」は基本的に紫式部一人説。しかも一番最初から順に書く気配があります。ですから、「宇治十帖」は作者別人という説は使えそうに見えます。その場合、執筆の継ぎ手は、通説にもある大弐三位…つまり娘の賢子ということになるでしょう。
現在、放送されている回を観る限り、まひろと賢子の母子には確執…正確には娘からの強い拒絶と反発の気配があります。娘ではない彰子とは親子関係になり、実の娘、賢子とは上手くいかない…そんな皮肉な展開もありそうです。となれば、彼女の死と賢子の成長が重なるこのときに、確執のあった母子が遂には和解し、賢子がまひろから物語を綴ることを引き継ぐということもありそうです。
「光る君へ」では、女性たちのつながりが意識されています。以前のnote記事で本作の「枕草子」執筆は女性たちの縁が後押ししたと書きましたが、「源氏物語」もそうした面は出てくるでしょう。となると、この女性たちの縁と物語を紡ぐ次世代が必要になりますね。一人が彰子、もう一人が賢子となるように思われます。つまり、賢子がまひろから「源氏物語」執筆を引き継ぐ展開は、「光る君へ」のテーマにもつながるものと言えそうです。
3.1030年以降没説
一方、「光る君へ」の時代考証でもある倉本一宏さんによれば、先に出てきた「小右記」の「女房」を紫式部とすれば、万寿、長元年間(1024~1037)あたりまで生きていたとも言われます。
この説を取ると、1014、1019年没説とは異なり、1028年に道長が先に逝くということになります。道長を看取るとまで行かずとも、死期が近づいた彼を見舞うまひろが、いくつかの思い出話をしながら、己との約束を守ってくれた道長へ感謝や労いをするという可能性が出てきます。政権のトップに立って以降、心を痛めることが続く本作の道長にとっては、まひろから慰められ、苦難から解放されていく…この最期のほうが幸せかもしれませんね。
そして、まひろは彼の死を偲び、それすらも「源氏物語」の執筆へと織り込むことになるでしょう。例えば、それは光源氏の出家直前の気分と重ねられ、「幻」が書かれるのかもしれません。あるいは現在、巻名しかない「雲隠」…これは巻名のみで本文は書かれなかった説と、本文が紛失したとする説がありますが、その謎へ踏み込むかもしれませんね。この場合、後者の「書いたが紛失」になるような気がします。書いてみたものの、道長への想いが溢れたそれは発表に忍びず封印…もしくは焼いてしまう…とか。妄想が過ぎますか(笑)
また、道長の死がまひろの中で昇華されたとき、「宇治十帖」執筆へと臨む可能性もあります。「源氏物語」の現代語訳をした瀬戸内寂聴は、「宇治十帖」の作風の違いから、これを書いたときには紫式部は出家していたのではないかと、ある番組で述べていましたが、まさしくそうなっても良いですね。
出家し隠遁生活にあるまひろが、道長と自らの半生を振り返り、「宇治十帖」を書くというのも、しっくり来る気がします。そこへ倫子が訪れ、すべてを乗り越えて道長について、人生について語らう。あるいは、袂を別ったききょうと文学談義に花を咲かす。まひろを支えた女性たちの縁、シスターフッドが復活していくとしたら…それはそれで幸せな晩年ということになります。そして、女性らの縁をもって「源氏物語」は完成するかもしれません。
因みに賢子は、1025年に親仁親王(後の後冷泉帝)の乳母になって忙しく過ごしていますから、この1031年没説を取る場合は、「宇治十帖」執筆に賢子は関わらないでしょう。勿論、先にも述べたとおり、まひろたちによって紡がれた女性たちの物語は、彰子と賢子という次世代が引き継ぐでしょう。ですから、賢子がまひろの絶筆を手にすることにはなるでしょう。あるいは、まひろが書ききれなかった物語を後年、紡ぐということもないではありませんね。
おわりに
はっきりしない紫式部の没年、そのいくつかの説をテコに、いささか気の早い、いや、まだ不確定な今だからこそ出来る最終回予想をしてみましたが、いかがだったでしょうか。いつもは描かれたことだけを元に作品を大雑把に読み解くというのが、私の「光る君へ」note記事のスタイルですが、たまにはこういう遊びもよいかと…書いてみたら、どれもありそうだけれど、ややご都合主義っぽいものになってしまいました。想像力が足りない…というか、私は物書きには向いていないですね(笑)
ただ、いずれにせよ、紫式部の没年という問題が、ラストだけでなく作品の性質自体も変えていくことだけは、見えてきたのではないでしょうか。実際にどんな最後を選ぶのかは、今後、展開がさらに進めば、はっきり見えてくるでしょう。
それまでは、あれこれと妄想するのも、楽しみの一つではないでしょうか。そんなわけで、今回のnoteばかりは、妄想の類いと笑って許していただけたら幸いです(笑)