「光る君へ」第41回 「揺らぎ」 次世代たちの蠢動
はじめに
いつの間にか…歳を重ねるとそう思うことが増えていくように思われます。遮二無二に一生懸命やっていても、呑気に構えていても、時の流れはあっという間です。そして、ふと気づいたとき、自分の目指したものが半分も実現できていない、人生を変えるにはあまりにも多くの過去に縛られている、自分の今後がある程度見えてしまっている…そうした事実に突き当たり、愕然としてしまうことも多いのではないでしょうか。
それでも、人間は自分をやめることはできません。ですから、諦めたくない思いから、現役を降りず、それでも努力し続ける人もいるのでしょう。
一方、いつの間にか…は、自分の時代の終わりが見えるだけではなく、新しい世代の到来も意味しています。いつの時代も「この頃の若いもんは」と言われますが、一方で彼らをよく見ていると、自分たちよりも遥かに要領がよく、才能が豊かだと感じることも多いように思われます。私は仕事柄、若い学生たちを多く見ているせいか、そういう可能性に出会うことが多く、余計にそう思うのかもしれません。
ですから、自分自身を諦めることなく、さまざまな挑戦をしたいと思う一方で、彼らに希望や期待を託したい気持ちにも駆られます。これが、個人が感じる時代の変化というものかもしれません。
「光る君へ」のまひろも道長もある程度の成功を収め、中年期を迎えました。ただ、二人の約束は志半ば…おそらく二人はその夢に半分も近づけている気はしていないでしょう。まだまだ、自分たちの人生を諦められない…その一方で人生の曲がり角ゆえに終わりも見えてくる。
そういうなかで、我が子たちの世代が、好くも悪くも自分たちの予測を超えて動き出しています。自分自身に折り合いをつけながら、彼らとどう折り合いをつけていくのか。中年期の課題が提示されているかのようです。
そこで今回は、三条帝に翻弄されるなかで多くを失いつつも諦めずにまひろとの約束を守ろうとする道長の一途と、それに対抗するように成長していく娘たちのさまを見ながら、本作品における時代の移り変わりの兆しを見てみましょう。
1.賢子と双寿丸を見守る眼差し
(1)賢子のなかに見た道長の性質
前回終盤、物々交換した琵琶を奪った盗人を路地裏まで追いかけた賢子は、ガラの悪い連中に囲まれてしまいます。危ういところを助けてくれたのが、双寿丸という若者。彼はあっという間に悪党どもをねじ伏せたばかりか、傷つけられた乙丸を背負い、賢子を自宅まで送ってくれたのでした。御礼に賢子は、彼女に悪い虫がつくことを懸念し渋る乳母のいとを急かし、夕餉を振る舞います。その最中、まひろも帰宅、双寿丸と鉢合う…それが前回の引きでした。
冒頭、事情を乙丸から聞こうとするまひろ。まったく要領の得ない彼の説明でも「なんだかよくわからないけれど、娘が助けていただいたみたいでありがとう」と素直に礼を述べます。今や中宮に出仕する女房となり、越後守の娘でもあるまひろですが、若いときからこうした下々の者に分け隔てのない彼女は、こうした点は変わっていませんね。気さくなまひろの礼に「おなごが困っていたら助けるだろう。当たり前のことだ」とにんまりと語る双寿丸もざっくばらんです。
「良い方なのね」と好印象のまひろですが、母の反応が気になる賢子はやや緊張気味です。初めて彼氏を紹介するような顔つきになってしまっているのがおかしいですが、初対面の双寿丸に惹かれるものがあったのは確かなのでしょう。それがどこまでのものなのかはわかりませんが、賢子が、為時の「お前がいない間、あの子の友は書物であった。お前によく似ておる」(第37回)どおりのままであるならば、初めて気兼ねなく話せる同世代の若者に出会えたことは、驚きと喜びがあるだろうと察せられます。
そんな賢子の気持ちはつゆ知らず、乳母としての保護意識が働くいとは「さあ、お腹が一杯になったら出ていっておくれ。今日のことは礼を言うが、姫様は越後守の御孫君。お前が親しくするようなおなごとは身分が違うのだから」と居丈高に追い払おうとします。まあ、まひろが自由奔放で気を揉むことが多かったですから、過保護気味になるのも致し方もありません。
いとの剣幕に一旦は、面食らった表情になった双寿丸ですが、まったく悪びれるところはなく、それどころか「姫様って面でもないよな」と人を食ったようなことを言う始末。物怖じせず、ぽんぽんと思ったことを言う双寿丸の振る舞いに、賢子は朗らかに笑い出してしまいます。かつてのまひろならば、ここはむくれるところ。ですから、容姿を揶揄されても怒りもせず、笑う娘の様子を、まひろは不思議そうに眺めます。
余程、双寿丸の振る舞い、彼とのやり取りが新鮮だったのでしょう。気に入った賢子は。去っていく彼に「お腹が減ったらまたいらっしゃい」と笑顔で呼びかけます。双寿丸も、「おう」と気軽に答えます。自分の忠告を無視されたいとだけが、あわあわしています。まひろの娘だから、仕方ないと諦めるしかないかもしれませんね(笑)
いととは対照的に母親であるまひろは、静かに娘の観察し微笑します。成人した娘が、こうして男性と話すようになったことに一種の感慨があったと思われます。賢子の年頃に、まひろは道長と再会し、そして直秀に出会い、交流を深めたのです。そうした思い出が、脳裏をよぎったかもしれません。
その夜、まひろを賢子は枕を並べて寝るため、夜具の準備をしています。このカットだけで、母子の間柄が惟規の死をきっかけにその後、急速に改善されたことが窺えますね。これは、為時が越後へ旅立って以降、賢子にこの家を守っているという自負が芽生えた面も大きいと察せられます。ですから、まひろが出仕していること自体にも大きなわだかまりは既にないようで。「内裏のお仕事はお休みなの?」と、通常の会話として聞いているのでしょうね。
「中宮さまのお許しが出たの」と答えるまひろの胸中にも変化がありました。惟規の死まで、一家を支える働く女として、母として、娘の前で毅然としてきました。しかし、賢子の前で弱い自分を見せられたときから本来の自然体のまひろへ戻った部分があったのではないでしょうか。ですから「私も少し休みたいと思って。惟規が逝き、帝もお隠れになり…心が持たないわ…」と弱音を正直に口にします。
因みにまひろの「帝もお隠れになり」の文言からは、まず彼女なりの一条院への思いが窺えます。そもそも、「物語」は、彼への献上を目的に書かれました。そのために、まひろはまず道長から、一条院のあれこれを聞き出しました(第31回)。そして、「書いているうちに私は帝のお悲しみを肌で感じるように」(第34回)なったと語っています。帝の哀しみを自分のものにしようとしたことで、「物語」をとおして個人的な問答も繰り返しましたし、何よりも内裏にて「物語」が広く読まれるようになったのは帝の意向です。心中に深く触れ、そして恩人でもある。それが、まひろにとっての一条院です。ですから、その死は、まひろのなかでかなりの衝撃だったことでしょう。
加えて、心から仕えようと思う、弟子の彰子の帝への一途な想いを知るがゆえに、彼女の帝を失い、呆然とする有り様を見ていることも、辛いことだったでしょう。まして、この死に至る経緯のなかで決められた東宮問題は、道長の野心と彰子との緊張関係を目の当たりにすることになり、それもまたまひろの心を憂鬱なものにさせています。あまりにもさまざまなことが起き、それによる感情の波が、まひろを襲ったのでしょう。それだけに、こうして里下がりをし、娘と胸襟を開いて話せることが、まひろにとっての癒しとなるのではないでしょうか。
ここで、まひろは「お前はあのような武者にも優しいのね」と昼間の一件を口にします。お前はあの人が好きなの、と聞かれたような気がしたのでしょうか、賢子は少し戸惑うような表情を見せますが「助けてくれた人だもの」と笑顔でもっとも無難な答えを返します。この会話のとき、カメラは、まひろと賢子を同じラインの横並びにして、それを真正面から捉えています。二人の関係が、上下関係的な母子ではなく、友人的な母子という対等なものであることが仄めかされています。つまり、まひろの賢子の質問は賢子を叱る、問い詰めるという類いではないということです。
賢子の答えに「それはそうだけれど。あのような言われ方をされても怒ることもなく」と、腹を立てなかったことへの不思議を口にします。すると、これには賢子、「私は怒ることが嫌いなの」とあっさり答えます。速攻、「私にはよく怒っていたわよ」と真顔でツッコミを入れるまひろに他意はなく平常運転です。不思議そうな顔つきで母の答えを受ける賢子を見たまひろは、確認するように「怒ることは嫌いなの?」と問います。頷く賢子は「そうだけど…母上以外には怒っていません」とはにかむように笑います。
これまでまひろが賢子に見ていたのは、決して相手を許さない、あるいは自分を曲げない頑なさです。それは、かつての自分を見るようで、「頑固なところは、まひろによく似ておる」(第39回)という為時の言葉には、思わず笑ってしまうほどに納得してしまいました。視聴者もまひろと賢子、血は争えないと見えたでしょう。しかし、よくよく見てみれば、たしかに賢子は、嘘つきと詰られたときの里下がりのときもまひろ以外には笑顔を見せていましたし、裳着の頃の帰宅でも同様の描写がなされていました。もっとも、その結果、まひろへの当たりの強さがより際立ってもいたのですが(笑)
ともあれ、はにかむ娘を見たとき、まひろは初めて娘の本当の気質に触れたように感じたのではないでしょうか。そして、同時に彼女には、賢子の「私は怒ることが嫌い」という言葉が懐かしい既視感だったでしょう。それは、三郎の頃の道長の言葉、「俺は怒ることが嫌いだから…」です。何かとぷりぷりと怒っているまひろ。三郎のそうした性質に幼心に救われ、惹かれたことが、彼女の道長への淡い恋の始まりだったのかもしれません。
賢子は、そんな道長の気質もどうやら受け継いでいるようです。やはり、「あの人」と私の子なのだ…そう実感したのか、まひろは得心するような微笑を浮かべます。もっとも、怒るのが嫌いなくせに、まひろに関してだけは激情家になるところまで父親にそっくりですけどね(笑)母の微笑に「どうなさったの?」と不思議そうに聞く賢子の言葉に我に返ったまひろは「ううん」と曖昧に答えると「さあ、休みましょう」と火を消します。今夜はよく眠れそうです。
(2)昔の自分たちを投影してしまうこと
ある日、辻を歩いていた賢子と乙丸は、都を闊歩する平為賢たち武者集団の中に双寿丸の姿を見つけます。双寿丸のほうも彼女に気づき「あれが為賢さまだ、強そうだろ?」と得意げな様子です。これから盗賊を捕らえにいくという彼を賢子は食事に誘います。その後、賢子はいとともに為時宅に大量にある書物の虫干しを行っていたのですが、そこに飯を食いに双寿丸がやってきます。「本当に来た!」「来いって言っただろ」という売り言葉に買い言葉な会話に、二人の気が合うようなところが見えますね。「二度と来るなと言い渡したでしょうに!」と飛び出してきたいとに双寿丸は「腹減った!飯飯飯」とニヤニヤします。
そこへ丁度、まひろも帰ってきます。お帰りなさいではなく、「母上まで来られた」という言い方には、賢子の今日は千客万来という喜びが窺えます。もっともまひろは「来られたなんて、ここは私の家ですよ」とツッコミをいれるのを忘れず、土産を渡します。娘の初めての友人にして、想い人になるかもしれない双寿丸に「そなたも息災のようね」と笑顔を浮かべます。渋い顔のいとを除いては、双寿丸を歓待する雰囲気です。
三人で食事をしていると、双寿丸はふと「この家には書物がやたらと一杯あるのだな」と驚いたように言います。書物と共に暮らしてきた賢子は「読みたかったらいくらでも貸してあげるわよ」と、さも当たり前のように返しますが、返ってきたの「俺は、字は読めぬ」というものです。驚く賢子に慌てて、「あ、でも自分の名前だけは書けるぞ」と補足します。
このやり取りに、道長の初対面がデジャヴしてしまったまひろは、突然「足で書くの?」と聞きます。得意げにやっていた三郎のお調子者ぶりが思い出されたと視聴者にはわかりますが、双寿丸と賢子には意味不明です。引きの構図で映されたまひろ手前の奥行あるロングショットでは、訝る二人とまひろの間に流れる妙な空気が表現されています。二人の戸惑いにも構わず、まひろは箸を置くと、改まったように「そなたは…そのような身なりをして、字も書けないなどと言っているけれど、実は高貴な生まれではない?」などと、傍から聞けば素っ頓狂なことをさらに問い質します。
あまりにも同じような展開に、つい娘にも同じ運命が?と思ったとのでしょう。切羽詰まったように問い質したまひろの胸中は複雑だったかもしれません。身分違いの恋の酸いも甘いも知る彼女にしてみれば、娘には同じ目には合ってほしくないと思うの親心でしょう。自分の紆余曲折の半生は、結局はそこに起因しているからです。それでも賢子が、身分違いの恋の宿命に囚われたとすれば、それは道長と自分の子ゆえ。自分たちの宿業の罪深さに暗澹たる思いになると思われます。一方で、もしそうであったとしても、彼らには思い人同士で結ばれてほしいとも願う面もあるでしょう。叶わなかった自分たちの関係を重ねてしまうのですね。
突拍子もないことを真顔で聞くまひろに、双寿丸は耐えかねて「母上、大丈夫かい?」と賢子に助けを求めます。もっとも賢子も訳が分かりませんから答えようがありません。ようやく二人の様子に我に返ったまひろ「あ…ああ…失礼。今のは独り言」と笑って誤魔化します。思いの外、真剣になってしまいましたが、賢子はまひろではなく、双寿丸も道長ではない。当たり前のことを思い返し、気持ちを落ち着けます。
さて、「双寿丸も字は読めたほうが良いわよ、私が教えてあげる」と提案する賢子に「要らぬ、俺は武者だ」と即答する双寿丸。賢子の「そうだけど、人の上な立つ武者なら…」という正論にも「要らぬ。俺は字が読めぬ哀れな輩ではない」と返すところに、武者としての矜持が見えます。まひろは静かに、そして興味深く、双寿丸の自信の理由に耳を傾けます。
まず双寿丸は、「人には得手不得手がある。俺らは体を張って戦うのに向いている。字を読んだり書いたりするのは向いておらぬ。学問が得意の者らは俺らのようには戦えぬであろう。それゆえ武者であることに誇りを持てって…うちの殿様が言っていた」と、平為賢の受け売りを話します。教育に従事している者としては、得手不得手という主観的な基準で自分の能力を測ってしまうことに疑問を感じはしますし、また運動が得意であることは学問を身に着けなくてよい理由ではないと断言します。
ですから、ここでは自分の能力を客観的に把握し、それを伸ばすことに専念することぐらいで捉えておきましょう。つまり、人には役割があり、その役割に専念すべきだという分業の発想ということです。
そして、この分業は、これに続く話が重要です。「殿さまのところで武術を学んでいるの?」と問うまひろに、双寿丸は「一人で戦うのではなく、みんなで戦うことを学ぶんだ」と、個人的な武芸ではなく、組織的な戦術を学んでいると語ります。「みんなで戦う」…この言葉は、まひろの興を引いたようです。まひろの顔つきが少し真剣なものに変わります。双寿丸は「弓の得意な者は弓を引く、石投げが得意な者は弓の射手が矢をつがえている間に石を投げる。弓と石で敵の先手を倒してから太刀で斬り込んでいく…」と語ります。弓と石投げがお互いの長短を補完し合う隙のない長距離攻撃で敵の出鼻を挫く。そして乱れたところで一気に勢いのある接近戦で切り崩すという論理的な戦術です。
その戦術を支える理念についても、双寿丸は「それぞれが得意な役割を担い、力を合わせて戦えば、一人一人の力が弱くとも負けることはない」と、平為賢の言葉として紹介します。平為賢は、理念、部下の掌握の仕方、近代戦のような戦術と、なかなか花も実もある武将であるようですね。
納得顔のまひろは「力を合わせて戦えば、一人一人の力が弱くとも負けることはない」という点に感銘を受けているようです。思えば、まひろの人生は、いつも一人で世間と闘っているような感覚だったと思います。それだけに常々、自身の無力感に襲われていました。もし皆で何かをすることがあったら…そんなふうに思ったかもしれませんね。
「仲間を作れば一人でいるより楽しいし、仲間のために強くなろうと思える」と、力強く語る双寿丸に「と、うちの殿さまが言っていたの?」とまひろが茶化したのは、その点に関心があったということではないでしょうか。もっとも、茶化された双寿丸は「お前の母上一々からんでくるよ~」と賢子に泣きつきます。
一方でまひろは、そんな双寿丸の一々を楽しそうに聞く賢子にも優しい眼差しを向けます。屈託なく笑い合える関係のよさを、まひろはよく知っています。ただ、まひろと道長の場合は、身分差も大きく、結ばれることはありませんでした。
また、気が強く、陰気、空気の読めないまひろは、まひろのことを気に入ってくれた人以外とは、今も昔も上手く人間関係が築けません。しかし、怒ることが嫌いでニコニコと明るい賢子は、誰とでも分け隔てなく付き合えるそんな能力をもっているようです。
そういう彼女であれば、自分とは違った幸せを手に入れられるかもしれない…そう賢子を認め、彼女の恋を応援する気になっているのでしょう。そして、それは、まひろが母親としての役割を終えようとしていることを意味しています。
2.道長の憂鬱
(1)三条帝の攻勢
一条院崩御に伴うさまざまが落ち着いた頃、三条帝は左大臣道長と公任を呼び出します。御簾奥、三種の神器の一つ草薙剣を納めた拵袋がアップで映されますが、三条帝はわざわざこれに触れてから座ります。おそらく践祚してからの習い癖に見えるそれには、彼の帝位に就いたことへの満足と決してその座を明け渡さないという執着心が窺えます。
悠然と構える三条帝の表情には、我が御代に向かう自信が溢れています。気まぐれではなく、着々と計画を進める…そういう狡猾さが滲み出ています。30代になるまで東宮位で燻り、無害を装う経験は彼に老獪さを身に着けさせていると思われます。
その三条帝、早速「内裏に入る日は決まっておらぬが、公任、その手筈はそなたに命じる」と命をくだします。臥したままの道長、公任、それぞれに訝る表情になったのは、何故、公任にその任を振ったのか、その意図を測りかねたからです。「その役目は実資殿がふさわしいと存じますが…」と固辞するのは、儀式典礼の第一人者はやはり実資で、彼に任せるほうが間違いがないからです。公任は自身が、この命に訝る理由を慎重に聞いたというところです。当然、道長も三条帝の意を窺っています。
しかし、三条帝は「実資は実資で頼みごとがある。そなたがせよ」と、尻尾を出すことはなく、強引に押し切ります。こう上からもの申されては、公任も不承不承 「承知仕りました」と応じるより他ありません。「よいな左大臣」と一応、彼の了承を確認を取るあたりも周到です。意図はわからないにせよ、些末なことで対立しても得るものはありませんから道長も「は、既にお上の内裏宣下の日取りを陰陽寮に諮っております」と、お上の意に添うよう滞りなく進めております、という答え方で納めます。
拝謁後、渡りを道長と歩く公任は「こういうのはやりたくないのたがなぁ…」と染々と嘆息します。友人の愚痴に「何を言っておる。そもそもお前は儀式に詳しいではないか」と、お前なら大丈夫だと太鼓判を押します。公任は「わかっておるだけに厄介なのだよ」と知識があるがゆえに細かいところへ神経を尖らせる気苦労を語ります。
儀式とは、長い年月をかけ蓄積され磨かれ継承されてきた伝統、あるいは文化そのものが形を成したものです。その奥行はなまなかではないのです。だからこそ、儀式に精通した上で、実務でどこまで気を配るかという匙加減にも慣れた実資は、重宝されるわけです。荷が重いという公任の言葉には、道長も「ま、気を入れてやってくれ」と、仕方ないというおざなりな励まししか返せません。
しかし、公任がこうした与太話をしていたのはブラフ。すれ違う蔵人を気にしてのことです。当時の蔵人頭の一人は、三条帝が寵愛する娍子の弟、通任。蔵人に話を聞かれて、回り回って三条帝に届くことは避けたいのです。すれ違った蔵人が通りすぎた後、すかさず公任は身を寄せるようにすると「帝は俺を自分の側に取り込んで、我らの結束を乱そうとしておるのではないか?」と、先の拝謁で感じた帝の腹の中、その懸念を囁きます。
公任同様に訝った道長が「それほどの魂胆はおありになるまい」という見解を示したのは、此度の命は、労ばかりで利の少ない務めではないからでしょう。つまり名誉ではあっても恩に着るほど華々しいものではない。これだけでは判断できないということです。ただ、あまり意味のないことにも意を挟むのは、権力を弄ぶ傾向があるとは見えなくもありませんが。
しかし、公任の懸念のポイントは、自分へ命が下った自体ではなく、この仕事の最適任者である実資をわざわざ外したということです。実務において勤勉実直、一条院の実資です。公任は「前の天皇に重んじられていた者は遠ざけたいとお考えのようにみえるが?」と見立てます。
これには道長も一理あると思案顔になりますが、何せ彼の治世は始まったばかり。狙いを見定めるにはまだ情報が足りません。結局、道長は「ならば…振り回されないようにやってまいろう」と答えるにとどめ、ポンと肩を叩きます。しばらくは様子見、ということです。まずは三条帝から下された仕事に向き合うしかなく、改めて面倒と思ったかため息をつきます。
しかし、道長は、公任の見立ての正しさを早々に感じることになります。しばらくして、陰陽寮から内裏宣下の日が出たため、道長は三条帝に諮ります。とういうのも、その日が亡き一条院の49日にあたるからです。「いかがなものでございましょうか」と意見を請う道長に、三条帝は動じることもなく「構わぬ、49日でも移る」と答えます。
このシークエンスの入りは、三条帝のショットから始まるのですが、カメラはローアングルで彼を捉え、自信満々なその様をより傲慢に見えるよう演出しています。したがって、一条院の49日に配慮せず、鳴り物入りで内裏に移る彼の意向が、院の死を悼む気はさらさらなく、寧ろ、その痕跡を消そうとするものであることはより強調されます。道長は特に異を唱えませんが、公任の懸念どおり、三条帝が道長政権の解体を狙っていることだけは確信したでしょう。
その方針は、その後の人事にも出ます。ある日、三条帝は、道綱、隆家、道長と倫子の次男、教通を呼び寄せます。左大臣道長を顔色を窺う彼らですが、三条帝より「そなたらは朕を側で支えよ」と言われれば、嬉しさが込み上げます。彼らの様子に三条帝が満足げな表情になるのは、彼らを取り込めたと確信するからでしょう。
呼び出した面々の出自が巧妙です。道長の腹違いの兄、道長の甥、そして、道長の次男。すべて道長に近しい血縁でありながら、血統としては傍流。それぞれの個人的な思いはともかく、立場的には権力を窺える近さがありながら遠いという鬱屈を抱えやすい位置と言えます。三条帝はそうした鬱屈を時に慰撫し、時に煽ることで道長政権を揺るがそうというわけです。まず身内から切り崩す。一種の離間の計(疑心暗鬼から仲間割れさせ力を削ぐ策)と言えます。
道長は目の前で行われたこの人事に何も言わず、様子見を決め込んでいますが、無論、三条帝の目論見に気づいていないわけではありません。それでも、兄を差し置いて帝の側近に抜擢されたことを不思議がる教通に「名誉なことではないか。ありがたく務めよ」と励まし、彼を喜ばせます。これは、まだ若い教通に経験を積ませてやるよい機会という親心的判断だけではなく、政敵となるだろう三条帝とのパイプを作っておく、保険の意味合いがあるのでしょう。この点は、妍子を三条帝に嫁がせたこととよく似ていますね。
一方、弟に出し抜かれた形になり「何故、教通で私ではないのでしょう」と自分は不甲斐ないのかと落ち込む頼通には「帝に取り込まれなかったことを寧ろ喜べ」と、安堵したように言います。三条帝の離間の計、道長の身内に楔を打つなら、道長と嫡男の間を仲違いさせるのが最も効果的です。しかし、道長と頼通の関係が深く、固いものであれば、それは逆に利用されます。諸刃の剣なのですね。三条帝は、狡猾であるがゆえにリスクの高い手を打てなかったと言えます。
この点は道長にとっては助かったというところです。ですから道長は「お前が先頭に立つのは、東宮さまが帝になられる時だ」と述べ、お前こそが後継者であると改めて励まし、焦らないよう忠告、父子の絆を強化します。
ここまで三条帝側の策略にのみ書いてきましたが、政敵の内情を探り、交渉や切り崩しの材料にしたいのは、道長の側も同じことです。四納言でその任を自主的に務める源俊賢ですが、高松殿の酒席にて、俊賢は「帝の女房を取り込んで、帝のお側近くにお仕え出来るよう図りましたところ…しくじりました」と頭をかきながらため息を漏らします。道長の謀臣として要所要所で調略を務めてきた手練れの彼が珍しく失敗したと言うのです。
三条帝は、自ら調略に乗り出すだけあって、警戒心や猜疑心も強いのでしょう。余程、慎重にやらないと上手くいかない。手ごわい相手だと言えそうです。因みに帝の女房を取り込み、調略に利用するというのは、かつて兼家が道兼にもやらせていた方法でしたね。今も昔も諜報戦では色事で誑し込むというのは常套手段です。
ただ、俊賢曰く「帝がご不快の念を露わになされたそうでございます」とのことで、道長と俊賢の関係を危惧しての拒絶ではなかったことは、不幸中の幸いでしょう。即位直後のこの時期は、露骨な出世狙いの輩は多そうですから、そういう意地汚い人間の一人と見られたのでしょう。また、ここまでの三条帝を見る限り、自分の都合で人や事を動かしたいというタイプのよう。こちらが相手に合わせないと気に入らないでしょう。結局、俊賢は、相手を見定めぬ前に焦り過ぎてしまったということです。ですから、道長は「もう少し考えてやらぬか?」と鷹揚に笑いながら、諭します。酒席の肴の話と収めています。
恐縮しきりの俊賢は、それでも「いや、此度はいささか早すぎたようにございます。されど、道長さまの御ため、再度図って帝のお心をつかんでみせまする」と名誉挽回を誓います。「これ以上嫌われたらどうなさるのです(笑?」と揶揄する明子は相変わらず、兄に辛辣ですが、道長は「俊賢は儀式に詳しい。帝もいずれお前を頼りにされるであろう」と、その調略の成功を信じています。
ここでの道長の言葉は、三条帝が攻勢を強めるなかでも、道長には優位な点があることが仄めかされているように思われます。実は三条帝の調略は、全ての貴族を欲深いものと一括りに考え、その立場に合わせて、その欲を煽ることを主としています。つまり、意のままになる人間を自分の身の回りに置き、政を進めたいのです。
一方、道長は公卿の首座となったときから、慣例を見ながらも適材適所、能力主義で人材を登用する傾向があります。彼は人を見て、政に投入していると言えます。そして、その功績に報いることで、求心力を保っています。ですから、道長の周りには有能な人材が揃っています。人という材を持っている点だけは、三条帝に対しての強みと言えるでしょう。
人の欲望を刺激する三条帝の遣り口と、人の人間性と能力を見極めて登用する道長の方法とどちらが長期的な政権維持に役に立つかは明白でしょう。現状、三条帝のしていることは、政治のパワーゲームに過ぎません。
(2)敦明親王の地位を盤石にしたい三条帝
1011年8月11日、一条院の49日に内裏へと移った三条帝は、道長に「左大臣、朕の関白となってもらいたい。朕の指南役として側にいてもらいたい」と切り出します。顔を伏せる道長ですが、その表情には緊張が走ります。公任が察していた「前の天皇に重んじられていた者は遠ざけたい」という三条帝の意向が、遂に自分に向けられたことを意識したからです。「こう来たか…」との感慨もあるかもしれません。
ここで思い出してほしいのは、内覧右大臣に就任したとき(第19回)の一条帝(当時)との会話です。「そなたはこの先、関白になりたいのか、なりたくはないのか」との一条帝の問いに道長は「なりたくはございません」と即答、「関白は陣定に出ることができません。私はお上の政のお考えについて陣定で公卿たちが意見を述べ、論じ合うことに加わりとうございます」とその理由を淀みなく述べています。
道長は道隆のような専横ではなく、合議によって広く意見を直接聞くことを選んだのですが、このことは、道長は陣定で公卿らの意見を取りまとめる、その求心力で権勢を維持してきたことを意味しています。したがって、三条帝の関白要請とは、道長が長年の努力で築いてきた政治基盤を削ぐための体のいい名誉職を用意したということでしかありません。しかも、三条帝の腹は、道長が関白就任したとしてその意見を聞く気がないことであるのは明白です。
当然、この依頼という体の命令を承諾することはできません。とはいえ、直接断る不敬はできませんから、こういうときこそ神頼み。「ありがたきお言葉ながら、私は今年、重き慎みがありまして、昇進のことは慎まねばなりません。お許しくださいませ」と天命を盾に固辞します。三条帝は「朕はそのほうの長年の苦労に報いたいと思ったのだが…断るのか」と他意のないふりをした上で嫌味を言う三条帝に「申し訳もないことにございます。どうかお許しくださいませ」と念押しし、この依頼を切り抜けます。
対する三条帝は、「それは真に残念なことであるが、泣く泣く諦めるといたそう」と少しも残念そうではない調子で道長の固辞を認めます。驚きもしていませんから、道長がこの提案を飲まないことは承知していたのでしょう。したがって、「その代わり朕の願いを一つ聞け」と別件こそが本題です。それも仕方ないかと思っている道長へ、三条帝は「娍子(すけこ)を女御とする!」と決定事項の通達のごとくに言い放ちます。そして、ついでのように「妍子(きよこ)も女御とする」と言い添えます。
すかさず「お待ちください。娍子さまは亡き大納言の娘に過ぎず、無位で後ろ楯もないゆえ女御となさることはできません。先例もございません…」と道理を持ち出します。「光る君へ」では、上流貴族の娘が入内する場面が多いため、「女御」という位は軽い感じに見えていそうですが、本来、「女御」とは「中宮」に次ぐ地位です。ですから、女王などの皇族女性や、大臣以上の娘しかなれません。それ以下の身分の場合は「更衣」となります。「源氏物語」で身分低く、有力な後ろ盾もない桐壺(光源氏の実母)が桐壺更衣であったことがわかりやすい例になるでしょうか。ですから、道長の反論は正当なものです。
しかし、道理を並べかけた道長の言葉を、三条帝は最後まで言わせず、「関白のことはわかったゆえ、娍子のことは断るでない」と、先ほど、道長が不敬にも帝の提案を断った件を持ち出し、それを不問にしてやるから言うことを聞けと迫ります。そして、議論はここまでと立ち上がり、改めて「娍子も妍子も女御だ」と厳命すると立ち去ります。ようやく、道長は、関白就任打診はブラフで、娍子を女御にすることが主目的だったと悟り、一杯食わされたと愕然とします。道長ともあろうものが、完全に読み違えて、腹芸に負けたのです。
三条帝からすれば、陣定を政の基本とする道長が、それを掌握できなくなる関白位を蹴ることは、織り込み済みだったと思われます。受け入れるならばよし、受け入れなければ娍子を女御にすると最初から企んでいたのでしょう。つまり、道長はどのみち関白を断るしかなかった。もし、関白を受け入れていれば。実権なきご意見番として、最終的には娍子が女御宣下を受けることを見る羽目になったでしょう。つまり、三条帝が関白就任を打診したとき、道長は既に敗北していたのです。
また、先例を盾にしようとした道長ですが、そもそも一帝二后など先例を上手く破ってきたのは彼自身です。こういうときに先例を押し通すには倫理的な弱さがあります。そして、ダメ押しは「妍子も女御とする」という言葉です。娘も上げてやるから感謝しろと言わんばかりのこの言葉は、妍子を道具として最大限に利用したやり方ですね。彼女は、道長にとって三条帝と自身をつなぐ保険ですが、それは相手にとっても同様になります。
このように、三条帝は二重三重に手を打って、娍子を女御とするという目的を達しました。では、三条帝はこのことにこだわったのでしょうか。大切なのは、これは最初の一手に過ぎないということです。官位としては三位相当にあたる女御は、中宮、あるいは皇后候補となります。つまり、三条帝は、己の寵愛する妻を皇后にするための素地を整えたというのが、この女御宣下なのです。
ただ、これは身分が低く軽んじられる愛妻を確実なものにしたいという個人的な愛情だけによるものではありません。皇后となれば、後々は皇太后が約束されます。その彼女の実の息子は、敦明親王です。つまり、三条帝の真の目論見は、自分の目の黒いうちに敦明親王を帝に据える状況を整えることにあります。そのためには、実母を国母になれるようにしておかねばなりません。
三条帝のこの以降は、当の娍子もよくわかっているように見受けられます。彰子が枇杷殿に移り、代わって姸子が藤壺に移り住むようになったある日、妍子は敦明親王を招いて話をします。「兎は小さいながら右や左へと逃げ足が速く…」と狩りの話ばかりをする敦明に「狩りがお好きなのね。もっと狩りの話を聞かせて」とせがみますが、御簾奥で退屈そうに髪を弄り回している彼女が狩りに興味があるとは思われません。
果たして、夢中になって狩りの極意を語る敦明の隙を突いて、はしたなくも御簾から出てきた妍子は、一気に詰め寄ると「す、き♡」と告白します。狩りが得意な敦明が、狩りの話に夢中になるあまり、妍子に狩られるという反転がおかしいですね。「おやめくださいませ」と抵抗する敦明ですが、若い妍子に「だって敦明さまも延子様より私のほうがお好きだもの」と自信満々に迫られては、タジタジです。
「そこまで!」と厳しい声で妍子を制したのは娍子です。溜まりに溜まったフラストレーションの塊、妍子は面白くなさそうに開き直っていますが、ここで娍子は居丈高にはなりません。相手は左大臣の娘。身分も気位も高い彼女を叱りつけるのは、結果的に三条帝と道長の間に無用の軋轢を生みかねません。ですから、「申し訳ございません。我が子敦明が無礼を働きましてお許しくださいませ」と、敦明の非礼を詫びるという下手に出て事を収めようとします。
当然、「母上、私は何もしておりません」と反論する敦明ですが、「黙りなさい。こともあろうに御父上の、帝の女房さまに何ということを」となおも敦明を叱りつけることに終始し、「どうぞお許しください」と平伏します。
勝気な妍子は、娍子が自身へ批判を直接向けてきたのであれば、抵抗し、非難がましい文言も浴びせてきたたでしょう。あくまで平身低頭で謝り、罪のない敦明の非を責める姿を見せられては、やりようがありません。溜まるフラストレーションの出口を失ったまま「もう良いです」と投げ槍に御簾奥に引き下がるだけです。
そして、娍子は、そんな妍子へこの一件を三条帝に内密にしてくれるように根回しをお願いするなど、息子を庇うことに余念がありません。スキャンダルは、敦明を後々、帝にするためには命とりであることを、娍子はよくわかっています。このように三条帝と娍子は一丸となって、敦明親王の地固めをしていこうとしています。
(3)親しき人たちとの溝
三条帝からのさまざまな圧迫のなか、道長にとっての癒しは、まひろの局を訪れることです。関白就任の打診を利用し、一杯食わされたときも自然と足が向きます。局では相変わらず、まひろが「物語」を一心に書き綴っています。一条帝の御心をつかむために始められた「物語」…その彼が亡くなったにもかかわらず、まひろは物語を紡いでいます。「物語」は政治的な役割を終えたのです。
だから道長はじーっと彼女を見つめた後、「まだ書いておるのか」と声をかけたのです。一条院が亡くなられたのに書く意味があるのか、何故書くのか、と思わずにはいられなかったのでしょう。どっぷりと政に染まった道長には、やはり「物語」は政治の道具であることが第一だったということです。
「随分なおっしゃり方ではありませんの。書けと仰せになったのは道長さまでございますよ」と真顔で詰るまひろは、道長の言葉の含意を感じ取ってのものでしょう。一条院が身罷られたから書く必要がないとは、亡き院に対しても、自分に対しても情がないにもにも程があるというわけです。
まひろには「物語」を綴り続けることしか出来ません。一条院の崩御に対する自身の哀しみ、彰子の哀しみ、内裏を覆う暗さ…それらを材とし、物語として昇華していくことだけが、まひろに出来る唯一の鎮魂の形です。
また、物語には始まりがあれば終わりがある。その当たり前をしているに過ぎないという面も当然あるでしょう。道長がどこまでも政治家であるように、まひろはどこまでも作家です。物語を最後まで書ききるのが作家の当然の責務。また一条院が読みたかったであろう「物語」を終わらせることが、身罷った彼への責任を取るということです。そして、まひろに、そんな重責を負わせたのは道長自身です。始めたのは貴方でしょ?と不快になるのは自然な反応でしょう。
まひろの書き手としての気持ちを慮ることなく自らの価値観で気無しに発言したこと、まひろを巻き込んでしまったことを感じた道長は素直に「すまぬ…」と詫びますが、そのままいつものごとく、局の縁側にどかっと座ります。座り方にも疲れが滲んでいますね。ふと思い立ったように「あ…光る君と紫の上はどうなるのだ?」と聞いたのは、詫びの気持ちから彼女に合わせようとする気持ちと純粋に気になって思いが混ざったものでしょう。
筆をおいたまひろは、淡々と「紫の上は死にました」と告げます。振り返る道長、まひろナメで捉えられたその表情は、意外な展開への驚きに満ちています。紫の上の死を過去完了で語るまひろの言葉から「物語」は、39帖「御法」まで書き上げたことになり、第二部完結の「幻」まで後一歩ということになります。
紫の上は「源氏物語」において理想的な女性として描かれ、光源氏の寵愛を最も受け、愛された人です。設定的には幸せが約束されている…その彼女が若くして亡くなる。道長の驚きはそこにあります。しかし、劇中の彼女は決して幸せとは言えません。決定的だったのは女三宮が光源氏の継室として降嫁したことです。それまで正室然としていた自分の立場の脆さを思い知り、心労から体調を崩します。病は寛解することはなく、心労に気づかぬ光源氏とはすれ違いを生じていきます。
ですから、紫の上の死に驚く道長というショットは、紫の上の苦悩に気づかない光源氏と重ねられ、道長がまひろの懊悩に気づいていないというメタ的な演出になっていると思われます。二人の間にも溝が生じつつあるのです。
まひろは神妙な顔つきなものの、あっさりとした物言いで「誰も彼もいずれは黄泉路へ旅立つと思えば、早めに終わってしまったほうが楽だということもございます」と語り、道長を見つめます。まひろの台詞は、まさに晩年出家を求め、許されなかった紫の上の心境に近しいものです。おそらくは、一条院の崩御、彰子の哀しみからまひろがつくづく思い知った現実の虚しさが、紫の上の死へとつながっているのでしょう。その虚しさの根っこには、権勢を欲する道長の言動があります。
因みに紫の上の死に顔は、これまで見たことがないほど美しい顔であったと形容されています。ここには、現実の苦しみからの解放にこそ幸せがある…弟惟規を失い、想い人道長の変貌を見つめたまひろの心象が投影されていそうです。身も蓋もない言い方をするなら、まひろは煩悩から解放される楽の姿を描くために、紫の上を劇中で死なせたということです。作家とは、登場人物を慈しみながら、かくも冷酷になるもの。その本質も窺え、興味深いですね。
まひろがこうした話を振り、真摯に道長を見つめる真意は、「道長さまはそう思うことはございません?」と、道長の本心を探るところにあります。貴方は今、ここまで人を踏みにじり権力を指向して虚しくはないか?というわけです。
まひろの言葉に自身を思い返す道長は、自虐的な苦笑いを浮かべると「今はまだ死ねぬ」と漏らし、再びまひろから目をそらします。優しかった道長が、伊周から呪詛の言葉を浴び、娘へ冷たい一言を放つ、そんな姿をまひろは見ています。彼が苦しんでいるだろうことも察しています。それでも彼は、今は歩みを止める気はないと言う…呆気に取られたまひろの表情は、道長をナメる形で強調されます。
やがて、意を決して、まひろは「道理を飛び越えて、敦成さまを東宮に立てられたのは何故でございますか」は、極めて直接的に真意を問います。回りくどい言い方をやめたまひろを振り返る道長の目に曇りはないようです。それでもまひろは「より強い力をお持ちになろうとされたのは?」と問わずにはいられません。通じ合う二人ですが、傷ついてでも言葉にしなければならないときがあります。
相手の気持ちを探るようなわずかの間…道長はまひろを見つめたまま「お前との約束を果たすためだ」と当たり前のように答えます。口がわずかに開いてしまうまま絶句するまひろの切り返しショット。この軽い動揺は、薄々気づいていたことが確認されたということではないでしょうか。というのも、道長への呪詛を繰り返す伊周の狂態を偶然、見たとき(第38回)、まひろは道長の為政者としての孤独と苦悩を垣間見て、目に涙を溜めました。そこには、彼を追い込んだのは自分ではないのかと感じたように思われるからです。
そして、「やり方が強引であったことは承知しておる」と自身の非を認めた上で「されど、俺は常にお前との約束を胸に生きてきた。今もそうだ」と、あの日から今日までの四半世紀、ずっとまひろとの約束だけを秘めて、それを糧に生きてきたと告白します。
告白…この表現がこの場では相応しいように思われます。道長のこの言葉は、まひろへの変わらぬ…いや、一層深まり続ける彼女への愛を囁いたに等しいでしょうから。若き日の約束を片時も忘れずに生きることは並大抵ではありません。結婚式で永遠の愛を誓うのは恒例儀式ですが、それは変わらぬ愛ではなく、当初より深まる愛でなければ続かないと思われます。その意味では、失礼ながら道長の愛は、かなり重たい(笑)わずかに開いたまひろの目が動揺しているのは至極当然です。
「そのことはお前にだけには伝わっておると思っておる」と言います。これは「私は都で貴方のことを見つめ続けます。片時も目を離さず、誰よりも愛しい道長さまが政によってこの国を変えていくさまを…死ぬまで見つめ続けます」(第10回)と言ったまひろの言葉を今も覚えているという意味でしょう。彼女のこの言葉は、貴方だけを愛し続けますというのが真意です。だから、彼女が見届けているならば…と信じて頑張ってこれたのです。実際、まひろはどこまでも道長を見つめ続けています。やはり、あの日の約束は、互いの生涯を決定づけ、縛り続ける呪いと言えますね。そして、呪いのもとに過ごした長い年月は最早、後戻り出来ないものになっています。
道長は続けて「これからも中宮さまを支えてやってくれ」と言って立ち去ります。敦成を東宮にしたことを強引だったことをよくわかっている道長は、あのときの自分の「女は政にかかわれない」発言に傷つき、そして一条帝の死を哀しむ彰子に申し訳ない思いがあるでしょう。しかし、傷つけた自分に何かを言う資格はありません。
また、彰子が道長に逆らい、意思を持ったことは、ショックであると同時にその成長に対する感慨もありました(第39回)。彼女を導けるのも癒せるのもまひろだけです。将来、彰子とさらに対立することになっても、まひろならば信じられるということでしょう。まひろは道長の告白、彰子を頼むという依頼…そこにある道長の深く重い決意と覚悟に…太く息をつき、自分に何ができるのか、思い悩む表情になります。
一方の道長は、まひろへ自分の思いを告げたこともあり、再び三条帝が仕掛けてくる政争について思考を巡らせていきます。三条帝の目的が、敦明親王を後継者として確立することであることははっきりしてきました。今、道長が気をつけなければならないのは、一つは自身の政治基盤への揺さぶりを最小限にし、改めて公卿らを掌握しておくことです。もう一つは、東宮となった敦成親王が滞りなく、践祚できる状況を整え、足をすくわれないようにすることです。三条帝が、敦明親王の母である娍子に気を配るように、道長もまた敦成親王の母、中宮彰子の状況に気を配らなければなりません。
ですから、行成が、微笑ましい話の範疇で話した、敦康親王が彰子の御簾を超えた件を聞いたとき、「御簾を越えたのか!」と立ち上がるほどに激昂します。過剰反応にも見える道長の反応に「越えられはしましたが、お二人になられたわけではなく、しばらくそのままお話になってお帰りになりました」と行成は、何の問題もないと敦康親王を庇います。
しかし、道長は「信じられぬ。敦康さまが二度と内裏に上がれぬようにせよ」と強硬策を命じます。余りの剣幕に「前の帝の第一の皇子であらせられます。そのようなことはできませぬ」と諭すように抵抗する行成ですが、道長は「中宮さまはこの先、国母ともなられるお方。万が一のことがあっては一大事だ」と政治判断であると取り合いません。彼にしてみれば、三条帝の早々とした攻勢に手を焼いている最中。敦成親王の東宮位を脅かすようなスキャンダルに足元をすくわれることは警戒しなければなりません。次々起こる事態に道長は、頭痛がしてきたのか、頭を抑えます。体調不良の兆候かもしれませんね。
道長の何事も政治的に冷徹に扱う冷淡さに、遂に行成は「恐れながら、左大臣様は敦康さまから多くのことを奪い過ぎでございます」と、その情の無さに明確に抗議すると、敦康の別当として「敦康さまがお気の毒でございます」と諫言します。頭を押さえていた道長は余裕がないのか、誰よりも信頼する友人である行成に「お前は私に説教するのか」とやや高圧的な態度に出てしまいます。普段の道長であれば、こういう言い方をしなかったように思われますが、政争に頭を悩ませていた今の彼は為政者特有の傲慢さを覗かせてしまったのでしょう。
しかし、行成がこうした発言をするのは余程のこと、道長の配慮のない物言いにも怯むことはなく「左大臣様がおかしくおわします!」と目を剥くと、哀しげな表情を一瞬見せて去っていきます。行成は、人の心の機微に聡く、情け深い人物です。そんな彼にとって、一条帝に悲願を諦めさせて敦成を東宮とするよう説得したことは、彼自身に深く心の傷を残しました。そんな行成の心労にも気づかず、道長はまたも敦康の心を傷つけるような命を彼に下そうとする。承服できかねるのも当然です。
また「おかしくおわします!」という抗議には、道長は昔と人が変わってしまったという嘆きが含まれているでしょう。どこまでも政治的であろうとする道長と、人の情けを知る優しい行成との議論は平行線です。二人の思いも加速度的に距離ができていっているように思われますね。
さて、三条帝の敦明親王の立場を強化していく謀は、さらに続きます。ある日、三条帝は「藤原通任を参議に任じようと思う」と左大臣道長に提案します。先に述べたように、この通任は娍子の弟です。つまり、敦明親王の後ろ盾を強化しようという腹づもりが一つ、もう一つは陣定のうちに自身の意向に添う者を入れておきたいという算段があると思われます。
あからさまな遣り口に、蔵人頭として目の前に通任を一瞥した道長ですが「通任は半年ほど前に蔵人頭になったばかりでございます。たった半年で参議にするというのは…いかがなものでございましょう」と、公卿として陣定に入るには経験がまだ足りず、また周りも納得しないだろうと道理を説明します。
しかし、三条帝は「娍子の弟ゆえ取り立ててやりたいのだ」と、愛妻への愛情を訴えながらも、娍子を女御にする一件と同じく帝のご威光で押し切ろうとします。そして、「左大臣も息子たちを取り立てておるではないか」と、19歳と若い頼通を公卿に任じていることを引き合いに出して、多少の依怙贔屓はよかろうと言うのです。
ただ、道長が頼通を公卿に加えたのは、陣定内での自身の発言力を高めるためではなく、嫡男である頼通を自身の後継者として育てる、経験を積ませるといったことが主眼にあります。ですから、道長は頼通に敦成を帝にするという目標を明かした上で、「なすべきは、揺るぎない力をもって、民のために良き政を行うことだ。お前もこれからはそのことを胸に刻んで動け」(第38回)と自らの志を継いでほしい旨を伝えています。
道長が後継者育成を考えるのは、そういう年齢になったからというだけでなく、一度、危篤状態になったことがある道長は、健康に不安を抱えているということもあると思われます。ですから、三条帝が、通任を参議にすることは、見た目は同じでも内情はまったく違うと言えるでしょう。
三条帝にとって、人事とは政務のためでなく、政争のための道具のようです。人の欲望を刺激することで、公卿らを操り、自分の意のままにできる環境を整える手段になっているようです。だから道長の自分の欲を満たすためのものという一面的な捉え方をします。
それは、「朕は左大臣の息子、教通も傍に仕えさせておる。ゆえに通任も参議にしてよいではないか。通任の務めておった蔵人頭が空くゆえそなたと明子の間の子、顕信を蔵人頭にしてやろう。それならば良かろう」という言葉に象徴されています。妍子を女御にしたときと同じく、恩の押し売りでダメ押しを図ろうとするのですね。
しかし、道長はこの手に乗りません。この体のよい懐柔策は、この先、道長を貸し借りでがんじがらめにして、彼を自分の手駒として取り込もうとするものでしかないからです。また、道長にとって人事は、民のための政をするための最適解。ですから、人柄と能力を公明正大に判断し、適材適所に割り振る彼の手法とは根本的に違います。
ですから「ありがたきお言葉でございますが、顕信に蔵人頭は早いと存じます。まだお上をお支えするような力はございません」と通任と同じく時期尚早、経験不足を理由に断ります。「権記」によれば、史実の道長も、顕信の蔵人頭の打診について「不足職之者」(知識が足りず)「衆人之謗」(周りも不自然な人事をよく思わないだろう)を理由に断っています。道長は一貫した姿勢を取ることで足元をすくわれることを避け、三条帝に取り込まれることを巧みにかわしているのです。
今度は三条帝の駆け引きで全敗を避けた顕光でしたが、この内実を何らかの形で知ってしまった当の本人は「父上、私は蔵人頭になりとうございました」と悲嘆に暮れます。というのも、道長と俊賢・明子兄弟との席で兄とともに挨拶に来た顕信は「我々が公卿になる日はいつなのでございましょうか」と出世に強い関心を持ち、「兄上とも私とも歳の違わない土御門殿の頼通さまは既に正二位の権中納言。納得がいきませぬ」と強い不満を募らせていました。それだけに蔵人頭になれなかったことに落胆の色が大きいのです。
道長は「焦るな、今は帝に借りを作ってはならないのだ」と、時が来るのを待つよう諭すのですが、ここで口を挟んだ母、明子が「殿は顕信より御自分が大事なのですね」と、道長を詰る発言をします。道長が借りを作ってはいけないとは、個人的な意味あいではなく、政全体の大局を睨んでのことなのですが、感情的になっている明子は、道長の言葉を額面どおりにしか捉えません。
明子の道理を弁えない浅慮に呆れる道長は思わず、ため息をつくのですが、明子は「参議への近道である蔵人頭への就任を父親が拒むとは…信じられません」と責める言葉が止まりません。さすがに道長は「顕信のことはちゃんと考えておる」と弁明しますが、「偽りを申されますな」と聞く耳を持ちません。「出世争いにならぬようにと、殿が私の子にばかりに損な役割を押しつけて参られました。どの口で…顕信のことも考えておると仰せになるのでございますか」との言葉から、ここ何年かの間に、明子のなかでくすぶり続け、膨れ上がっていた不満が溢れ出ていることが窺えます。
この明子の強い言い分が、「私は父上に道を阻まれたのですね 」と顕信の癇癪の引き金となってしまいます。すぐさま、「私はいなくても良い息子なのでございますね!」と飛躍した論理で泣き出す始末。
父である道長の言葉よりも、明子の言葉のほうが顕信の心を支配してしまうのは、道長と疎遠であったということではなく、高松殿の子たちが幼少期から母である明子の顔色ばかりを窺い、母の期待どおりに振る舞おうとする子どもであったこと(第28回)に起因するでしょう。そもそも顕信が出世に固執していたのは、自らの意思もあるでしょうが、幼少期より、土御門殿の子らに負けるな、争えと明子に育てられたからだと思われます。
この後、世を儚み絶望した顕信は比叡山にて出家してしまい、道長、明子共々に衝撃を与え、明子は「あなたが顕信を殺したのよ」と詰め寄りますが、この件は長年、手前勝手に土御門殿の倫子に激しい対抗意識を燃やしてきた明子にも大きな問題があるでしょう。
しかし、詰め寄る彼女に道長が無抵抗です。それは、ショックの大きさもあるでしょうが、それ以前に明子に言われた「帝との力争いにこの子を巻き込んだあなたを私は決して許しませぬ」との言葉が刺さっていることもあると思われます。長年、政の論理に染まってきたこと、三条帝の攻勢に対抗せねばという意識が、何事につけても政治判断を優先し、人の心を見ようとしていなかったことも事実だからです。
このように、道長の極端な政治的な振る舞いは、冷酷、冷淡と移り、身近な人々に不審を抱かせ、彼らとの関係を疎遠にしてしまっています。その最たる人が、中宮彰子ですが、彼女の場合は飛躍的な成長の結果であり、前向きでしなやかな強さがあります。このことについては、次章で考えてみましょう。
3.彰子を目覚めへと導くこと
(1)悲哀が文才を呼ぶ
一条院が亡くなってしばらく立ったある日、藤壺内の庭で乳母を相手に戯れる敦成を見た喪服の彰子は、「父上の死も知らず、撫子(なでしこ)の花を手にしている我が子が…」独り言を口にしているうちに、「見るままに 露ぞこぼるる おくれにし 心もしらぬ なでしこの花(意訳:我が子の姿を見ていると涙がこぼれます。父が亡くなってしまったことも理解できずに撫子の花を手に取る我が子))とその思いが、自然と和歌となり、口をついて漏れ出ます。
季節は晩夏、「なでしこの花」は「撫子の花」と「撫でし子(可愛がって育てた)が持つ花」の意の掛詞になっています。溢れる思いを、流れるように技巧も取り入れ和歌に仕立てていくあたりに、彰子の並々ならぬ文才が窺えますね。この様子にまひろは「中宮さまがお歌をお詠みになるのを初めて聞きました…」と驚き、知らなかった弟子の一面に感慨深くなります。
まひろの驚きに、振り返った彰子は「亡き帝と歌を交わし合いたかった。もっともっと一緒に語り合いたかった。笑い合いたかった」とやりたかったこと…つまり、帝が亡くなってできなかった後悔を連ねていきます。一条院と彰子は、二人で何かを成していくには、あまりにも短い時間しか与えられませんでした。しかも、ようやくお互いの理解が深まり、その幸福を手にし、これからというときになって、急速にその幸せが手からすり抜けていく…その不条理になすべくもなかった。それだけに、できなかったことが悔やまれるのでしょう、徐々にクローズアップされていく彰子は、自然と涙ぐんでいまいます。
そして、「敦成も敦長ももっともっと抱いていただきたかった」と続けます。親子水入らずの慈しみ合いもこれからでしたし、出来れば、我が子の成長を共に見ながら生きていたかったのでしょう。彰子の言葉にまひろまでも涙を流すのは、一つは彰子のいじらしさとそのいじらしさを分かっていながら彼女を置いて黄泉路に立たざるを得なかった一条帝の無念を思うからです。そして、もう一つは、彰子が語った無念が、まひろ自身が夫、宣孝を失ったときに感じたさまざまな気持ちを思い起こさせるものだったからでしょう。今、師弟は同じような哀しみを共有したと言えるでしょう。
因みに彰子が、一条院を失った哀しみの余りに詠んだ歌には「逢ふことも 今はなきねの 夢ならで いつかは君を または見るべき(意訳:逢うことも今は現実にはあり得ず、泣き寝入りして見る夢で逢えるばかり。いつかあなたに再会できるのでしょうか)」というものもあります。ずっと一条院を求め、夢でも彼を見ています。そんな彼女の切ない心待ちを「なきね」は「無き」「泣き寝」の掛詞に託している和歌です。彰子が、まひろに語った遣りたいことは、こうした夢を見ながら、何度も反芻されたでしょう。
後に彰子は、勅撰集に28首が取られる歌人となりますが、それまで特に歌を詠む気配を見せなかった彼女が急に歌を紡ぐようになったのでしょうか。そこには、「光る君へ」における「書くこと」の考え方があるように思われます。例えば、寧子は「蜻蛉日記」について「私は日記を書くことで、己の哀しみを救いました」(第15回)と言っています。「枕草子」は、傷心の定子を見、苦しむ悲しむききょうが、定子を慰めるために書きました。
まひろの「物語」は、一条帝の哀しみを救うためでしたが、「書いているうちに私は帝のお悲しみを肌で感じるように」(第34回)なったまひろは、そこに自身が人生で味わった哀しみも見聞きした多くの人の哀しみをもその材料として昇華しています。
そして、「書くことで己の哀しみを救う…まひろさまのあのお言葉がなければ、私は死んでいたやもしれません」(第38回)と言ったあかねは、己の哀しみを「和泉式部日記」へと昇華することで「命が再び息づいて」(第38回)いくようになります。そう…「光る君へ」にて登場する文学作品とは、その多くが悲哀をバックボーンとして描かれています。
随筆にせよ、物語にせよ、日記にせよ、和歌にせよ、文学に秘められた情緒の源は、現実のなかではどうにも処理しきれないほどの悲哀なのかもしれません。そう考えてみると、愛する人を理不尽に失う運命に対する無力感、喪失感などさまざまな深い哀しみを得た今の彰子は、皮肉にも和歌の真の心への道も開けたのかもしれません。衛門から学んだ歌の素養、まひろから学んだ漢籍、それらの下地となる教養が既に彰子には眠っています。ですから、悲哀の思いが、詩を含んだ言の葉となって、彼女の口から漏れるようになったのでしょう。
このように、一条院の死、自身の父の強引な遣り口による政の理不尽など挫折が続いた彼女は、これまで学んできた座学と実が結びつき、次のステージへの目覚めとなりそうになっています。
(2)清少納言の慟哭
秋、藤壺では和歌の会を開かれます。49日を終えてしばらく経ったこともあり、未だ彰子の傷心を慰めようという意図であったと思われます。また彰子にしても、東宮を含め我が子二人も抱え、藤壺というサロンを運営する主として悲嘆に暮れるばかりではなく、前向きになる必要はあったでしょう。
一条院没後、「お上と和歌を交わし合いたかった」とまひろに語った彼女です。在りし日の彼がその場にいたら…ということも思ったのではないでしょうか。自身は喪服で御簾を下ろし喪を守りますが、この日ばかりは女房らには平時の装束での会としたのだろうと思われます。ですから、歌会の華やぎは、彰子なりの一条院への鎮魂の意もあったのではないかと察せられます。
歌会は、文才に長けた赤染衛門、藤式部、和泉式部が御前にて歌を披露する形で進んでいくようです。まずはベテラン赤染衛門が「誰にかは 告にやるべき もみぢ葉を 思ふばかりに 見む人もがな(意訳:誰に伝えたらいいのでしょうか。この紅葉を心ゆくまで 共に楽しめる人がそばにいてくれたらいいのに)」と詠み、口火を切ります。
誰かと共有したいほどの紅葉の美しさを詠む衛門の一首には、頼通、頼宗もすぐに感心。宮の宣旨はしみじみ味わい、隣に控える左衛門の内侍も格調の高さに唸るしかないといった反応です(小少将の君はどの和歌にも笑顔です(笑))共に見たい特定の人がいれば、その人を思い、寂しさと哀しさを詩に見るでしょう。ですから彰子の想いを汲んだ和歌になっていますね。
お次は藤式部、まひろは「なにばかり 心づくしに ながめねど 見しにくれぬる 秋の月影(意訳:秋の月を、特別に心を傾けて眺めていたわけではないけれど、見ているうちに涙で曇ってしまった)」とお得意の月の和歌を披露します。
特別な気持ちがなくとも、私を物思いに耽らせてしまう秋の月の冴え冴えとした輝きを詠んでいます。自然に感動させてしまう月の美しさ、そして美しさに誘われて秋の侘しさも感じる…涙の言葉も書かずともわかるのが粋。その涙、侘しさは季節だけか…これまた彰子の一条院への想いを汲んだものと言えるでしょう。まひろの根暗もささやかにあるかもしれません。
まひろ先生のお手並みに破顔するのは彰子、宮の宣旨はこれまたしみじみとします。ただ理知的な彼女の和歌は、左衛門の内侍らにはウケが悪く、しらけた表情。相変わらず、藤壺内でのまひろは人気ないですね(苦笑)
最後は和泉式部、あかねは、「憂きことも 恋しきことも 秋の夜の 月には見ゆる 心地こそすれ(意訳:辛いことも恋しいことも、澄んだ秋の夜空に浮かぶ月には映し出されているように感じられる)」と、身振り手振りを交えて、うっとりと詠みあげていきます。
月の美しさよりも自身の思いに寄せた一首。愛しさと憂いが表裏一体の女心の有り様を月の美しさに見立てたそれは、恋心そのものを歌いあげているかもしれません。そのせいか、深さはともかく恋愛の多面性には疎い、若い彰子とまだまだ10代の頼通、頼宗の反応は微妙。逆に自らの経験にさまざま思い当たり、恋バナに勤しむ女房らはニヤニヤが止まりません。あかねは、藤壺で人気ですね。
皆を代表するかのような左衛門の内侍の「一段と艶っぽいお歌だこと」とは最大限の誉め言葉。ニヤリと受けるあかねは「恋をしているからかしら」とうそぶき頼通に色目を送り、からかいます。真に受けて慌てる初心すぎる頼通。こういう反応がまたかわいいのでしょう。
ここへ清少納言の来訪を告げられ宮の宣旨が彰子へお伺いを立てます。「今日は内々の会ゆえ日を改めさせよ」と興が削げるのを嫌う頼通に「よいではないか、通せ」じたのは、「「枕草子」の書き手に私も会ってみたい」、このことです。一条院を慕い、皇后定子を中宮の指標としてきた本作の彰子ならば、彼らが美しく描かれた「枕草子」は必読書であったと思われます。因みに清少納言の娘、上東門院小馬命婦は彰子の元へ出仕し、「枕草子」の貸出をしていたという記録があります。ですから、読める状況にはあるのです。
この来訪に困惑気味の表情を浮かべるのはまひろです。彰子含む藤壺の面々は知りませんが、まひろだけは、少納言が道長を憎み、藤壺を敵視し、まひろに腹を立て、光る君の「物語」を恨んでいるのを知っています。東宮の件も良くは思っていないでしょう。その人が、敵視するここへわざわざ来る…訝る気持ちと緊張が過ります。
目通りを許され、しずしずと献上品を手に、鈍色の喪服に身を包んだ少納言…藤壺の女房たちの華やかな装いを見て一瞬止まる…という演出がよいですね。彼女は当然のように定子の愛した一条院の喪に服していますが、院を悼む思いは藤壺も同じだろうと考えていたのでしょう。喪服に身を包むのは当然。その彼女の目に飛び込んできた彩り豊かな衣装…目を疑う…というよりもギョッとする光景だったと察せられます。
彼女にとってささやかに追い討ちだったのは、その中にまひろもいたことでしょう。「この人まで…藤壺はどこまで亡き院と敦康さまを愚弄するの」…一瞥した眼差しには哀しみが窺えます。
後にわかる用向きからして、清少納言はおそらく、彰子を慰める敦康の意向を受けた穏便な使者として訪れたのでしょう。長年の忠節と機知に富む才を期待されての人選でしょう。個人的には最早、訪れたくはなかったでしょう(まひろが訝ったのはききょうの心中を理解していたと言えます)。それでも、中関白家への変わらぬ忠義から彼女は役目を謹んで引き受けたと思われます。
そんな自制心も、目の当たりりにした喪を忘れた振る舞いに揺らがざるを得ません。衝撃と襲う哀しみに表情が固い少納言は、「お楽しみの最中に飛んだお邪魔をいたします」と、のっけの口上から刺々しい嫌味、語気の荒さが隠せず、声が震えます。なんとか平静を装い、「敦康親王さまから中宮さまにお届け物がございまして参上いたしました」と敦康からのご機嫌伺いの役目を務めようとします。
おっとりした彰子を始め、藤壺の面々(まひろ除く)は、滲み出る少納言の葛藤には気づく様子はありません。「枕草子」の作者に会えた喜びに胸が膨らむ彰子は「そなたがかの清少納言か」と嬉しげに声をかけます。対照的に表情から固さと暗さが抜け切らない少納言は「お初にお目にかかります」の型どおりの言葉の後、「亡き皇后定子さまの女房!清少納言にございます」と、皇后の女房であり、お前らなどとは違うと抗弁するような名乗りをします。
むきになる時点で既に平時の少納言らしさは無いように思われます。こういうとき、「まさか、藤壺におわす中宮さまが、亡き皇后さまの女房でしかない私ごときをご存知とは…思いませんでしたぁ」とチクチクとユーモアを入れてくるのが、ファーストサマーウイカさんの清少納言ですから。
敦康からの届け物は椿餅です。定子入内のとき、まだ幼い一条帝があげた好きなものは「母、椿餅、松虫」の3つでした(第13回)。入内の儀で緊張する一条帝を変顔で慰めました定子は、彼の好きなものを問「お上の好きなもの、私も全部好きになります」(第13回)と言ったものです。一条帝にとり、元々好きなものだった椿餅は、そのときから定子との絆の始まり、そして思い出の品となったのです。
少納言が「亡き院も皇后様もお好きであられました。敦康様も近頃この椿餅がお気に召して、中宮様にもお届けしたいと仰せになられまして」と殊更、定子と帝の絆、敦康は二人の子と囲い込むように語るのは、一種の挑発であったでしょう。
しかし、敦康をその幼き日から慈しみ、成人まで育てた彰子にとって、敦康への愛情と彼との絆は疑うべくもないもの。少納言の含みのある言葉にも気づくことはなく、ごく自然に、母として当然のように「敦康さまはお健やかか?」と笑顔で近況を聞きます。
自身の刺のある物言いも通じず、その泰然自若とした、母親然とした彰子のさまは、かえって少納言をいらつかせます。かつての定子のような余裕ある雅やかな態度…それは少納言にとって、皇后定子にこそ相応しいもの。一条院の喪に服す様子が見られない女(少納言には御簾奥の彰子の喪服は見えません)に定子のあるべきの姿を簒奪されたようにすら見えたかもしれません。
悠然と構える彰子に、固い表情に薄く張りついていた愛想笑いが消えます。真顔できっと御簾奥を見据えると「もう敦康様のことは過ぎたことにおなりなのでございますね 」と、単刀直入に問い詰め…いや、決めつけます。一気にカメラは引きの俯瞰ロングショットで、少納言の言葉に凍りつく藤壺の緊張を捉えます。
女房たちも頼通らも固まるなか、ぽつねんといる少納言。アウェイ全開の張り詰めた空気でも「このように楽しそうにお過ごしのこととは思いもよらぬことでございました」と鋭い舌鋒は止まりません。「49日過ぎたからとすぐに華やぐとは、中宮彰子の一条院への思いと弔意とはその程度のものか、形ばかりとは底が知れた」…そのように責め立てます。
彰子の心情を知らない清少納言からすれば、藤壺の華やぎに対する非難は正当な面もあるでしょう。「枕草子」の書き手が来たことに喜び、たまたま開いていた内々の会に招き入れた彰子が迂闊であったかもしれません。
しかし、少納言の詰問の奥底にあるのは、定子から一条院の心を奪った彰子への腹立たしさという個人的な感情も窺えます。わずかでも彰子の立場を感じれば、彼女が院を慕う気持ちはわかろうもの。ただ、彼女はそこを決して見ようとはしません。認めたくない。当然、それは、その手助けをまひろや「物語」へのくすぶり続ける怒りとも直結しているでしょう。少納言の言葉に理不尽さを感じるとすれば、あまりに配慮を欠いているという点でしょう。
少納言の思わぬ強い非難に呆気にとられた彰子ですが、神妙かつ哀しげな表情になります。自身の哀しみが理解されないことは辛いですが、弔意はそれぞれ。それを不謹慎に見た少納言の定子への気持を配慮したのか、彰子は言い訳もしなければ、言い返すこともしません。争うことではないからでしょう。
一理あるにせよ、相手の意を慮ることのない度の過ぎた少納言の言い様には、まひろはますます彼女の心情を測りかねる顔つきになります。他の女房たちも少納言の剣幕に圧されたか、言葉はありません。頼通は、御簾奥の彰子を窺います。
こうしたなか、年かさの衛門が淀んだ空気を変えようと「私たちは歌の披露をしておりましたの」と話題を買えます。そして、固く心を閉ざしたような少納言へ「貴方も優れた歌詠み。一首お詠みいただけませんか」と才女、清少納言への敬意を表して依頼します。敦康親王の使者が養母たる彰子に直接的な非難の言葉を浴びせる無粋を、遠回しに嗜める意味合いもあったかと思われます。言いたいことがあれば、和歌に託して詠んでみせては?という提案です。
しかし、そもそも、この華やかな装束で営まれている歌会に帝への弔意の薄さを感じて、怒りと哀しみを震わせる少納言には、衛門の言葉は火に油を注ぐようなもの。かえって激昂した彼女は「ここは!私が歌を詠みたくなるような場ではございません」と言い放ってしまいます。直後に先ほどと同じ引きのロングショット…またも藤壺は凍りつきます。
少納言のこの言葉は、二つの意味合いがあるでしょう。一つは、喪に服し続けないこの歌会自体を詰る表の意味です。そして、もう一つは、彰子の藤壺サロンなぞ真に雅やかなな世界であった定子の登華殿には遠く及ばないという侮辱です。亡き皇后、定子さまの女房である清少納言が、このような低レベルのサロンで和歌なぞ詠めるはずがない!ということでしょう。
心情は理解できても、ここまで言っては、いささかやりすぎ。彰子の立場を慮る様子を見せていた生前の定子がいれば、さすがに少納言を叱ったと思われます。ただ、当の彼女は、定子と登華殿の優位を語り、返す術もない藤壺の面々のさまに少しは溜飲を下げたようです。
再び笑顔になると「ご安心くださいませ。敦康親王さまには修子内親王さまと私もついております。たとえお忘れになられても大丈夫でございます」と、最早、敦康に近づくなとばかりに慇懃無礼をあげへつらうと、御簾奥で涙ぐみ哀しむ様子の彰子を探ることすらせず、傲然と立ち去ります。皆が呆然とするなか、数々の修羅場をくぐり抜けたあかねだけが面白そうに笑っています。彼女にはこういうときに人の本質が見え、その圧巻の振る舞いも含め清少納言に興味を持ったのでしょう。
先にも述べましたが、彰子の人柄を知らない清少納言が、49日後とはいえ、過ぎてすぐの歌会を弔意のない行為と捉え、怒りを覚えたことは仕方のないことです。訪れた清少納言の心中を察することなく、華やかな歌会に招き入れてしまった藤壺側の落ち度と言っても構わないでしょう。
しかし、彼女は、中宮彰子より上位の皇后定子の使者ではありません。中宮彰子を慕い、そのご機嫌伺いをしたい、あるいはつながりを感じたい敦康親王の使者として藤壺を訪れたのです。言わば、彼女は敦康の心となり、目と耳となり、中宮彰子の気持ちを汲み上げ持ち帰り、彼にそれを土産として献上するのが彼女の役目です。そう考えると、終始、喧嘩越しに相手の落ち度ばかりをあげへつらう、殊更、過去の栄光を振りかざす、彰子からの敦康への心は拒否…果たしてこれは敦康の意に敵う、相応しいものであったとは言えません。感情的に自己満足を優先した彼女は使者失格でしょう。かの清少納言のすることではありません。
ですから、まひろは、この顛末にため息をつくのですが、そのことは少納言自身もわかっているように思われます。去り際に、まひろを一瞥したときの憤懣やるかたない表情は、まひろへの恨みがましい気持ちだけでなく、自分を抑えることもない振る舞い他ならぬまひろの目の前で見せてしまったことの羞恥のような悲しみも窺えるのではないでしょうか。
少納言もここまで拗らせ、相手へ当てつけるつもりはなかったのではないでしょうか。しかし、長年募らせた皇后定子への敬愛ゆえの鬱屈は、ふとしたことで決壊するしかなかった…理知的な彼女にも溢れる気持ちには勝てなかった…かつての旧友にだけに送る愛憎の入り込んだ眼差しに宿るものがまひろには見えたでしょうか。
局に戻ったまひろは、早速、墨を磨ります。せわしない磨り方をするまひろの手元が映し出されたことからは、書かずにおれない、居ても立ってもいられない彼女のやり場のやい思いが察せられます。そして筆を取ると…独りごちるように「清少納言は得意気な顔をして、ひどい人になってしまった」と書きつけます。これが、後世、紫式部が語った清少納言の悪口と言われる「紫式部日記」の一節、「清少納言こそしたり顔にいみじうはべりける人」(清少納言は得意顔でとても偉そうにしておりました人)です。
ただ、「紫式部日記」の辛辣な物言いに対して、まひろの「ひどい人になってしまった」との文言には、かつてはそうではなかった人が変わってしまったという変化を嘆く落胆の心情が強いですね。藤壺における清少納言の振る舞いについては、視聴者のなかにも違和感を覚えた人は多いのではないでしょうか。
特に、衛門に和歌を所望されたとき、「ここは!私が歌を詠みたくなるような場ではございません」と啖呵を切ったことは残念に思いませんでしたか。ここは相手の挑戦を受け、和歌一つで登華殿サロンの心意気と格の違いを見せつける…それが「光る君へ」の清少納言の粋というもの…そう感じる清少納言ファンもいたのではないでしょうか。
おそらく、その方々が、今回の少納言に抱いた違和感は正しいのだと思います。本作の清少納言は、「枕草子」を道長への復讐の道具へと転じていくなか、作品の素晴らしさと反比例するように、自らが作り出した影が捨象された美しき過去に生きるようになっていたと思われます。何年もの間、鈍色の喪服で過ごし続ける様は、それを象徴しているでしょう。ソウルメイトの如くシスターフッドの関係にあった定子と清少納言ですから、その喪失感は耐えがたく、そうでもしなければも心を保つことができなかったとは察せられます。
しかし、そうした過去に生き、道長たちへの逆恨みを募らせる長い年月は、ききょうが本来持っていたさまざまなことへの細かな気づき、人の心の機微を汲む観察眼と機転、そして何よりも彼女を彼女足らしめていたユーモアのセンス…定子が愛した清少納言の美徳は摩耗してしまったように思われます。まひろへ「物語」の批評をしたときが、彼女がギリギリ、バランスを保っていられた最後だったのかもしれません。あまりにも長くそうした生き方をしてきた清少納言もまた、後には戻れないのでしょう。かの清少納言に、かつてのききょうはなく…その寂しさが、まひろに「得意気な顔をして、ひどい人になってしまった」と書かせたのでしょう。
そう書きつけても、思いはまったく昇華されません。まひろとききょう、中関白家で開かれた漢詩の会に二人ともして父についてきて参加したあの日から、度々、世情や思いを語らってきた二人です。価値観も志も違う二人が、学問という共通言語で互いを尊敬し、信頼していたのです。下女に変装して、定子の様子を見に行くといったことまでやりました。まひろにとっても、ききょうにとっても、そんな「学友」は互いだけでした。
ただ、いつの間にか、二人の立場は遠いものになってしまいました。定子の死を悼み続け、帝の死にも特別に悼む彼女が、藤壺に対して怒りを覚えた気持ちは理解できなくはないでしょう。しかし、藤壺の女房として彰子を守り、彼女に期待するがゆえにときに導く今のまひろは、決して清少納言が藤壺で犯した蛮行を許すことはできません。互いの敬意と信頼がありながら、年月と共に袂を別っていかなければならないことに、まひろは世の無常を感じたのでしょう。その夜、彼女は一人、孤独を覚えながら、万感の思いで月を見上げるのです。
おそらく、このとき思い浮かんだ一首が、「小倉百人一首」の57番目、紫式部の「めぐり逢ひて見しやそれとも分かぬ間に 雲隠れにし夜半の月かな(意訳:せっかく久しぶりにめぐり逢えたのに、あなたなのかどうかも分からないほどの短い時間であっという間に帰ってしまわれました。まるで、雲隠れしてしまった夜中の月のようでしたね)」なのでしょう。
旧友を思うこの和歌の相手はわかっていませんが、この旧友こそ清少納言だったというのが、「光る君へ」の解釈だったというわけです。「見しやそれとも分かぬ」…あなたなのか分からないのは、彼女がかつての旧友から大きく人柄を転じてしまった…だから「雲隠れにし夜半の月」のごとく、二人の友情の先行きは見えなくなるという含意が、「光る君へ」の場合はあるのかもしれませんね。
紫式部と清少納言が親友…その設定を知ったとき、「紫式部日記」を知る人の多くが、式部の書いた悪口雑言「したり顔にいみじうはべりける人」をどうするんだと思ったことでしょう。その親友ぶり、まひろの後押しで「枕草子」が編まれる経緯を見るにつけ、もしかしたら「紫式部日記」の記述はなかったことになるかと思った人もいたでしょう。
しかし、これを「百人一首」の式部の一首と合わせ技で、強かった友情すらも揺れ動き、変わっていてしまう無常観を表す。まひろの後半生の諦観へつなげていくとは、これはなかなか見事でしたね。今、まひろは、二人の袂を分かたたせた年月と立場、その残酷さ、そして、ききょうは今何を思うのか…己の孤独をしみじみ感じながら、憂いを月に託すのでしょう。そして、同じとき、政争に明け暮れるなか、公私ともに孤独を味わう道長もまた似たような思いで、陰る半月を眺めています。
本当にまひろとききょうは、このまま終わってしまうのでしょうか。ここで鍵になりそうなのは、清少納言の振る舞いを面白そうに見ていた和泉式部(あかね)です。逸話では、清少納言と和泉式部の間では贈答品のやり取りなど、交流があったようです。もしも、この一件で少納言に興味を持ったあかねが声をかけるようになったとしたら、まひろとききょうの関係にもワンチャンスありそうな気はします。
何故なら、ききょうもあかねも、まひろに後押しされて、それぞれ「書くこと」によって己を救った共通点があるからです。その点が再度、まひろへ恩返しのように返ってこればあるいは…文学同好の士である二人の縁が孤独で終わりにならないことを祈りたい気もしますね。
(3)道長への対抗策
清少納言事件は、彰子に哀しみと衝撃を与えましたが、かえって一条院の后たらんという意識を強くさせたようです。史実の中宮彰子は、中関白家に対しての礼儀を決して忘れず、贈り物を欠かさず、手厚く面倒みたと言われますが、本作も彰子もこれを機になおさら定子の遺児たち我が子同然に扱うように思われます。
清少納言にあれだけ悪しざまに言われても前向きになれるのは、彰子の一条院への思慕、定子への敬意が本物であり、信念があるからでしょう。もっともこうした展開は少納言の望むものではないでしょうし、また彰子のしなやかさも面白くないかもしれませんが。
まずは、敦康親王へ文を送ります。以前、彰子は成人後も藤壺に来てよい旨を伝えていますが、賢い彼は敦成が東宮に就いたことで自ら遠慮をしているでしょう。それでも自分を気遣う慕う気持ちから、少納言を遣わし、椿餅を献じてくれたのです。その思いに彰子は応えたいのです。少納言の「もうお忘れになった」とい詰りを真に受けたわけではありませんが、少し疎遠になり、彼を寂しい気持ちにさせたかと、養母として思ったのはあるかもしれません。
果たして、彰子の真心を知った敦康は、うきうきと藤壺へやってきます。「御文を頂戴し、いつでも来てよいと仰せいただきましたので、飛んで参りました」との挨拶に誇張はなく、本当にそうなのでしょう。ふと気になるのは、清少納言はあの日のことをどう伝えたのかということです。敦康の彰子への思慕を慮り、元気な様子だったということのみ伝えたのか。
それとも、彰子へ「たとえお忘れになられても大丈夫でございます」との強気な弁のとおり、彰子と藤壺の行為を不実と詰ったのか。前者であれば、少納言は喜び勇んでいく敦康を寂しく見送ったのでしょうし、後者であれば、諫めても止まらぬ敦康に不満を溜め込むことになったでしょう。
もっともいずれであっても、敦康は、彰子の一条院への思いも自分との絆も疑うことはなかっただろうことは間違いありません。お互いが、お互いを光と思って支え合った年月は、余人の半端な介入で崩れるようなものではないということです。同時に、敦康自身が、実に賢く、そして思慮深く、心遣いのある青年に育ったということでもあります。例え、藤壺の歌会の話を聞いても、「在りし日の父との思い出を偲ばれてそのような会を開かれたに違いない」と好意的に解釈したと思われます。
とはいえ、前回の愚を犯して、竹三条宮の人間を、ましては父を亡くした敦康を迎える不用意は、藤壺もしません。無論、彰子はそのとき同様、鈍色の喪服に身を包んでいますが、傍に控えているまひろもまた喪服であり、藤壺全体に喪中の空気に満たされていることが窺えます。当然、喪中ということもあり、御簾を下ろしたまま、彰子は「いつぞやは美味しい椿餅をありがとうございました」先日の礼を丁寧に述べるのですが、敦康にはそれが不満です。二人は実の子ではなくとも親子です。
「中宮さま、お顔が見えませぬ」と不平を口にする敦康に、まひろは驚き、彼についてきた別当の行成も戸惑う表情を見せますが、敦康にすれば親子の間に隔たりがあることが不自然です。しかも久しぶりの再会、彼は対面を期待して参上したのです。
すると、敦康、「せっかく参りましたのにお顔が見えねばつまりませぬ」と言うと、突如「ご無礼仕ります」と立ち上がり、御簾を上げ、その境界線を越えてしまいます。あり得ない行為が唐突に行われ、「親王さま!」と声をあげる行成が止める間もありません。
さすがに呆気に取られる彰子。御簾の内に入ると彰子の目の前にふわりと座った敦康はいたずらっぽく笑います。こうした振る舞いは、元服前、確信犯的に「お許しくださいませ~」と彰子に膝枕をしてもらっていた頃の彼と変わりません。敦康は、驚く彰子を安心させるように「光る君のようなことはいたしませぬ。ただお顔が見たかっただけでございます」と微笑します。
一条院の生前、藤壺での「物語」朗読会(第40回)で、藤壺中宮の光源氏への思いをまひろに尋ねた敦康に、道長は「たとえ藤壺の思いを得たとしても、光る君は幸せにはなれなかったと思いますが。不実の罪は必ず己に帰ってまいりますゆえ」と、珍しく口を挟みました。あかねの「罪のない恋なぞつまりませんわ(笑)」のおかげで、あの場は笑いに包まれましたが、敦康だけは、道長が何を気にして、自分を牽制しているのかに気づいたのではないでしょうか(まひろも察していたでしょうね)。
おそらく、彼が藤壺来訪を遠慮していたのは、その誤解を恐れてのことだったのでしょう。しかし、一方でそうした誤解は解いておきたかったに違いありません。敦康は彰子が本当に困ることを欲しない優しい人ですから。
ですから、冗談めかして、それを口にするのですね。勿論、彰子は敦康が光源氏化して襲い掛かるなど考えたこともありません。一流のユーモアと受け取った彰子は破顔して、笑います。養母彰子の笑顔に敦康も安心して笑います。まひろや行成の困惑を他所に、彰子と敦康は親子の和気藹々とした雰囲気を取り戻し、久々の和やかな時間を過ごします。そもそも、一条院を失った哀しみを最も共有し、癒し合えるのはこの二人なのですから当然のことなのですね。
この敦康の言動を必要以上に危険視するのは道長です。先に述べたように道長は、敦康の思慕の強さ自体も危惧していますが、それ以上に国母となる彰子にスキャンダルが、噂レベルでも起こることを恐れています。道長にとって重要なことは、東宮となった敦成を無事、帝として擁立することです。そのための三条帝との暗闘は既に始まっています。いかなる不穏の種も摘み取っておきたい。しかし、敦康を抑えるための別当である行成は、道長の敦康を内裏に来させないようにするという命に不服従です。
そこで道長は、彰子を遠回しに忠告することにします。「敦康さまは既に元服され立派な大人にございます。これまでのようにお会いになるのはいかがでございましょうか」との忠告は、親子とはいえ血のつながらない成年同士で頻繁に会うことははしたないと暗に示すような物言いをします。やましいところが一切ない彰子は「左大臣は何を気にしておる?」と、その意図を測りかねると問い質します。やはり、彰子はここでも「父上」と呼ばず、「左大臣」と呼んでいますね。道長への不審、そしてそれゆえに距離を取ろうとする彰子の姿勢が窺えます。
さすがに敦康と彰子が、光源氏と藤壺中宮のようになることを恐れているとは口にできない道長は「敦成さまと敦長さまを慈しみくださいませ」と、敦康に言及することを避ける曖昧な言葉を消します。「物語」に影響され過ぎた道長の危惧は、そもそも、まひろにすら一笑に伏され、呆れられています。彰子が聞けば、不敬の極みとも言える妄想に腹を立てることでしょう。今更、言われることでもないことを指摘された彰子は、ますます不審そうに「そうしておる」と返しますが、道長は表情を変えることなく「今よりなお、お慈しみくださいませ」とだけしか言いません。
謁見後、彰子は、要領を得ない道長の忠告に「父上は敦康さまを弾き出そうとされておるのだろうか」と解せないという表情で、まひろに問います。まひろは、道長の妄想的な危惧も知っていますが、一方で敦成を東宮位に就けたことは、民を救う政をするというまひろとの約束を叶えるためだという変わらぬ純真も聞かされています。ですから、「敦成さまを東宮とされたゆえ敦康さまの様子が気になられるのでございましょう」と、あくまで政治的な理由である点を指摘するに留めます。
その上で「中宮さまと皇子さま方のお幸せを心から願っておられると存じます」と道長の親心の面も付け加えてフォローします。殊更、二人の対立を煽ることは避けたいのでしょう。自分のために無理をしている道長が、彼なりに娘を思っているのも事実です。
しかし、彰子は道長の意向を理解した上で「されど、この先も父上の意のままになりとうはない」と明確な意思表示を示します。東宮位を巡る一件で、政に関われぬばかりに最も大切な一条院の思いと敦康の立場を守れなかったこと…その挫折で味わった無力感と虚無感に彰子はやり場のない悲嘆に暮れたものです。その後、正式に敦成が東宮となったとき、彰子は道長に対して「東宮さまを力の限りお支えせよ」と毅然と言い放っていますが、おそらく、二度と自分の大切なものを奪わせないという秘かな決意が言わせたものだったでしょう。
それは、かつて懐仁(一条院)を守ると決めた詮子の心情によく似ています。ただ、詮子は頼りになる味方がおらず、己自身が最も嫌う父と同じ狡猾な謀略に手を染める以外にありませんでした。最後まで政治的な振る舞いを貫いた彼女の生涯が幸せであったか否かは、その末期に表れているでしょう(第29回)。彰子は、詮子と同じ道を歩んではいけません。
幸い、彰子には、まひろという心強く、信頼に足る導き手がいます。まひろは、彰子の強い意思に心が動かされます。まひろはさまざまな挫折から、自分自身がこうした世界に踏み入れることはできませんでしが。しかし、彰子は挫折を糧として、自分の役割を意識し、さらに高みを目指そうとしています。弟子のしなやかな強さに、何とかしてやりたいというのが人情です。
さらに彼女は、局での告白で言われた「これからも中宮さまを支えてやってくれ」との言葉が頭をよぎったのではないでしょうか。この言葉は、自分の強引な謀で傷ついた娘を頼むという親心ともう一つ、道長に逆らった娘の強い意思を導いてやってくれという娘を認める思いの二つがあると思われます。彰子の意を汲み、それに助言することは、道長の意思でもあると言えるでしょう。
こうして思案するまひろの脳裏に浮かんだのは、先日、心から感心した双寿丸の「一人で戦うのではなく、みんなで戦うこと」です。残念ながら、今現在の彰子の力は微々たるものです。道長に太刀打ちするべくもありません。また、今や絶対権力者となりつつある道長に勝てる者も早々に見つかるものでもありません。あまりにも非力です。しかし、双寿丸は平為賢の受け売りでこう言いました。「それぞれが得意な役割を担い、力を合わせて戦えば、一人一人の力が弱くとも負けることはない」と。皆が志を同じくして、一丸となることが大切。希望はまだあるのです。
このようなことが、まひろの頭を高速で駆け巡ったのでしょう、まひろは、これしかないと確信したように「ならば、仲間をお持ちになってはいかがでしょう」と提案します。ただ、仲間を作る、ことは、簡単ではありません。どういう人間を仲間にするかが大切です。利害関係で結ばれた関係は分かりやすいですが、それを維持するために駆け引きをする必要があります。それを繰り返している、やがては詮子の二の舞、あるいは今の道長と同じになってしまいます。
そこで、まひろは、「中宮様には 弟君が大勢おられましょう?みんなで手を結べば、できないこともできます。中宮さまがお一人で不安になられることもなくなりましょう」と、老獪ならざる若き兄弟たちとのつながりと純真さを当てにすることを提案します。
早速、彰子は、同腹の弟である頼通と教通、そして腹違いの弟、頼宗と顕信と双方を藤壺に呼びます。バラバラに呼ばず、一同に介させるのは結束力を高めることと、もう一つは、土御門殿、高松殿という出自の違いで、差別化を図らないという意思表示にもなっています。嫡妻の土御門殿の子どもらと妾の高松殿の子らと明確に差別化して扱う道長とは対照的です。そして、道長の嫡妻へ配慮した対応は、顕信の出家という決定的な事態を引き起こしてしまいます。因みに彰子のほうははと言えば、皇太后になった後、高松殿の長子、頼宗を皇太后権大夫に任じて、彼の後ろ盾になっています。
さて、今更、何故、全員呼び出したのかと問う頼通への回答も兼ねて、彰子は「私は早くに入内したゆえ、そなたらとは縁が薄い。それも寂しいとこの頃つくづく思うようになったゆえ、こうして声をかけた。皆によく集まってくれた。礼を言います」と弟たち全員を見回すように謝意を述べます。如才ない頼宗は「我らもお招きいただき、ありがたき幸せに存じます」と穏やかに礼を述べ弟の顕信を紹介します。
緊張気味の彼を見ると、彼の強気は母親の前の内弁慶で、実際はナイーブだったのだと思われます。蔵人頭になれなかったこと、母の父を詰る言葉から、自身をいらない子と儚んでしまったのは、この弱気に誰も気づいてあげられなかったからかもしれません。もっと早く、彰子と深く結びついていたら、その運命は変わったかも。
一方、直系の弟、教通は「そう言えば幼い頃、姉上とお話したことはございません」と遠慮がありません。教通の物言いにも怒ることはなく「私は口数の少ない子だったゆえ」と笑うと「でも教通のことはよく覚えておる。駆け比べの好きな子であった」と言います。その言葉に彼は「母上が喜ぶのでそういうことにしておいたのでございます」と悪びれなく笑います。
息子の好きなものがわかっていると詮子に話した内容(第28回)のオチがおかしいですね。子どもは幼いながらも、母親の顔色を窺うものです。しかし、彰子すら「駆け比べ」が好きに見えていたのですから、おそらく教通は倫子の喜ぶ顔が見たくて、何度も何度もそれをやってみせていたのでしょう。お母さんっ子だったということです。ですから、彰子が覚えてくれていたことは、彼にとって嬉しいことだったはず。彰子は弟とたちの心をきちんと捉えている…という点がここでは重要です。
そして、彰子は「そなたらが困った時は私もできる限りのことをするゆえ、東宮の行く末のために皆の力を貸してほしい」と、彼らに頼み事をする代わりにさまざまなことへの後見を担う約束をかわします。実際、彼女はこの後、彼らを影日向で後見し、後世に言われる摂関政治を支えることになります。民のための政…道長の志も知る頼通は、一同を代表して「もちろんでございますよ、姉上」と答えます。
一同の一致を見たところで「我らは父上の子であるが、父上をお諌めできるのは我らしかおらぬとも思う」と述べ、「父上のよりよき政のためにも我らが手を携えていくことが大切だ」と将来を見据えて、弟たちをリードします。
彰子が弟たちを自らの派閥に加えていく上で巧かったのは、敦成親王を支えることを依頼の中心とし、「父上のよりよい政のため」と言うことで、殊更、道長との対立を目立たせず、それでいながら、「父上をお諌めできるのは我らしかおらぬ」と、この集まりの目的を混ぜ込んだことでしょう。これであれば、弟たちは姉の味方にすんなりなれます。
仲間を持つことを提案したのはまひろですが、その文言を考え、巧く図らえたのは彰子の力量です。やはり、彼女は王の相を持つ人材なのかもしれません。その意味では、道長の血を最も濃く引き継ぎ、それでいて彼よりも才があると言えるでしょう。
おわりに
一条帝の御代が終わり、道長が摂政へと進む将来が開けたはずですが、思った以上に手ごわい三条帝の策略に道長は翻弄されます。それは、彼に対抗するため、政そのものよりも政争に気を配らざるを得なくなっていることに表れています。結果、その非情の言動は、親しき人たちとの軋轢を生む結果となってしまいました。道長が、まひろとの約束を叶えるときは、近づいているようでどんどん遠ざかっているようにも見えます。それは、おそらく道長自身が忸怩たる思いとして感じていることでしょう。道半ばゆえに、ベテランになってなお、道長は「今は死ねぬ」と気を張るしかありません。
一方、これも世の不思議というのでしょうか。道長の意図せぬところで、道長の志を継ぐような次世代たちの動きも見られるようになってきました。彰子の存在は、その代表例と言えるでしょう。賢子を見るまひろの眼差しからもわかりますが、こうした若者たちはまだまだ未熟で危なっかしい反面、実はまひろや道長よりも物事に明るく、上手くやっていけるようなそんなポテンシャルを垣間見せています。
志半ばで諦めきれぬ中年期に台頭する次世代…老境に差し掛かろうとする今、どう道を歩み、後進に譲っていくのか。それを考える時期に、まひろも道長も来ているのかもしれません。