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「どうする家康」第16回「信玄を怒らせるな」 信玄の悲壮な決意と家康の精一杯、その対比に見える君主のあり方

はじめに
 第16回は、三方ヶ原の戦いに向かうまでの家康と家臣団の決意を丁寧に描いた回となりました。山岡荘八「徳川家康」を初め、三方ヶ原の戦いの通説は30代前半の血気にはやる家康が無謀にも最強武田軍団に挑み破れるという形で描かれます。
     謂わば、家康の生涯唯一の負け戦の原因は「若気の至り」です。それだけに後年、信玄への敬意を深くし、彼によく学ぶという家康の姿につながるわけです。


 しかし、この若気の至りは、勇猛果敢な神君家康公なれば簡単ですが、「どうする家康」の穏やかで弱虫泣き虫の家康では単純にこうはなりません。そこで第16回では、真綿で首を締めるような信玄の策へのリアクションとして、戦わざるを得なかった家康の心情と状況の経過を追う構成になっています。
 こうした展開は、家康の対処があながち間違いではないからこそ彼の焦燥感に説得力が出ます。言い換えるなら、これまで積み重ねられてきた家康の成長によって可能になった構成。
    勿論、家康の成長はまだ中途半端、通過点に過ぎません。第13~15回にかけて、彼には大局的な視点や視野の広さがまだ足りていないことが明示されています。それ故に今回は、家康の精一杯の策がことごとく信玄に見抜かれ、潰されていく…終始、家康が信玄に圧倒、圧迫されていく流れにならざるを得ません。


 それは武将としての格の違いによる戦略面の差ですが、一方で劇中、家康が信玄に食われるキャラクターになり果てたかと言えば、そうでもありません。終盤の家康と家臣団のやり取りに胸を熱くした視聴者も多かったはずです。それは武田軍の出陣に勝るとも劣らない。
    このように双方のあり方がそれぞれ際立つのは、第16回が、家康と信玄が対比になるよう慎重にバランスを取り、それぞれの価値観を描いた結果です。寧ろ、不自然なほど信玄側の事情をこれまで以上に丁寧に描き込んでいるのが、今回の特徴です。

 それでは、わざわざ家康と信玄を対比させて、何を描こうとしたのでしょうか。今回は、二人の対比をとおして、その狙いを考えてみましょう。


1.信玄との戦が避けられぬと悟るまで~家康の成長とその成果~
(1)井伊虎松を放免した家康の成長
 黒く不穏なタイトルバックから始まる今回は最初から様子が違いますが、家康側の物語は前回の続き、美少女戦士、井伊虎松による家康襲撃の顛末から始まります。後の四天王、井伊直政の衝撃のデビューですが、そのインパクトよりも家康を襲った理由とそれに対する家康の処置が印象的です。

 まず、虎松の「お前が俺の家をめちゃめちゃにした」という徳川家への恨み骨髄、いや逆恨みの原因は「おんな城主直虎」で再確認して頂くとして、ここでは「信玄こそ次の君主に相応しい」という発言が問題です。


 前回、信玄が碁石金を、歩き巫女の間者、望月千代女に「民を救ってやらねば」とどっさり渡し、調略を暗示していましたが、その性質が描かれました。
 度重なる戦で疲弊した地侍や民たちを抱き込み、潤沢な資金でその暮らしを支えることで、彼らの心をつかんだのです。これは、三河一向一揆編の空誓上人らのやり方を思い出しますね。民や地侍にとっては明日の米が食べられる、そのことが一番重要なのです。恩義は心に刻むものではありません、お腹に刻むものであることを信玄はよく分かっているのです。そして、それこそが忠誠心と民心の源です。
 言い換えれば、腹を満たすことこそが洗脳の第一歩としてもっとも有効とも言えますね。だから、虎松は自発的に「自分たちに相応しくない主君」を討とうとしたのです。


 「どうする家康」が、英雄性というものに対して比較的容赦がないのは、仁義礼信智忠孝悌といった後世の武士たちがありがたがる美徳を空虚で無意味なものとして扱う点に表れますね。その美徳で弱者の貧困や飢えという現実を救うことはできないからです。それだけに彼らの望むものも与えず彼らの民心だけを買おうとする領主や君主の傲慢さを時折、こうした形で指摘します。
 本作には、君主が民を支配するのではなく、民や家臣のほうが君主を選ぶのだという想いが底流しているように思われます。
 この場合は、家康たちは信長と室町幕府に引きずられての戦だったとはいえ、遠江の支配、民の暮らしを支えることを疎かにしてきた。そのことを突き付けられたのです。そもそも、民が苦しんでいるときに戦などもってのほかです。



 だからこそ、いや、三河一向一揆で民や家臣の本音を知り、そのことに胸を痛めた経験があるからこそ、家康は虎松を放免するのです。家康の「この者は遠江の民の姿そのものなのだ」という言葉には、彼の成長が見られますね。彼の判断が、三河一向一揆からの学びで裏打ちされているからです。
 そして、彼が次に敵にならぬよう、つまり、民を敵にしないような善政をすることが自分たちの使命だと忠勝、元忠、康政を説き伏せます。前回、呑気に浜松を視察しているようにも見えましたが、ちゃんと民を見ようと努力してはいるのですね。
 ただ、この理想は平時であれば長期的な施政で済むのですが、現実は武田の調略の結果であるため風雲急を告げるであることが問題です。


 因みにここで虎松を登場させ、武田家への心酔を語らせたのは、後年、直政となって武田家の遺臣を抱え山県譲りの赤備え軍団を組織することへの補助線ですが、単なる登場に終わらせず、彼の存在を遠江の代表として、三方ヶ原の戦いへの前哨戦に組み込んだのが巧いですね。
 このときの虎松が9歳だったというツッコミは当然出てくるでしょうが、40年前の大河ドラマ『徳川家康』(山岡荘八原作)では、引馬城攻防戦時に田鶴の使者としてが初登場でしたから、更に幼い(演ずるは当時18歳の豊原功補さん)。まあ、昔から時代考証より創作が優先された案件なのかもしれませんね(笑)


(2)信長の「信玄を怒らせるな」と人質問題
 さて、信玄の遠江調略が明らかになり、しかも民に浸透している根の深さゆえに、対策を話し合うことになりますが、ここで家臣から家康に突き付けられるのは、以下の二つ。

 1.信玄に比べて家康は何もかも足りない=十やったら九負ける
 2.「信玄を怒らせるな」は、同盟を組む信長の意向

 1については、第13~15回において、家康には先のことを考える大局的な視点と広い視野が欠けていることが示されています。特に姉川では、数正、忠次の両宿将から指摘されました。また単純に兵力も足りず、まして遠江を実行支配出来ているとは言い難く、兵糧もままならない。となれば、戦は下策でしかありません。
 「十やったら九負ける」という言い得て妙な言葉は、第二章のこれまでの回で十分に家康の未熟さが描かれている以上、視聴者は納得するしかないのですが、家康自身が実感するのは少し後です。


 そして2の信長の意向は、第11回で信玄も言及していますが、信玄の四女と信長の長子が婚約しており融和政策を取っていたことに関わります。また、本作では描かれていませんが、信長は信玄と彼の宿敵、上杉謙信との和睦を進めていました。
 だから、この後に起こる信玄の西上作戦は、信長にとって寝耳に水であったというのが、最近の説です。そうした時代考証を背景にした信長の外交政策が「信玄を怒らせるな」です。結果的に信長は裏をかかれ、出し抜かれますが、本作がそこをどう描くかまではわかりません。

 とはいえ、信長よりも先の見えない家康を縛るのは、前回、信長からかけられた「これからも判断を間違えるなよ」という言葉です。数正&忠次の諫言から、改めて信長との同盟を重要視せざるを得なくなった家康には、戦をいかに避けるかしか手がないのです。
 その覚悟は、自分を慕い、彼のように絶えてみせると望んで武田の人質になった義弟、源三郎の惨状を知りながら、母於大の方に事実を伏せ、彼を犠牲にする決断にも見えます。何度も彼を思い出しては、葛藤する家康ではあっても、彼なりに将来を見据えた方策を立てていると言えましょう。


 しかし、三河の地にまで信玄の調略は確実に進みます。忠世が思わず指摘した通り、氏真の二の舞です(第11回で見せておいた信玄のやり方が効いて来ていますね)。そこで、苦肉の策として、家康は信玄の宿敵、謙信を牽制に使おうと書状を送ります。家康が信玄対策に早くから謙信との交渉を図っていた史実をようやく組み込んできましたね。
 謙信との交渉を、この場面で思いついたことにしたのは、足りないと指摘された大局的な視点を彼なりに取り入れて戦略を立てようとしているからです。信玄の軍門に下ることなく、対等に立場に立ち、戦を避けようと必死になっているのがわかりますね。

 つまり、義弟を見捨てることも、謙信に書状を送ったこと(夏目広次に諸刃であると指摘されましたが)も、現時点での家康がやれる最善の策をひねり出したのだと分かります。
 だからこそ、その策が全て見破られ、潰されたとき、家康は「怒らせようが怒らせまいが最初から遠江を攻めると決めている」という信玄の本意を悟ることが出来たのです。勿論、第16回の合議の席で数正の口から改めてわざわざ出された、信玄との密約「切り取り次第」の言葉が響いているのは言うまでもありません。

 最初から、彼は戦うか、軍門に下るかの選択肢しかなかったことを自覚したとき、そして家臣たちが言う「信玄に比べて家康は何もかも足りない」という言葉を自らの無力さから実感したとき、信玄から救出することを許された源三郎からの信玄の言づて

「弱き主君は、害悪なり」
「滅ぶが、民のためなり」
「生き延びたければ、我が家臣となれ」
「手を差し伸べるは一度だけ」

が届くのです。史実を巧みに組み込みながら、追い詰められ、そして信玄に真意を悟る家康の心情描写が丁寧に描かれていますね。そして、それは信玄の圧倒的な存在感、言葉の重さ、そして老練な狡猾さの演出にもなっているのが秀逸です。


2.実力主義の信玄が抱える苦悩~最強の裏にある小心さと弱気~
(1)過酷な環境として描かれる甲斐国
 家康サイドからは圧倒的な兵力、潤沢な資金、網の目を張り巡らせた諜報網、狡猾な戦略、冷酷非情なやり方と戦国最強そのものにしか見えないのが武田信玄とその軍勢です。家康が追い詰められるのを描くだけならば、その悪の権化のようなその姿でも十分ですが、第16回はその裏側に迫っていきます。

 特に二つの点が象徴的です。
一つは、冒頭から描かれる甲斐の若者たちの修練場です。人質である源三郎を人質とも思わず乱暴に扱っているかのように見えるこれが、当の源三郎によって、これが甲斐の一般的な若者たちに課される訓練であり、これに耐えられない者は生きることが許されない社会であるということが伝えられます。「彼らは化け物でございます」という源三郎の言葉どおり、家康の側からすれば正気の沙汰ではありません。
 実際、修練場の様子は暴力で暴力に対し、そこから勝ち上がっていくことを求めています。「北斗の拳」に登場する、全ての男子が殺し合い修羅となることを強要される修羅の国そのものです。まあ、武田ルシウス信玄のせいで、コロッセオで戦う剣闘士の修練場にも見えますね。うん、顔が濃いだけではなかった、やはり甲斐は(スパルタを併呑した)ローマ帝国だったのか。という誤解を生んでも仕方がないインパクトです。

 しかし、何のためにこんな不自然にも思える過酷な修練場を繰り返し、挿入したのでしょうか。信玄は、勝頼に甲斐の山奥に生まれたことを恨んだと語り、もっと田畑があれば民を豊かにでき、世の中を平らげられたと言います。つまり、甲斐という国は農作物が取れない痩せた土地しか持たない貧しい国…食い扶持を手に入れて生きていくことが難しい過酷な環境であるというのです。
 したがって、鍛え上げた強い身体で過酷な環境を耐え抜き、生きるためならば誰かから何でも奪い取る強靭な精神力が必要になります。弱い者は死ぬ以外にない弱肉強食の世界、それが甲斐なのです。勿論、現実の甲斐ではなく、あくまで「どうする家康」劇中の甲斐のことです。
 だから、あの修練場は若者たちに生きる術を獲得させるための、必要不可欠なシステムでしかありません。そこには人間の冷酷さ、非情さはなく、ただただ過酷な環境という現実があるだけです。寧ろ、わずかでも食べ物が与えられ、寝る場所もあるあの修練場を生き延びられないならば、どのみち甲斐では生きてはいけないのですね。弱肉強食こそが甲斐の価値観なのです。


 当然、その甲斐に君臨する君主は最強であることが求められる。ルシウス信玄の堂々たる体躯とあの槍捌きも納得できますね。かつて、父信虎を追放したのも、その結果なのでしょう。
 無論、その跡取りとなる新たなローマ人、ゴードン勝頼にもそれは求められるため「信玄の息子は誰よりも厳しく鍛えられて」いるのでしょう。実際、眞栄田郷敦くんの体捌きが素晴らしく、目つきも相応しい強さでしたね。そう言えば、お父様の千葉真一さんは大河ドラマ「風林火山」で信玄の傅役、板垣信方を好演していましたが、こちらも無敵の刀術でしたね(笑)恐るべし、武田軍。

 

 さて、民が求めるのは腹を満たすことです。過酷な甲斐国でもそれは同じです。となると、君主には民を、家臣を豊かにすることが求められます。実際、甲斐で武田家が信虎の代で国衆の盟主になれたのは、彼らの利害に応えられたからと言われています。
 信玄に至っては、父の築いた地盤の上に、金山を開発し、貨幣制度を整え、信玄堤に代表される公共事業も行い、経済も明るかった。しかし、どんな努力も肥沃な土地がないという地政学的な問題は解決し得ません。他の土地から奪う。彼らには侵略以外の手がないのです。となれば、「弱き主君は、害悪なり」です。弱い主君は、家臣や民を飢えさせるだけですから。

 まして、甲斐は人間が生きるために必要な塩を輸入に頼るしかありませんでした。有名な謙信の信玄に塩を送る話は後世の創作だそうですが、そんな逸話に現実味が増すほど甲斐が塩不足だったのは本当でしょう。是が非でも、信玄は海に出るしかなかったのです。
 最初から攻めると決めている…と信玄の真意を悟った家康ですが、その理由は、地の利の無さを嘆く終盤の信玄の言葉に凝縮されています。鬼でも妖怪でもなく、ただただ民を飢えさせないという現実的な、死活問題だったとことが見えてくるでしょう。

 因みにこれまでもそうでしたが、甲斐は険しい山奥であることを表現するため、全体に画面、色調のトーンは暗めになっています。今回は冬のシーンなのでなおのこと強調されていますね。逆に太平洋側の海沿いにある浜松の描写は、淡い色調で明るめのトーンです。この対比もまた、甲斐という国の過酷さを象徴しています。
 そして、その過酷さに鍛え上げられた野性的な力だけの存在が、風光明媚な浜松を蹂躙する恐怖もまた示されています。万が一、土地柄に任せず、武田軍の論理で浜松の民たちが支配されるなら、本当に耐えられるのかは、難しいかもしれません。


(2)弱みを見せられぬ信玄
 さて、もう一つ、今回、印象的だったのは、死病に冒された信玄の様子です。第15回の記事で信玄の老いを感じる描写について触れましたが、今回はもっと直接的な表現が見られました。通説どおり胃がんのような描き方ですが、肝心なのはその姿を誰にも見せず、悟らせないようにしていたことです。かの千代女の前でも余裕を見せていましたし、また勝頼も家臣も気づいている様子はありません。

 「弱き主君は、害悪なり」との信念を持つ信玄は、西上作戦の実行するに至って君主がその不安要素になることを恐れています。また、今、自分が倒れることで甲斐が揺らぐだろうことも自覚しています。長男義信の廃嫡に見るように武田家の地盤は一枚岩でありませんから。この他人に弱みを見せられず、病すら隠し続ける、その孤独さが信玄の欠点です。

 自身が老いてから立つしかなかった地政学的不利を嘆き、天下統一について勝頼に「四郎、それをお前に残す」と託したときが、息子に見せた精一杯の弱気と無念です。このとき、信玄は西上作戦について、「これが我が生涯、最大の戦となろう」と語ります。この台詞、予告編では軍に檄を飛ばす信玄の野心と傲岸不遜さのように使われていましたが、実際は息子一人に伝えられた言葉でした。
 自らの死期を悟り、自分の生きているうちに未熟な息子のため、天下統一のための大枠を作っておく。そうしなければ、武田家に安泰はないのだという悲壮な決意が滲み出たところに信玄の人間性が出ていますね。


 因みに信玄は遂に時が来たとして、今回、西上作戦を決行するのですが、その慎重さゆえに、実は武将としての旬の時を過ぎ、死期が迫った今、立つしかありませんでした。家康曰く「時を待っていた」信玄は実は「時の運」を失っていますね。この辺りに信玄の悲劇性が見えますね。


 ところで、家康の打つ手を全て見通して潰し、改めて軍門に下るよう恫喝する信玄の行為。ここには、無駄なく最低限の被害で信長を倒し、上洛しようという信玄の入念さと慎重さが窺えますが、家康の未熟さを「かわいいものよ」と言うあたりに、当初から彼が家康に抱く親近感があります。彼の慎重さは裏を返せば、小心の賜物です。それを「弱き主君は、害悪なり」という信念で囲っているに過ぎません。
 似た者同士の親近感ゆえに、その有望さを買っているのだとも考えられますね。そして、大成すれば第二の自分になるかもしれない。だから、軍門に下らないときは滅ぼす覚悟でいるのでしょう。ある意味、信長以上に彼を危険視しているのですね。ただし、それを他人に悟らせるようなことはしません。自分の弱さを見せるようなものですから。


 かくして信玄は遂に立ちます。徹底的に、入念に準備を行い後顧の憂いをなくしてからの出陣です。このときの、信玄の「信長はその器にあらず」「敵をつくり戦乱を広げるばかり」という檄は、図らずも信長の覇道の欠陥を言い当てていますね。武力による覇道は、それ以上の武力に屈します。そしてその覇道も…修羅道は永遠に終わらない。
 信玄の民に安寧をもたらしたい気持ちは恐らく本気です。しかし、その大義名分が野心の方便にしかならないのは、彼の進む道も覇道であり、結局は同じ矛盾をはらむからです。


(3)対比される家康と家臣団の絆~
 さて、人知れず悲壮な決意のもと、作戦を決行した信玄に対して、家康も進退を明らかにしなければなりません。しかし、家康は信玄の「弱き主君は、害悪なり」を伝えながらも、自分は強き主君を演じません。家康本人にその自覚があるかどうかは定かではありますが、これ、信玄の言葉を拒絶しているんですよね。
 そして、その根底には、三河一向一揆で自分が理想に向かい勝手に暴走した結果、民や家臣をかえって苦しめたという過去があるから。家康は、そのときの後悔と、そのとき誓った「民や家臣に裏切られようと信じるしかない」という想いを決して忘れていません。冒頭の虎松を許した件と同じく、ここでも三河一向一揆編での出来事が活かされていきます。


 家康は、家臣たちに家族があり、領土があり、領民がいる以上、自分たちで決めるように言います。どういう判断であっても恨まないと。彼は、民や家臣を大切にしない裏切られるような主君にならない努力こそが、彼らへの信頼の根本であることが分かりかけているのかもしれません。だからこそ、今回、涙を浮かべながらも、その思いを口にするシーンが松本潤くんの見せ場ですね。
 しかし、そんな家康を尻目に家臣たちの発言は辛辣です。

「うちの殿はこのとおり頼りないぞ」
「勝ってみせるからついてこい、と言えんとは」
「武田信玄の家臣の家臣のほうが我らマシかもしれんのう」
「信長とも手が切れますな」

 その他諸々、言いたい放題。しかし、この風通しの良さこせが、三河一向一揆の際、家康が彼らに寄せたヤケクソ気味の信頼に対するアンサーなのですね。だから本音と建前、虚々実々にない交ぜに発言しながらも、「これからは信玄に媚びへつらって生きていきましょう」「苦労して切り取った遠江をくれてやりましょう」「三河も岡崎もくれてやりましょう」と巧みに家康の譲れないところを突いてくるのです。家臣たちは家康の扱いが分かってきていますね(笑)
 既に家康は彼らの判断にかかわらず、自分一人は対抗しようと心しているかもしれない。それを察して逆説的に「我らは殿と共にある」と言っているのです。家康が軍門に下るなら着いていくし、抗戦するならそれに着いていく、「くれてやりましょう」にはそうした彼らの決意が隠れているのです。だからこそ、家康も「十やったら九負けるんじゃぞ?」と確認するだけです。


 そして、三河一向一揆のとき、「許されてはならない」と口にしたくとも出来ず、家康の寛大な処置に感謝するしかない表情をしたあの夏目広次が「この一同で力を合わせ、知恵を出し合えば、きっと信玄に及ぶものと存じます」とこの場を締めます。微に入り細に入り三河一向一揆編が響き合います。
 信玄に徹底的に策を潰され、追い詰められたからこそ、第一章(1~15回)を通して得た「家臣と民を信じるしかない」という覚悟が唯一の武器として改めて際立ちました。その覚悟が家臣との絆に昇華したと言えるでしょう。

 ただし、この決断が正しいのかどうかは別問題です。
 奇しくも、忠勝の言葉を引き取った家康が「我らが桶狭間を成すときぞ」と檄を飛ばします。が、「どうする家康」の桶狭間、下馬評は確かに「十のうち九負ける」戦でしたが、それを策略で勝率4割くらいには上げていることは秀吉が触れています(一つの見方とは言っていますが信長は否定しません)。つまり、家臣団の熱い絆の真価は、彼らの知恵でどこまで勝率を上げられるか、どこを最低防衛ラインとするかにかかっています。
 この三方ヶ原の戦いは史実通り大敗します。しかし、そこで失うもの、学ぶことの大きさと質は、彼ら次第で変わってくるでしょう。

 そして、哀しいかな。暫く活躍していなかった人物が突然、目立ち始めるのは死亡フラグ。一番の台詞で場を締めた夏目広次は言うに及ばず、久々に瓢箪酒を呑んだ本多忠真も…
 因みに忠真は以前の回でもう槍も持てないかもと言われていました。家康の危機に、動けぬ身体に鞭打って出陣するのですね。広次は通説どおりを採用して描かれるならば、見せ場が待っています。さて、どうなるか。
 せっかく、その前々日に夏目広次役の甲本雅裕さんが浜松まつりに来るのですから、彼の人生を生き切ってほしいですね。


おわりに
 このように双方の事情が背景と共に語られたことで家康と信玄、それぞれの心情と切羽詰まった決意の背景が見えてきました。そして、二人の価値観の違いも。
 その対比を通して「主君とはどうあるべきか」をテーマにしたのが、第16回だったと言えそうです。資金も兵力も策略も全て自ら整え、強き主君として家臣を戦へと導く信玄。対して何もかも足らないがゆえにその弱みを見せ、家臣を信じて共に歩む家康。一見、信玄が圧倒していますが、実はそのどちらにも問題が潜んでいるのは、ここまで話した通りです。

 そして物語は、その答えを明確にはしません。息子に後事を託せるよう死病を押して西上作戦を決行した信玄の判断は最終的には武田家滅亡へと向かいます。一方、家臣を信じ勝率1割の賭けに出た家康は壊滅的な打撃を受けますが、生き残ったため勇名を馳せ、勢力拡大の足がかりとします。
 徳川家と武田家を分けた分水嶺は何だったのでしょうか。氏真のときほどでは単純では無さそうですが、そこが描かれるか期待したいですね。あるいは描かれずとも思いを馳せるのも一興でしょう。

 それにしても、どちらか一方を悪と談じることなく、両者を冷徹に描くシナリオのバランス感覚が巧妙ですね。いや、このバランス感覚こそが大河ドラマの醍醐味かもしれません。

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