『現代思想 2024年1月号 ビッククエッション』感想
久しぶりに雑誌『現代思想』を手に取り読みました。1月号のテーマは「ビッククエッション」。"なぜ人を殺してはいけないのか"、"美しいとはどういうことか"、"歴史とは何か"、"テクノロジーの進歩は止めるべきなのか"など、壮大な問いに対して各論者が4-8ページで論ずる、というやや無謀な回でした。
学問が極度に細分化し、また「困難は分割せよ」の圧力が強い現代ですので、「良心的な」知識人は回答を出すことができるサイズの問いに終始しがち。ですが、壮大なことを考え論じてくれた方が面白いですし、何よりそれこそがビジネスとは区別されるアカデミズムの醍醐味でしょう。
結局人間の「根本的なことを知りたい」という欲求は抑えられないのでしょうから、学問がそれを担わないとしたら宗教や政治がそれを代替することになるのでしょうが。。
特に哲学系の論考が興味深かったので、少しだけピックアップします。
1.「この現実が夢ではないとはなぜいえないのか?」(永井均)
論者曰く、夢の本質とは「世界が他者と共有されていない」ということであるようです。
一般に夢は、「偽の体験である」という真偽の観点から現実と対比されることが多いですが、むしろ「他者と世界を共有しているか否か」という観点を召喚することで「現実は夢と存外似ており、また一般に〈現実〉と思われているものと存外似ていない」というパラドックスを導くのが面白いなと思いました。
(その意味で、マトリックスの世界観(集団催眠によって皆が偽の世界認識に陥っている)こそが、夢(と現実)に対して対照なのでしょう。)
内容というよりは、次元を転換することで(新たな次元を提起し、次元の力点を変更することで)、パラドックスを導き、物事の新たな一面を照らし出す人文学の手法が懐かしくて、面白かったです。
2.「それをすべきであることを人類はいかに知ったのか?」(青山拓央)
「ある事実(~である)のみから、ある規範(~べきである)を導こうとする誤り」は自然主義的誤謬と呼ばれ批判されることが多いようですが、論者は自然主義的誤謬という観点から他者の論を批判するに禁欲であるべきだと主張します。
「〈である〉と〈べき〉を区別すべし」というのは、アカデミズム外でもよく言われていることですし、確かにそうではあるでしょう。ただ規範的なことを言おうとするならば、そもそも「ある程度は」不可避的に事実からの飛躍が発生せざるを得ないのも確かです。その意味で、自然主義的誤謬批判は「大味」すぎるので、他者の論に対する「紙やすり的な(繊細な)」分析/批判が必要というのは、問題なく理解できます。
また論者によると、自然主義的誤謬批判は哲学史における〈ある大きな問い〉を覆い隠してしまう機能があるのが問題のようです。つまりその問いは、「最初の規範(~べきである)はどのように生まれたのか」という規範の誕生をめぐる問いです。
直観的には、生存本能(「種を保存すべき」という人間に備わった本能)こそが最初の規範かなとも思うのですが、「どうして種を保存すべきなのか」という更なる掘り下げが可能です。そこで提出される概念が、自然選択としての「無心の過程(mindless process)」。(なのですが、この概念を論考全体の中でどのように捉えればよいのかが、よく分かりませんでした。。。)
「AはBたるべきである」という言明は、①「Aに関する道徳的規範を表す場合」と②「AがAであるうえでの機能的要件を表す場合」に分けて考える必要がある指摘は面白かったです。
②の場合、特殊な条件下の下では(つまり機能的側面から述語付けがされている場合は)、事実から②の規範が導かれるということが説得的になります。
事実と規範という話から、西田幾多郎の「~でなければならない」が多用される文章を思い出しました。
西田をしっかり読んだことがないまま結局今に至るのですが、あれは「論理的に考えるとそのように考えるべきである」という意味だったのか「機能として考えるとそのように考えるべきである」という意味だったのか「道徳的に考えるとそのように考えるべきである」という意味だったのか。