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本雑綱目 49 武樹臣 中国の伝統法文化

今回は武樹臣著『中国の伝統法文化』です。
九州大学出版会のISDN13は978-4873787916。
NDC分類では322.社会科学>法制史に分類しています。

1.読前印象
 中国で伝統で法というと、春秋戦国時代に商鞅や韓非先生が秦で苛烈な法を作って自らの首を絞めて処刑され、それのアンチテーゼに劉邦が法三章にしたっていう話が思い浮かぶけれど、法家が法整備しないと秦は変わらず縁故政治が続く辺境国家で富国強兵は成らず中華は統一されないままだったはずだ。一方の劉邦の法三章もザルすぎて、間もなく秦のときよりはだいぶん軽いけれどより詳しい法ができた。
 法とは国家との契約というのはわりと最近の考え方だが、結局のところ法は誰が犯しても名目的には等しく罰せられるという平等性の担保と、運用は別として近代では法がなければ罰せられない罪刑法定主義が正しく働いている限り、その存在は通常は適切なものだと思う(クメール・ルージュとかは除く)。
 というところで実際の法は国や文化や時代によって大きく異なるものではあるけれど(タヒチの刑法にはゾンビ儀式罪があったように)、その制定によって人々の行動や認識が変化するという僕的にはとてもおもしろいもの。つまり好きなジャンルの本。
 はりきって開いてみよう~。

2.目次と前書きチェック
 日本語版への序では、本書で用いる古代中国の判例法、成文法という言葉は現代のそれらとは多くの点で同じではないが、理解のために馴染み深い用語を用いた、と記載されている。この点に注意しようと思うと同時に、この本は民族や歴史じゃなくて法史学や法哲学の本だなと思いつつ、多くのこれらは西洋マターでしか語られていないから興味がUPするけど、多分読む層が少ないだろうなと思うやつ。そう考えると近現代のアジアの法文はドイツ法やフランス法、または英米法からきているもので、法文化の断裂があるわけだ。
 そして古来の法は左伝や荀子の王制の記載から、裁判に際して成文法があればこれにより、なければ判例を求める混合法としている。やべ、めっちゃ興味ある。
 目次は『序章 法文化一般と中国の伝統法文化』、『1章 伝説時代の法文化』、『2章 「神治・任意法」時代の法文化』、『3章 「礼治・判例法」時代の方文化』、『4章 「法治・成文法」時代の法文化』、『5章 「礼法共同統治・混合法」時代の法文化』、『終章 中国の伝統法文化と世界の方文化』となる。
 どれも興味があるんだけど、この中から『序章 法文化一般と中国の伝統法文化』、『1章 伝説時代の法文化』、『2章 「神治・任意法」時代の法文化』の全体、3章 「礼治・判例法」時代の方文化』から『「鬼神の迷信」から「人事(人の能力)の重視」へ』と『礼によって国を治める(為国以礼)という「礼治」』を読んでみよう。いつもより多いけど好きなジャンルなんだよ。

3.中身
『序章 法文化一般と中国の伝統法文化』について。
 時代区分として伝説は禹まで、神治・任意は商(殷)、礼治・判例は西周・春秋、法治・成文は戦国・秦、礼法共同統治・混合は西漢から清末とある。そう考えると知りたい所わりとジャストだったかもしれない(本当は戦国まで知りたいが、このあたりは諸子百家含むので頭こんがらがりそうだな)。それにしても西漢から清末まで考え方が大きく変わっていないのは興味深い所。そして集団本位という考え方は昔からだそうだ。つまりこれは文化という話で、ちょっと見方を改めた。
 元は短期だから省かれたのだろう。いや、元史(国史)からしてよせ集めただけ期間だから……。

『1章 伝説時代の法文化』について。
 神話の時代は過去の例(教訓)によって物事を解決した。
 法という字の元の形、灋は氵と𢊁と去が組み合わされた言葉である。氵は水、つまり水のように平らな平等(氏族間)を指し部族連合の形成の基盤となり、その外(河の向こう)は法が及ばない地となる。𢊁は一角獣であり、古代の各部族、例えば法の創始とされる蚩尤しゆうは黄帝に臣従する司法を司る部族であり、社会権力構造を象徴する。去は矢弓を指し、獲物に関する争いの際に証拠となるものだ。このように法という文字は証拠による調査を通じて紛争を解決し、違反者に刑罰を施す社会権力構造であり平等をもたらすもの、という意味が古来から込められている。その他、𢊁がどんな動物かや神話時代の情勢について。皋陶こうよう族が斉魯に住み、長い間司法を司っていたことや、春秋の斉の国で羊を用いた神明裁判が行われた故事もあり、それが楚王の冠として現れ、そして長く𢊁という存在が残った。
 やっぱ蚩尤萌え。伝説時代というか、伝説時代に現れた司法を司る𢊁のトーテムがどのように後世に影響を与えたのか、という話。

『2章 「神治・任意法」時代の法文化』について。
 商(殷)の神感が少し自分の知識と違うので混乱するが、おそらくこちらのほうが正しいのだろう。周礼では確か「鬼神は天神・地祇・人鬼がある」と書かれていて、天神がこの本で言う天帝、人鬼が祖先神だと思うのだが、鬼とは至上の人格神で神を縛るものだと述べる。そして商後期には祖先神と至上神が結合して一体化し、紂王は帝辛と称したとあるが、帝と称したのはその先代からだしそもそも帝という名が神を指すのかはよくわからない。神の価値が下がれば相対的に世界における人王の地位は上がるだろう。寧ろ神性が低減していたから生贄をやめたんじゃないかと思うのだけど、周の反乱を見ると意識差はそれなりにあったような気がする。丁度このへんを書きたいので丁度よい資料。
 この頃の司法は卜筮と一体化していた。任意法の時代では、自らの判断が正しいか人々が自信が持てなかったからである。そして時代が下るにつれ、人意が神意にまさる、というか神意による判断を回避するようになる。そして刑罰についてモデルが形成され、神意によらなくても判断が可能、つまり自明となり、不安に苛まれることもなくなる。というより神意は間違ってはいけないので、殷後期では求める神意が出るまで何度も卜占したというから、それほど神意が低下している時代ともいえる。
 そんなわけで様々な判例が集積され、司法で引用されるようになり、任意法の時代が終了した。

『「鬼神の迷信」から「人事(人の能力)の重視」へ』と『礼によって国を治める(為国以礼)という「礼治」』について。
 周が天下を取って礼が価値観の中心に来たが、言い換えれば強固な階級社会の到来を示す。そのため礼は時折法より価値が高いものとなった。商を「鬼神を迷心し人事を重んじない時代」とし西周は「鬼神を信じあわせて人事を重んずる」とし、春秋は「鬼神を信じず人事を重視する」時代とする。確かにそのイメージではあるが、この辺り、民間では鬼神に対する恐れは根深く、道教あたりと入り混じって生贄や大金を巻き上げる淫祠邪教な鬼神が横行していた記憶がある。孔子もこれらを払拭するために理屈付けに苦心していたような。
 周は下剋上をしたわけで、やはりその理屈というのは古今東西困るものだ。周はここで天命理論にのって、徳があるとして覇権を商から奪い、神と徳という価値を打ち立てた。でもこれは正直百年単位の後付だと思うんだけど。
 礼は家父長制の産物で、身分制度を擁護するものである。そもそも礼の原義は祖先神だが、孔子はこれを神権から独立させて支配的であった神から支配的である人(貴族)にシフトさせ、礼治で国を治めた。ってあるけどこれは人が神に成り代わったっていう意味にほかならないと思う。その縮図は家庭内から国家まで持ち込まれて世界の隅々に至り、父や王といった序列によって存在の軽重が変化する。

 全体的に、僕は面白かったけど他の人が面白いとはあまり思えない。歴史民俗マターの人はこの辺の法律の理屈はあまり興味はない気はするし、法律マターの人はこんな細かい外国の古代の伝説や歴史なんて興味がなさそうだ。そんなニッチ受けな本を手に入れるなんてラッキーと思う……尊い。同じような民俗学方面の本はなくもないが、法という観点から一貫して書いてる本も少なそう。これを手に取る人は少ないんじゃないかなあと思う。
 小説に使えるかというと、使えない……。法律は社会基盤(インフラ)なので、こんなような世界だったという認識は持っておいたほうが得だと思うけれど、小説を書くなら別の本を読んだほうがいいような。これは例えば昔の裁判官を書くにも多分使えない、概念の本。

4.結び
 ランダムでやってるから自分の好きなテーマがくると嬉しい。でもこの本は必要知識が特殊で、読んで楽しい人はやっぱり少ない。
 次回は山中正夫著『反柳田国男の世界 民俗と歴史の狭間』です。
 ではまた明日! 多分!

これは乱数メーカーを用いて手元にある約5000冊の本から1冊を選んで読んでみる、ついでに小説に使えるかとか考えてみようという雑な企画です。
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