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本雑綱目 48 瀬川拓郎 アイヌと縄文 もうひとつの日本の歴史

これは乱数メーカーを用いて手元にある約5000冊の本から1冊を選んで読んでみる、ついでに小説に使えるかとか考えてみようという雑な企画です。

今回は瀬川拓郎著『アイヌと縄文 もうひとつの日本の歴史』です。
ちくま新書のISDN13は978-4480068736。
NDC分類では382.社会科学>風俗史. 民俗誌. 民族誌に分類しています。

1.読前印象
 小説でアイヌの言葉をミーハー的に呪文に使っているものの、アイヌ自体は金カム読んだくらいしか知識がない。チタタㇷ゚チタタㇷ゚。アイヌの本はそれなりにたくさん手元にあるけど、なかなか開く機会がないのだ。江戸末には北海道にロシアがよくやってきてたこととか、もともと縄文時代に日本に住んでいた彫の深き人々が東西に分かれてアイヌと沖縄の民になったとか、そんなことをぼんやりと聞いたことがある程度でちらばった知識しかないともいう。
 とりあえず開いてみよう~。

2.目次と前書きチェック
 それなりに長いはじめにを読むと、縄文文化は時代とともにプツリと途切れた(弥生に移行した)のではなく、例えば九州や瀬戸内の漁業民は、近代まで抜歯や入れ墨などの縄文習俗を残し、売買より贈与を好む文化にいたという。一方で弥生文化にも縄文文化の骨門器が伝わるなど、その文化は相互的に混ざり、弥生文化が本州の大部分を占めた後も本州にも山人という形で縄文文化が残ったのではないか。そして北海道に残ったのがアイヌ。
 北海道は農耕に向かないため、弥生文化は津軽海峡を超えられなかったという説が一般的だったけれど、現在は北海道南部は耕作可能であることと、日本書紀では北海道のヒグマの毛皮を本州の民が珍重していたことを前提とし、縄文文化をとどめながらアイヌは農耕ではなく売買という弥生文化をゆるやかに受け入れつつ、10世紀以降に伝わった雑穀栽培も山神信仰の農耕儀礼として受け継がれた。
 北海道(アイヌ)の簡単な歴史がまとめられていてわかりやすい前書き。
 目次を見ると、『アイヌの原郷 縄文時代』、『流動化する世界 続縄文時代(弥生・古墳時代)』、『商品化する世界 擦文時代(奈良・平安時代)』、『グローバル化する世界 ニブタニ時代(鎌倉時代以降)』、『アイヌ縄文思想』と続く。
 小タイトルに気になるものは多いが、主に知りたいのは明治時代だったりするので少し残念。グローバル化する世界 ニブタニ時代の中から『ミイラと儒教』、アイヌ縄文思想全体を読んでみようと思う。

3.中身
『ミイラと儒教』について。
 サハリンアイヌでは他の地域に見られないミイラを造る習俗がある。家型の墓を建ててモガリを行い(ここまでは他の地域もある)ミイラを作っていた話。家型の墓は本州(以下、「日本」という。)からの影響であると思われ、三年喪に服す風習は日本経由で儒教からきていると思われることや、家型の墓の飾りつけが日本にはみられず中国の風習と類似している点から、古代日本で風俗の混交があったのではないかという話。
 墓文化については興味深いが、アイヌは文字がないので、その外形からしか推測できない。外形、つまり古代中国や近代のヨーロッパ人の残した文献の記載から探られている。
 三年の喪の内容は他の地域にあるような外部との非接触ではなく、髪を切らないとか服を逆さに着る、太陽を見ないといった点に現れる。サハリンアイヌがミイラを造る目的が故人が完全にこの世を離れたことの確認であるとすると、喪に服す意味も他の地方と異なるんじゃないかなと思う。一方で近代の北海道アイヌは死を穢れと認識していたので埋葬したら立ち寄りもしなかったそうだ。その辺は人の死に対する風俗の違いと思うんだけど、喪ってなんだという根本的な疑問が生まれた。

『アイヌ縄文思想』について。
 10世紀頃、アイヌの縄文的土器と倭人のつるつるした土器が相まって倭人側に青苗土器ができたのは文化の混交と呼べるが、その他の多くでは寧ろ文化の分断が固定化し、民族間の分業体制が確立され、その差異の拡大によって交易という形の共存が強固なものになった。文化が混交しないように2つの民族集団の間に婚姻などを結びつつ贈与交換を行う中間地帯を置いたが、そのうちその中間地帯が武装倭人に乗っ取られてアイヌ側は直接の商品交換を行わざるを得なくなったため、アイヌとしての文化が失われていった。
 アイヌは動物(獲物)もコミュニティ内のものと認識していたが、解体することによって神に獲物を送り、残った無価値な物を交換対象としていた等の話。
 文化というのは断絶した状態を置かなければ混じって消滅してしまうという話で、とても興味深い。このわざわざ緩衝地帯を置くというのは神と人の間に妖怪を置くという考えと共通するような。ブードゥ教も不可知の神との間に精霊を置いているけれど、そういった信教の形態は面白い。そうすると一神教というのは神対子でその間に教会を置いたと考えられるんだろうか。それが文化的に教会が権力を持ちうる理由?  無意識に考えてみよう~。

 全体的に、ほとんど未知の文化圏について知れてよかったとは思う。但し、モースの贈与論が当然知ってる前提として出てきたりするから、恐らくある程度民俗学がわかることが前提となっている。でも民俗学的というよりは考古学的な本かも。
 小説に使えるかと言うと、悩ましい。この本は、少なくとも読んだ章については外形的行為とコミュニティ内外の集団としての対比、関係論を中心に書かれていて、コミュニティ内側の関係というものがでてこない。そして神話・昔話や言い伝えといったものは基本的にカットされているので、動機づけ(行動動機)というある意味小説に必須な要素を大凡欠いているので、そこを補完する必要がある。それから割と場所を限定した記載が多くて、特にどこどこの地域の民族には当てはまるがこの地域は違うというようなことがよく書いてあるため、資料に使うにはその範囲を注意する必要がある。

4.結び
 読んでてずっと違和感があってだな。恐らく様々な伝聞を外形(墓の形や土器、入ってても交換の形)で捕らえていて、アイヌには文字がないから外部資料しかないのだろうかとなんとなく納得しつつ違和感を持っていたのだが、アイヌはアイヌで口伝はあり、手元の『日本古代文化の探究 墓地』の北海道の項を開いてみたら、アイヌ(北海道各所)の言い伝えでは生と死は裏返しになっていて、生者の国で昼のときは死者の国で夜で、生者と死者はベクトルの全く違う世界にいるためお互いを見ることができず、だから旅立ってしまうともはやその世界は人の立ち入る部分ではなく、それゆえ墓参りを行わないという納得のいく理屈が述べられていた。そうすると服を逆さに来たり太陽を見ないというのはまさに、死者のいる方向を気にしているのだろう。
 僕が小説を書くのに必要としているのはこういう異文化の動機づけなので、やっぱりこの本は民俗学的な調査方法をしているのに考古学的な本だと思う。
 次回は武樹臣著『中国の伝統法文化』です。
 ではまた明日! 多分!

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