一筆啓上「独り剣客 山辺久弥 おやこ見習い帖」の感想【本という名の大樹】
先頃、出版デビューを果たした笹目いく子氏の作品「独り剣客 山辺久弥 おやこ見習い帖」を拝読させて頂きました。僭越ではありますが、折角の御縁ゆえ、感想を認めておこうと考えた次第です。
※本稿は「あらすじ」をなぞる類のレビューではありませんが、登場人物や肝となる事柄に言及しているため、本作品を真っ新な状態で堪能されたい方は読まない方が無難かと存じ上げます。なお、本稿の画像は拙蔵書からスキャンして掲載しております。あしからずご理解下さい。
「独り剣客 山辺久弥 おやこ見習い帖」を読んで
§ それは「江戸の町」への入口だった
静かな期待を胸に表紙を捲る。
そして、冒頭の数行を目で辿った途端、漆黒の闇の中から炭化した木の臭気が漂ってきたのだ。
自宅の六畳和室に横たわって読んでいた私は、作者の史実を裏付けにした舞台設定により、あっという間に「大火によって焦土と化した江戸の町」へとタイムスリップしてしまったのである。
この不穏にして美意識を感じさせる幕開けは、世継ぎ騒動により浪人(三味線の師匠)に身をやつすことを余儀なくされていた『山辺久弥』と、寄る辺なき子ども『青馬』との出会いを演出するのみならず、この物語を「活劇」足らしめる幕開けに相応しい背景となっていた。
§ 香りと音
読み進めるほどに、行間から様々な香りと音が溢れ出してきた。
それらは、冒頭で記した「江戸の町を覆い尽くす焦げた臭気」だけではない。青馬が折檻を受けていた店に漂う陰湿な臭いや、久弥を慕う弟子の芸妓『真澄』から漂ってくる白粉の香、更には三味線の竿に用いる紫檀の芳香。そして、抜刀の末に流された血の匂い・・・。
こうした感覚に訴えてくる無形の存在は、物語の中で言語化されてはいない。だがしかし、確かに行間から漂ってくるのである。そして”それら”は、本作が内包しているドラマ性をより鮮明に立ち上がらせてくれるのだ。
更に、物語の中で強烈な存在感を放っている三味線の伴奏や長唄は、要所で効果的な調べを流してくれていたことは言うまでもない。
殊に「越後獅子」「鷺娘」というに長唄に、私は深い共感を覚えた。共感とは、登場人物の身の上に寄り添うような二曲を選出した作者にである。
頭の中で、長唄の背後に控えている情景と共に、無心に三味線をかきならす三人の姿が映し出された。そして、いつの間にか「越後獅子」に青馬を、また「鷺娘」に真澄を重ね合わせてしまっていることに気付くのである。その刹那、三味線の伴奏と共に絶妙な節回しで歌われでいるであろう長唄が、それまで以上に切実さを増して聴こえてきたのだ。
こうした見立ては、読者の手前勝手な脳内補完の産物である一方、作者の意図とは異なる類の妄想に過ぎない場合も多かろう。さわさりながら、読書の最中に発動する個人史(嗜好に関連した経験や記憶)の反芻は、作品と読者を強く結びつけてくれることもまた事実。
そういう感慨に浸らせてくれた作者に敬意を示したい。
§ 象徴としての三味線と芸事
次に、久弥、青馬、真澄ら三人を分かち難く結びつけていた三味線に触れておきたい。それは、この物語に欠かせない存在でもあるからだ。
三味線や長唄は、文化から嘉永年間にかけて「お座敷もの」としてが流行していたことを鑑みれば、当時(文政年間末期)の芸事としては比較的ポピュラーな存在であったいえる。しかし、誰彼構わず嗜めたわけではない。それは、昨今の習い事事情と大きく変わらないだろう。
ただ、三味線・長唄という芸事と久弥の関係性を考える上で、少しだけ視点を変えてみる必要を感じる。
芸事を以て糊口をしのぐことを強いられた、或いは、そうした人生を覚悟せざる得なかった人々の存在に思いを馳せてみたい。(例えば、一所不住の遊芸の徒や借金のかたに身売りされた芸者や芸妓など。)
されば、武家に望まれる「文武」とは明らかに趣を異にする嗜みとして三味線や長唄を習った久弥は、芸事を通して身分を横断する素養を醸成していったことであろう。それ故、浪人となって市井に降り立った久弥は、武士の矜持を胸に秘めながらも、たつきを立てる手段として「芸事の師匠」という職を選べたのだと、私の情緒は想像してしまうのである。
武士から三味線の師匠という転換は、今を生きる私達の想像を超えた落差を感じさせる変化だ。しかし、久弥の暮しぶりや言動からは、芸事の師匠という生き道に対する後悔やストレスを垣間見ることはできない。(自身の出自に端を発した諸問題に対する憤懣やる方ない思いがあるにせよ。)
ここで一旦、手前勝手な推測から離れて、客観的な仮定を立ててみたい。
もし、久弥が傘貼りや提灯貼り(根付彫刻も)といった貧窮に喘ぐ浪人にありがちな内職で糊口をしのいでいたとしたらどうだろうか?
この仮定は、久弥から滲み出る慎ましい艶が、三味線の師匠という立場でなければ醸せてはいなかったという事実の証明に繋がるのだ。
ここに作者の「設定の妙」を感じる。
§ 固定観念無用の時代小説
さて、ここまでマクロ的な視点で感想や指摘の類を記してきたが、最後に作品全体を見渡して感じたことを記しておきたい。
本作は「時代小説」に期待される条件を余すところなく満たしつつ、骨太でありながら繊細さと靭性を兼ね備えた「人間ドラマ」が色彩豊かに描かれている。
けれども、題名の頭に「独り剣客」という枕詞が付いていることに、私は違和感を覚えていたのである。何故かと言えば、私の中にある剣客の概念と久弥が合致しなかったからだ。しかし、この小さな違和感は、読み進めていくうちに自然と霧散していったのである。(※本作品は、文庫化に際して「調べ、かきならせ」を改題している。)
それは、己の複雑な出自を受容れざる得なかった久弥や青馬、そして大火で人生を狂わされた真澄の様な身の上の人間が抱くであろう「人生や家や故郷に対するアンビバレントな感情」を互いに受け容れていく姿に感情を揺さぶられたことが大きい。
身分や性別、年齢が異なる登場人物たちの覚悟を感じさせる後姿は、題名から受けた違和感「剣客物の装い」を音もなく解いてくれた。そして「時代小説」という固定観念に縛られることなく、登場人物たちが織りなす「人間ドラマ」に集中させてくれたのである。
§ 最後に
感想の締めとして、私的に過ぎる雑感を綴らせて頂く。
私にとって「独り剣客 山辺久弥 親子見習い帖」は、物語を純粋に堪能するというオーソドックスな楽しみのみならず、私自身の嗜好や家族、そして人生と向き合う時間を与えてくれた一冊となった。
そもそも、個人事業主の私は、一匹狼の野武士や浪人という境遇にシンパシーを感じてしまう単純極まりない時代小説フリークなのだから、この作品が肌に合わないわけがないのである。
いずれにしても、この読書体験が「未来の時代小説」を手にしていくであろう私の物差しになってくれることを期待している。
此度は、笹目氏の出版デビューのお祝いを目的として一筆啓上を試みたわけなのだが、感想を綴り終えるや否や「笹目色溢れる次回作」を早くも期待してしまっているのである。まったくもって、作者の気苦労を知らぬ読者は、無責任で気が早いのだから呆れてしまう。
とまれ、節度を弁えぬ一読者の戯言はここまでだ。最後に、笹目いく子氏の活躍を祈念して筆を置くことにしよう。
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