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【記憶より記録】海辺にて・過去と今と未来を繋ぐ日々の祈り

 去る 3月13日 水曜日。
 時節をわきまえない雪と雨が、忙しさを増す年度末に一縷の猶予を与えてくれたのでしょうか。不安定な天候が生みだした余暇を使って、大学受験を終えた次男坊と共に、宮城県の沿岸地域を巡ってきました。
 此度は、そんな一日の様子を備忘しようと思います。お時間の許す方はお付き合い下さい。 



1:釣石つりいし神社へお礼参り

 ミニマムにしてシンプルな次男坊の大学受験は、釣石様のご加護もあり、大願成就で幕を降ろすこととなりました。なれば、直ぐにでも「お礼参り」に馳せ参じたいところでしたが、3月初旬の合格発表以降、なかなか時間がとれず日延べを繰り返しておりました。

 猛省しきりの態で訪れた釣石神社は、平日の午前中ということもあって境内は静まり返っていました。参拝の前に、御札を返納しようと社務所へ顔を出していた次男坊が「巫女さんに『おめでとう』と仰って頂いたよ。」と笑みを浮かべながら戻ってきました。

「祈願の輪」を見守るように急峻な山の斜面に鎮座する釣石様。

 強風が吹きすさぶ中、本殿に続く石段の急登を無心になって上り続けていると、気付かないうちに「お陰様」という言葉を連呼していました。
 「お陰様」
 この言葉は、誰か特定の存在に向けたものではないようです。それは、彼を育んでくれた万物に対する素直な感謝だったのでしょう。

小さかったボンズも大学生か・・・(2007年1月1日・次男坊1.5歳)

 正直な話、高校生活を実直に過ごしてきた次男坊(三年間 無遅刻・無欠席・無欠課の皆勤賞)でしたから、受験に際して何の不安もありませんでした。(結果によらず、将来に繋がる道筋が得られると思えたから。)
 ただ、長男と同様に「家を出るなら国立・私立なら県内」という至極単純にして厳しい与件「選択の制約」を提示された事で、他の恵まれた学友とは異なる不自由さとプレッシャーを感じる場面も多くあったと思います。

 しかし、あの細い体に備わっているとは思えない程の粘り強さで道を切り開いた彼を眺めていると、この手前勝手な親父の胸中は「お陰様」という言葉で満たされていくばかりなのでした。


2:陸前戸倉りくぜんとぐらを通って

 お礼参りを終えて、このまま仙台に戻るのも芸がないと考えた私は、毎度の如く「気まぐれ」を発動して、南三陸町へ行ってみようと提案しました。
 時は 3月13日 。地元の方々の「13年目を迎えた鎮魂の時」も一段落したタイミングであろうし、私達が訪れるには絶好の機会だと考えたからです。

防潮堤の上に拡がる空は相変わらず広いけれど、防潮堤の向こうに見える海は狭い。

 釣石神社からは、三陸自動車道を使わずに国道45号線を使って南三陸町へアプローチすることに。
 かつては、頻繁に使っていた国道でしたが、宮城と岩手の両県に三陸自動車道が繋がって以降は、すっかりご無沙汰していたので、旧街道沿いに残る鄙びた趣を堪能すべく、久方振りに走ってみることにしたのでした。

 津山県内産の木を活用した工芸で知られる)や陸前横山(カスリン台風時に激甚な土砂災害にあった地域)といった特徴ある地域を抜けると、陸前戸倉りくぜんとぐらという南三陸町の南端に位置する集落に出ます。

強風が吹きすさぶ中、防潮堤の上に立つ。

 リアスが生みだした複雑な海岸線の湾奥に位置する陸前戸倉には、小さな漁港が点在していおり、それらの港やキャンプ場に足繁く通っていた私たちにとって、彼の地は沢山の思い出が遺っている場所でもありました。

 そんな話を車中でしていたら「さすがに3歳頃の記憶は無いよなぁ〜。」と残念そうに次男坊が呟きました。それを聞いた親父は「やっぱりそうか・・・。」と苦笑いするばかり。
 当たり前のことですが、効果的に記憶に刻み込ませるには、物心ついてからの方が良いのでしょう。(今更どうしようもありませんが。)

陸前戸倉地区にある水戸辺漁港の砂浜で遊ぶボンズ(2009年8月20日撮影)

 陸前戸倉に入ると直ぐに、立派な防潮堤が完成している事が分かりました。その防潮堤の一部にトンネルがあり、その向こうに折立漁港らしき気配があったので、寄り道することにしました。(※震災の影響で長らく漁港機能を失っていた。)

 防潮堤に設けられた階段を上って頂部に立つと、潮の香りをたっぷりと含んだ風に煽られました。髪を乱されながらも、男二人で「やっぱり、海っていいよねぇ。」と感激しきり。

 遠くにワカメの養殖ブイが浮いているのが見えました。これもまた復興の証と言えるでしょう。そして、震災で木端微塵に破壊された防波堤のケーソンも整然と復旧されおり、漁船の風体からも日々の操業の様子が窺われ、ほっと胸を撫で下ろしました。
 「よくぞここまで・・・。」
 そんな安堵の思いに胸を熱くしました。

防潮堤の上から眺める折立漁港。

 さて、気になるのは防潮堤です。
 南三陸町の沿岸に設けられた防潮堤の多くは9m前後と聞いていましたが、こちらの防潮堤もかなり高いですね。干潮面から防潮堤が計画されていることを鑑みると、実質14〜15m程度はあると思われます。

 とまれ、折立漁港から程近い場所にあるBRT陸前戸倉駅周辺のグランドレベルが低いことを鑑みれば致し方がないのでしょう。実際、台風一過の折りに、当地を車で通過しようとしたところ(法テラスからの帰り道)、激しい波しぶきを受けたこともありますし・・・。
 いずれにしても、海の状況を直接目視できないデメリットを超えるメリットが防潮堤に存在していると信じたいものですね。(※岩手県の田老町の例もあるので不安ですが・・・。) 

防潮堤の脚部を守る消波ブロックが敷設されている。

 漁港の中を一頻り散策して、はたと時計を見てみれば時刻はお昼。
 そろそろ漁港をお暇しようと、分厚い防潮堤に穿うがたれた門をくりながら違和感を覚えてハッとしました。かつて漁港に近接して設けられていた水門(以下に続く余話の写真を参照)が存在していなかったのです。恐らくは、先々の計画に入っていると推測しますが、なかなかどうして一筋縄ではいかないのが「復興」なのでしょう。

 「今もって復興は道半ば」
 そんな感想を胸に、南三陸町の中心部を目指した親子でありました。


§ 余話:かくも長い復興の道程 陸前戸倉を例にして

 震災の年の混沌は、忘れようと思っても忘れることはできません。

 当初は、県や市の要請に基づき、役所が設けた相談窓口に座ったり、委託先の依頼で一般住家の被害調査を行ったり、同業の先輩と共に、市中の非木造建築物の被害調査に駆け回る日々を過ごしていました。そして、震災から2ヶ月を経た5月末頃から、石巻市の要請を受けて住家の罹災調査に携わったのですが(調査終了となる4年間従事)、この業務に長期に渡ってかかわったことで受けた心のダメージは癒えることがありません。
 更にその間、法テラス南三陸から依頼を受けた私は、南三陸町に通うことになりました。当時は、10年間も足を運ぶことになるとは思いもよりませんでしたし、解消が困難な難問や理不尽な出来事にも沢山遭遇しましたが、法テラス南三陸の「閉所の日」に立ち会えたことで、微力ながらも最後まで役割を全うできたという実感を得ることできました。これは、私の人生における「ささやかな幸い」であったと感じています。

 ただ、これまで0から1を生み出すことに生きがいを感じていた一人の人間が、ただひたすらに破壊された建築物を見続け、そして、悲嘆に暮れ、或いは怒りをぶつける人々に接すると言う異常な状態が続いた日々を反芻すると、曰く難い気持ちに陥るのです。
 有事に際して、慇懃無礼極まる言動を口にする官僚・役人の類や、詭弁を振るい、人気取りに走る政治家たち、そして何より、有事に乗じて嘘を流布したり、理不尽な言動や粗暴な行動をとる人々を見ているだけで、人間に対する失望と疑念が深まるばかり・・・。
 もはや性善説では語れない世の中です。綺麗ごとでは済まされない人の世の暗部は、自然災害の様な有事を好機と見て色濃く発露するのでしょう。

前段で紹介した折立漁港周辺の様子。(2012年5月25日撮影)
機能を失った水門や漁港の建物が痛々しい。
塩害を受けた杉林や竹林も確認できる。 

 閑話休題。
 これらの写真は、移動時間に余裕が持てるようになった2012年5月末に撮影したものです。一瞥しただけで「震災から1年を越えてなお、こうした状況が続いていた。」という事実が分かって頂けるかと思います。

※震災の年は、三陸沿岸地域へ向かう主要道路(南三陸道・国道45号線等)の渋滞が酷く、被災地から夜11時頃に帰宅して、睡眠をとれない状態のまま、未明の午前3時に家を出るといった日々が続いたので、当然の事ながら、移動の最中に目にした被災地の状況を撮影する余裕は皆無でした。

海べりに建てられていた住家の多くは、基礎構造を遺して波にさらわれた。

 東日本大震災は「被災三県」と呼ばれるくらい広範囲で起きた震災(翌12日に長野県の栄村でもM6の地震が起きている)だったことに加え、原発事故を伴っていたこともあり、マンパワーや資材・機材・燃料を始めとする物資が不足していたことから、1年という時を経ても復旧という水準にすら達しないような状況が続いていたことは明らかです。
 また、国や行政の方針(優先順位)により、規模が小さい集落やその界隈の復旧・復興は、中心地域よりも遅くなっていたことは否めません。

想像を絶する津波の威力よ。

 さわさりながら、そのような規模の小さい集落であっても、復旧の気配を感じさせる人跡被災状況を悪化させまいとする人間の意志が随所に見られました。私自身は、そうした光景を目にする度に、その土地に長らく暮らしてきた人々の強かさしたたかさに感服していました。

 進んでいない様でいて、着実に進んでいる。
 分かり易い状況の変化ばかりが進捗ではない。

 そんな小さな一歩にこそ、今に繋がる光明を感じるのです。

地震力と波の力と浮力・・・あらゆる力が加わった結果。

 当時の陸前戸倉地区(公民館の敷地)には、チリ国との友好の証としてモアイ像のレプリカが並んでいました。
 モアイとはラパヌイ語で「未来に生きる」を表しています。その意を具現化するかの如く、この陸前戸倉も復興を果たそうとしています。
 
 かくして、いついかなる状況にあっても、彼の地を温かく見守り、そして復興の道程の無事を祈りながら日々を過ごすばかりです。 

時間はかかって当然。それを受容れないと始まらないのが復興。

3:南三陸町の中心部(かつての志津川町)

 陸前戸倉の折立漁港を出た私達は、10分程で南三陸町の中心部にある「道の駅 さんさん南三陸」に到着しました。
 この復興マルシェは、震災直後の2012年に仮店舗で営業を開始した商店街で、現在は嵩上げを終えた敷地に本設されています。折に触れてメディアに取り上げられているので、ご存知の方も多いでしょう。

§ 道の駅さんさん南三陸 にて

 時は正午過ぎ。当然、腹ペコ状態です。
 商店街に点在する飲食店には、こちらの食欲を刺激するメニューが並んでいましたが、この冬に牡蛎かきを食べていないことに気付いてしまった親子は、迷うことなく「カキフライ」を選択。(※「そこは、海鮮丼だろ!」というツッコミは、甘んじてお引き受け致します。)

食楽 しお彩 さんにてカキフライ御膳(良心価格1400円也)を食す。
小鉢のヒジキも当地ならではの品質だし、とろろ昆布の汁物も美味。

 平日にもかかわらず、店内は仕事で当地を訪れた風のサラリーマンさんや観光客で程よく賑わっていました。それは一時のハレーションの様な混雑とまではいかないものの、駐車場の埋まり具合といい、観光バスの台数といい、全てが「塩梅が良い」といった風で、本当に安堵しました。
 ※安堵ばかりしている伝吉小父です。

§ 中橋を渡って

 食事を終えると直ぐに、中橋(隈研吾氏のデザイン)を渡って、旧防災対策庁舎へ向かいました。

昼時なので橋を渡る人影はなし。

 トラスが美しいアーチで構成された中橋は、木部の経年変化と共に当地の風景に馴染んでおり、いにしえより残るランドスケープ(神社の存在など)を意識した配置からも、土地に対する敬意を感じることができます。
 訪れた人々の心を穏やかにしてくれる存在ですね。

§ 南三陸町の震災遺構 旧防災対策庁舎

 ここからは、私の贅言ぜいげんは無用でしょう。既に全国区となっている震災遺構ではありますが、改めて・・・拙写真から南三陸町中心部の嵩上げの状況旧防災対策庁舎の被災状況を見て頂ければ幸いです。

東側(商店街側)からのアプローチを降りる。
「対策」という言葉の重みを痛感させられるエントランス
建物北面の非常階段の様子
屋上のアンテナに登っていた方々の一部が救助された。
敷地北側のアプローチを登る。
凡そ9mの嵩上げが行われている。

§ 南三陸311メモリアル へ

 旧防災庁舎で鎮魂の祈りを捧げてから、再び商店街のグランドレベルまで登り返して、震災の経験と記憶を共有し、語らいの場として設けられた「南三陸311メモリアル」という施設を見学させて頂きました。

隈研吾ファンの皆様のために、あえて全体像はお見せしません。

 設計はもちろん、隈研吾 氏。シャープなフォルムに、ベクトルを感じさせる直線的なスリットが特徴的です。
 2021年度を最後に当地から遠ざかっていた私にとっては、些か唐突な印象しか湧いてきませんでしたが、これもまた時間の経過と共に馴染んでいくのでしょう。公共建築物の評価は、相応の時間経過を加味して行うべきだと考えているので、その時節を楽しみに見守っていきたいと思います。 

※隈研吾氏についての紹介や作品の印象については、主旨から外れてしまうことから本稿では記しませんが、宮城県には隈氏の建築作品が多く建てられており、かく言う私も全て訪ね歩いておりますので、改めて記事にさせていただく機会を設けたいと考えております。

 この施設では、展示物という物質的なものよりも、音声映像といったアーカイブを通して、東日本大震災の情報を共有することができる点が素晴らしいと感じました。※時間に余裕をもって訪れることをお勧めします。

 また、施設の内外に設けられたアート作品も目を引くところですが、やはりクリスチャン・ボルタンスキーのアート空間「メモリアル」の存在が、この施設のアイデンティティーの一端を担っているように思われます。

 ただ、私は考えるのです。
 南三陸町・・・かつての志津川と呼ばれた漁港の賑わいを回想する時、私の心や胸を充満させるのは立派な箱物や土木建造物ではなく、やはり潮の香波の音、そして漁港の喧騒なのです。
 情緒に偏った感傷を綴るつもりは毛頭ありませんが、こうした無形の音や匂いこそが、この地が有していたはずの自我であり、且つかけがえのない財産のように思われてなりません。

 もし、南三陸町の界隈へ足を運ばれる機会がありましたら、震災関連施設や復興マルシェは勿論のこと、是非にも「防潮堤の向こう側」へお立ち寄りください。(時間や移動に制約がなければ尚更。)
 さすれば、潤いある潮風と潮の香を満喫することができるはずです。
 それをこそが、リアスの南端に位置する南三陸町がもつ本当の魅力であり、それら無形の存在を誰もが享受できるようになってこそ、未来に繋がる復興が果たせたと明言できるものと私は確信しています。

これからの10年が正念場・・・南三陸町の地道なる復興を祈るばかり。

 さて、そろそろ筆を置くことにしましょう。

 非情なまでに「人間力」が試される場となってしまう自然災害・・・。
 震災を経て、復旧・復興に関わる中で否応なしに痛感させられたことは、私には「祈ることしかできないという現実」「目に見える分かり易い変化に一喜一憂せず、粛々と淡々と日々を重ねること」の2点であり、それをこそが復興の近道だという気付きでした。

 そして、今の私が常日頃から心掛けているのは、日々の祈りの中から危機意識を醸成し、それを暮らしの中に定着させることです。
 この習慣を自らに貸す事で、3.11の記憶を薄れさせないことは勿論のこと、我々に不自由と不条理を強いてくる数多の災害に際しても、私を取り巻く人々に一日も早い平穏をもたらすものと確信しています。

 「日々の祈り」それは、私が震災から得た教訓を端的に表す言葉行為になっているのです。

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相も変わらず長文駄文。
最後まで読んで頂き、有難うございました。


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〇 岩手県南部・宮城県北部内陸地震に関する記事

〇 釣石神社や北上川流域に関する記事

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