シン・映画日記『イニシェリン島の精霊』
ユナイテッド・シネマ浦和にてマーティン・マクドナー監督作品『イニシェリン島の精霊』を見てきました。
脚本、俳優、撮影、衣装、美術、音楽、キャスティング、風景、空気感、グロ描写そして動物までもが最高の至福の114分!
これぞ、
映画。
1923年のアイルランドのアラン諸島にある孤島イニシェリン島で、ある日、牧畜を生業とするパードリックが友人のコルムを近所のパブに誘うが無視される。その後、二人はパブで会うが、コルムはパードリックに絶縁を告げる。
たったこれだけのきっかけ。
絶縁を告げられてしまったパードリックは困惑し、しばらくは訳が分からない状態になり、必死でコルムと仲直りしようと話しかけたりして関係修復を試みるが、コルムは頑なにつっぱねる。
絶縁の理由はその後コルム本人からパードリックに概ね聞くことになるが、それでもパードリックは今一つ理解できず、この状況に対して苦しむ。
その上、この映画で中盤からのフックになりうるコルムからパードリックに対して“ある脅し”がある。これは事前にコルムがパブでパードリックに「これをやったらこれを遂行するからな」と予告したことではあるが、映画の中のパードリックも映画見ている観客も「まさかやらないよな…」と思える行動で、これを見た映画の中の人たちも映画を見ている観客もドン引きする可能性が高い。そして、この行動は非常に大胆でグロく、故に映画の評価というか向き・不向きが極端に別れかねないが、ごく個人的には「よくぞやってくれた!」と嬉しい行動で、かなり好みの展開である。
この演出自体の発想はおそらく日本のヤクザのある慣習を取り入れたもので、コルムの部屋に能面があったりしたこともあり、日本のある風習の一つ、監督ならではのオリエタル演出と見ている。
とにかく、全体的にミニマムなシチュエーション、人物相関ながら完璧に人間を描いている。
基本は“いい奴”で、人当たりが良いが、たまに悪酔いをして周りの人に絡みパブの厄介者になるパードリック。
やや気難しい島の音楽家でもあるコルム。
警官の父親と住み、パードリックの友人で、ADHD気味な青年ドミニク。ストーリーではパブでの出入り禁止が解禁されたばかり。
ちょっと内気で読書家だが気が強い所があるパードリックの妹シボーン。そこそこの美人だが、引っ込み思案な性格が災いし婚期を逃している。
その全てを温かく見守るパブの店主。基本的には客を温かく見守るが、ドミニクのやり取りから察するに出禁もあるらしい。
皮肉屋でちょっと厳しい警官のドミニクの父親。島の法の万人で映画を見る限り奥さんがいない。あの性格と島の退屈さから考えると離婚した可能性が高い。
これまた皮肉屋で近所のゴシップが三度の飯より好きな雑貨屋(よろず屋?)の女店主。
そして、
時には予言めいたことを言い放ち、
比較的言葉が少ないが、
誰よりも抜群の存在感を放つミセス・マコーミック。
こうしたイニシェリン島に住む人々の心を事細かに描き、島で起こる不都合な出来事をわんこそばのように次から次へと見せる。
どこまでもいい奴VS頑固なダンディズム。
その裏に二人の精神のミステリーがある。
と言えばカッコいいが、
このパードリックとコルムのいざこざって地方の地元民が出入りするようなカラオケスナックや赤提灯居酒屋で見られがちなあるあるのトラブルだったりする。
トラブルの起因はおそらくお互いの性格の不一致やお互いの知性の隔たりにある。性格の不一致に関しては劇中でパードリックはパブで他の客から指摘されているし、それにごく一般的に偏差値が15違うと会話がなりたたないと言われるが、まるでそれを地でいくようなやり取りだったりする。
いい奴だけどつまらない奴。
それをこれまではパブでの「和」を保つためかコルムは“優しさ”で受け止め、要はその“優しさ”をやめる、というものである。
別に大病を患い「余命幾ばくもない」というわけではないが、ボンクラの戯言、くだらない話を聞くのは時間の無駄。それなら有効に利用したい。
しかしながら、ここで見逃してはならないのは、
だからといってコルムは人間が嫌いになったわけではない、ということだ。
確かにコルムがイニシェリン島にいる理由は「静かさ」を求めているためである。
けど、「静かさを求めるなら山籠りとか無人島で一人でいる方が良くない?」とか
「客が割と出入りしているパブに行くというのは矛盾してない?」って思うかもしれない。
それに、他の客とも喋らないというわけではないし、
人間嫌いというわけではない。むしろ、パブでは周りに女性客が群がったり、他の客と一緒に歌ったり、いわゆる人気者の部類と言えよう。
いや、コルムはむしろ誰かと交流したくあり、またイニシェリン島の中でも気が合う人となら話したい、ということである。
そう、この拒絶はパードリック個人に限定した話である。
そもそも「わざわざパブに行かなくてもいいんじゃね?」って思うが、1923年のイニシェリン島にはパブぐらいしか娯楽がないのであろう。
ならば、「パードリックがほぼ毎日来るこのパブに行かない方がいいのでは?」とか「他の店に行けばいいんじゃね?」
と思うだろうけど、
そこはアイルランドのアラン諸島の孤島イニシェリン島だし、まして時代は1923年。日本で言えば大正時代だし、それこそ関東大震災が起こったとしでもある。さらに、アイルランド本島では内戦の真っ只中。行きたくても危険なんじゃないかな?
まあ、例えイニシェリン島にこの映画に出てきたパブ以外にも別のパブがあってそっちに行くというのは、まさしく「尻尾を巻く」状態であり、
それはそれでコルムのプライドが許さないでしょう。
だから、コルムはパードリックが居たとしてもパブを通うことをやめない。要はパードリックが店に居ても話さない、相手にしなければいいのだ。
ならば、パブの店主もどちらかを出入り禁止にすればいいのに、店主もそれはやらない。
おそらくパードリックもコルムもほぼ毎日店に来るから、店としてはいわゆる“上客”だから無下には出来ない。
後の展開を見た限りでは、どちらかというとパードリックの方に非がありそうな感じではあるが、それでも出禁にはしない。
他の客も同様で、基本的にはパードリックにもコルムにも諭したりはしない。
イギリス、アイルランドはパブの文化が根強い国でケン・ローチ監督作品やイギリス製作のイギリス、アイルランドを舞台にした映画では良く見られる。ケン・ローチ監督作品で言えば『エリックを探せ』が真っ先に思い浮かぶし、ケン・ローチ監督作品でなくても最近見た映画ではウェールズの田舎村を舞台にした『ドリーム・ホース』がまさにそうだった。
そしてこの映画ではこうしたパブのコミュニティの社会、倫理観が良く出来ていて、こうしたパブ文化に馴染みが薄い日本人にも楽しめるし、若干繰り返しにはなるが日本人ならば郊外、地方のカラオケスナックや赤提灯居酒屋に通っている人なら身近なことなのではないかなと思うし、飲み屋や飲食店じゃなくえも小中高のクラス内のコミュニティや会社の社内コミュニティ、カルチャーでもあり得るはなしである。
この映画はもちろんパブ文化だけの映画ではない。
結婚適齢期過ぎのパードリックの妹、シボーンについても深い。兄パードリックと妹シボーンはいわゆる愚兄賢弟ならぬ愚兄賢妹。
この構図、『男はつらいよ』シリーズの寅さんとさくらの異母兄妹にも通じる。
もっともパードリックは寅次郎みたいなテキヤでもないし、一応牧畜の仕事はしっかりやっている、れっきとした労働者である。
が、午後2時にはほぼ毎日パブに行き、ギネスをパイントで何杯も飲んでいるから、映画を見ている観客はパッと見では「こいつ、いつ仕事してんだよ(笑)」って思うであろう。
それに毎日パブで飲んでてお金がもつのか不思議ではあるが、そこはあんまりつっこまなくてもいいかな、と。多分、店にツケで飲むなり、妹から飲み代をサポートしてもらったり、それこそ周りの客にタカるとかいくらでも考えられるし、想像出来る。
あ、飲み足りなきゃ外でドミニクと飲んでるシーンがあるから、実はそんなに飲んでないのかもね。
それでも地元のパブ通いは皆勤賞で、毎回毎回ろくでもない話ばかりしているのは想像出来るし、そういうボンクラ臭はプンプンである。特にドミニクと一緒にいる時はボンクラ臭がマシマシである。
そんなろくでなしな兄貴がいるだけでも妹としては嫌だろうけど、
さらにこの映画の中盤からシボーンにとっては嫌なことばかり起こって後半にある決断をするけど、まあ当然だよね。
このシボーンの周辺にパードリックの飲み仲間のドミニクが関わるんだけど、
このドミニクがパードリック以上に空気が読めない奴で、上記でも書いた通りADHDなんじゃないかな、と思える。
しかも明らかに頭が弱い、というか会話や食事シーンからも低俗、下劣というのが伺え、とにかく彼の良い所を見つける方が難しい。
タロットカードの「愚者」そのものだし、パブでも嫌われ者な様子。
けど、全面的にダメな奴かというとそうではなく、中盤以降に意外な一面を見せたりする。
他にも警官で横柄なドミニクの父親や誰よりも島のニュースが大好きな雑貨屋の女店主など、魅力があるクズ野郎揃いだが、飛び抜けて凄いのはミセス・マコーミックの存在感。セリフは少ないが雰囲気からドルイドというか死神のような存在で度々予言めいたことを言うから余計に死神とか魔女らしさがある。
映画の随所で聞けるアイルランド民謡やトラッドと思わしき音楽も素晴らしいし、
出来るかぎり自然光を使った光の描写もまたいい。
1923年のアイルランドの孤島とあって街灯がほぼなく、室内灯も少ない、若干薄ら暗いがそこがいい。
そして、
この単純な引っ込みがつかない争いの構図は
マーティン・マクドナー監督の前作『スリー・ビルボード』と同様の流れにも近い、いや、ズバリそっくり。『スリー・ビルボード』パート2とも第2ラウンドとも言いたい。が、流石に根本が前作は復讐劇だったのに対して、今回はパブでのご近所さん同士のいざこざだもんね。まあ、その小ささがいいんだけどね。
何れにせよ、終盤のあの展開もやっぱり『スリー・ビルボード』の展開らしさがあったし、
そもそも映画全体が「ボレロ」のような展開である点でも『スリー・ビルボード』の流れにそっくりだ。
そうそう、この映画、一応アメリカのアカデミー賞の各賞にノミネートされてはいるけど、昨今のアカデミー賞の主流であるポリコレ気にしいな描写はほぼ皆無。何しろオール白人。
そう、この映画そのものが優しくなく、コルムそのものである。
なので、これが賞を、特に作品賞を獲ったら、ちょっとしたサプライズだろうね。
まあ、多分、「エブエブ」になるんだろうけどな(笑)。
アメリカの映画界隈の人たちに良心があるのか?
見ものだね。
とにかく、元々劇作家で、「アラン諸島三部作」を実際につくっているマーティン・マクドナー監督の全身全霊と映画のエッセンスが詰め込まれた114分。向き・不向きがかなり極端に出る映画ではあるが、その突き放した姿勢こそがまたこの映画らしくもある。
(以上、ここまで読んでいただきありがとうございます。また、随時加筆します)