てふすす
先日、わたしはおじさんになった。 姪が生まれたのだ。愛おしくて仕方がない。姪の誕生日はおじさんの誕生日でもある。なんてこった。ついに、単に年齢を表すのではなく、時にどこかネガティブな意味合いを含む「おじさん」と同じ音を持つ存在になってしまった(世界中の「おじさん」に謝りたい)。 おじさんの誕生には2種類ある。まず、姪や甥が生まれた瞬間だ。基本的に、姪や甥から見て両親の兄に当たるなら伯父さん、弟に当たるなら叔父さんとなる。私は弟に当たるため、叔父さんになった。 「叔父さん
ピュアに楽しみたい。 ハロウィンに始まり、クリスマス、お正月、バレンタイン、ホワイトデー…一つのイベントが終わると模様替えのごとくめまぐるしく街の景色は変わる。「バレンタインは企業が利益を増やすために利用している〜」、「原価を考えたら損だよね〜」といった商う側目線はとりあえず脇において純粋に楽しみたくなる。 ニンテンドーDSが発売された翌年、まだ小学校低学年だった頃、ある日突然サンタさんの正体を6歳離れた姉に明かされた衝撃は未だに覚えている。私にとっては、スノーデンによる
好きなことや日常の一コマをペタペタとnoteに貼り付けるようになって約一ヶ月。私にとって文章を書くことは脳内にあるものに形を与える作業であり、形を与えることで新たな絵を脳内に描く作業であり、つまりそれは「思考」そのものであり、一種の「お片付け」になる。 普段から片付けをしていれば汚くならないはずの部屋も私の手にかかると様相は一変する(よくない意味で)。もはや、部屋が汚くなることは自然の摂理だと諦めている(小学生の頃、通知表に整理整頓が不十分と書かれた人のあたまの中)。中学国
もし、そんな写真集がこの世界のどこかに存在するならパラパラとめくってみたい。きっと、ツッコミどころ満載でありながらどこか愛おしさの湧く素敵な写真集だろう。 大学の同級生が親から送られてきた仕送りの中身をインスタに投稿していたことがきっかけとなって、私はその魅力に惹きつけられた。当たり前なのかもしれないけれど、人それぞれ驚くほど中身が違う。味がある。物語がある。 私の家に時々届く親からの仕送りは毎回固定の生活用品と季節によって変わるものの2種類に分けられる。シャンプー、洗剤
「名刺」には肩書きがつきものであるから破綻した「名詞」なのだけれど、そんな名刺をいただいたらきっと感動してしまう。 あるNPOの会員になってから生まれて初めて名刺を作り、なんだか少し大人びた感覚に浸りながら交換する。ただ、いただいておきながら役職が羅列された名刺にはなんだか物足りなさを感じてしまう。 私が知りたいことは、ビジネスの場では重要ではないことなのだけれど。むしろ、「余分」とされること。 昔から、「余分」なことが好きだった。高校時代に好きな人に告白したもののうま
私は今、某レオ◯レスの一室でキーボードをタイプしている。(某の使い方が明らかにおかしい) ツイッターのトレンドからLINEニュース、大学の食堂にあるテレビ、時に「親」まで日々あらゆる媒体を通して大小様々な「話題のもの」と触れる。パッと思い浮かぶ最近触れたニュースは ・魚も鏡に映った自分を認識することができるかもしれない。体についた寄生虫を砂利に擦り付けて、取れているかを確認するような仕草が見られた。(かわいい) ・アメリカ政府がファーウェイを起訴(規模が大きすぎて、実態
試験とレポートが終わってほっとしている。普段なら鶏胸肉を選ぶところ、少し値段の張る豚トロを買ってしまうくらいには有頂天になっている。(結果、胃がもたれて気持ち悪い) 「文章を書くこと=思考すること」という図式が脳内に出来上がってから、書くことが楽しくてたまらない。縛りの強いレポートであれば、その枠内でいかに論を展開できるかを試すような感覚で楽しみ、制約の少ないレポートであれば、作品を創りあげるかのような情熱を注ぐ。 大学入学後に課されたレポートで楽しかったレポート(という
kresek : 乾燥した葉の上を歩く音 試験勉強をしなければいけないのに、気づいたら机の上のインドネシア語辞典をパラパラめくっていた(本、ラジオ、youtube、netflixと比べたら時間を費やすことはないだろう♪と思って)。kresekとは、インドネシアのジャワの地域で使われる名詞だそう。こんなにも限定的な音を一言で表す言葉があるなんて...面白い!! mengkristenkan : 〜にキリスト教を信じさせる、〜をキリスト教徒にする、キリスト教徒に改宗させる
試験勉強の気分転換に、そろそろテストがやってくる「社会心理学」の面白さと優しさを語りたい。いわゆる「心理学(Personality Psychology)」が社会における人の行動を「個人の性格や気質」の視点から考えるのに対して、「社会心理学(Social Psychology)」はその人の行動を形作る「環境(社会)」に焦点をあてる。 私がもっとも惹かれたのは「根本的な帰属の誤り(Fundamental attribution error」。固い言葉だらけなので具体例を使っ
あえてオブラートに包むことなく、「生理用品」と「避妊具」について少し考えたい(突然どうした自分)。 というのも、薬局などでコンドーム等を買う時にあの黒い袋や紙袋に過剰に包装されることに違和感を抱くからだ。個人的には、中身は「見えない」けれど「想像できる」ようになってしまう包装だから、むしろ他の薬と同じように透明の袋に入れて欲しくなる。もちろん、中身がみられると恥ずかしいだろうからと袋を重ねてくれているのかもしれない。でも、本当にそうだろうか。 そこが「神聖」な場所だから「
そこにただ「在る」。 名付けられることを「待っている」。 そんな、まだ名前はないけれど「在る」ように思えることに気づく瞬間がある。言語化して初めて「在る」ことになるのかもしれないけれど。 ・映画館を出たときのあのなんともいえないノスタルジックな感覚や爽快感 ・LINEスタンプの入手速度が異常な母(←これは私の親だけじゃないはず) ・片方の靴下だけ行方不明になる(←これはきっと私だけ) ・SNSやネットサーフィン中に突如現れるなかなか消えない広告への怒り ・最初は冷
今まで触れてきた方言の中で音としてもっとも好きな表現。 「雨降りよん」 私は大学入学を機に九州に移住するまで、群馬→東京→千葉というようにずっと関東圏で暮らしていたため方言をもっていません 群馬の方言(あくまで私が住んでいた地域)は「ん」と「さぁ」が強調されるくらいで東京と大して変わらないのです(と群馬県民は語ります)。 東京流 「昨日は何してたの?-買い物に行ってたよー」 群馬流 「昨日何してたん?-買い物に行ってたんさぁ〜」 どうでしょう。 本題の「雨降り
大学生になって以来、どこかで聞いたことのある文学作品や学術書を読み漁りたい欲に駆られ続けている。まだ読んでいないカフカの『変身』から川端康成の『雪国』、リチャード・ドーキンスの「利己的な遺伝子」...終わりがない(Netflixもたくさん観たい、塾のバイトもある、デートもしたい、もー欲だらけ)。 私を悩ませると同時に幸福でもあるのは、ある本を読むと芋づる式に新たに読みたい作品、映画、聞きたい音楽が次々に生まれること。特に、学術書はその本が書かれた前後の学説や同時期の
私の好きなラジオでパーソナリティを務める小説家の朝井リョウが結婚を機に語っていたことが素敵だった。 私は誰かと一緒に生きていくことは、逆説的ですけど自分の人生の主語を自分にすることだなとすごい思っているんですよ。 それは、夫婦とか関係なく「人と人との関係」全部に言えることだと思うんですけど、例えばAKBで総選挙っていうものがあるとして、応援するときに私は「あの子のために」っていう風に自分の考えや人生を誰かに預けるってことをした途端に、人間の関係は「不健康」なものになると
絵画に興味を持つようになったきっかけは、千葉に住む「K」と東京に住む「R」のやりとりにあった。高校を卒業して東京に繰り出した頃、「こんなの自分だって描ける!」と美術の時間にピカソの絵をののしる人生を歩んできた私にとって、「モネ」について語りあう二人の姿は眩しかった。都会の洗礼だ。田舎で育ち、小川の水をせき止めて遊んでいた私とはあまりにもかけ離れている。群馬には美術館なんてなかった(いや、あった)。そんな、「印象派」すらなんのことかさっぱりだった私はある展覧会に足を運んだ(眩
他のnoteでも既に書いてあるように、私はあらゆる意味で「不器用」だ。家庭科の授業ではミシンを壊し、TOEFLの受験票にはミルクティーをこぼし、手や口を汚すことなくケンタッキーのチキンを食べることができない。そんな私が運転をするのだ。怖い以外のなにものでもない。(どうか完全自動運転の時代が早く訪れますように!) 車と運転に全く興味がない私が免許を取る理由は三つ。 ・ふるさとが「群馬」だから。すなわち、車がなければどこにもいけない地域(最寄駅は自宅から7㎞、周りは田んぼ