「大使とその妻」下巻を読み終えて
昨日、「大使とその妻」の下巻を読み終えた。
読書の時間がなかなか確保できず、上巻を読み終えてから既に10日以上経っている。本来であればもっと早くに読み終わっていただろう。結果的にこの物語の世界にそれだけ長く留まることができたので良かったのかもしれない。良書を読み終わった直後によくある現象だが、物語だけが勝手に「あばよ」と立ち去り、一読者に過ぎない私は置いてけぼりにされたような気分だ。しばらくは他の小説は読みたくない。大袈裟かもしれないが他の物語に脳を占領されたくないのだ。
私を取り残してとっとと去って行ったとはいえ、この話の結末は思いの外希望に満ちたものだった。もうちょっと曖昧で悲観的な形で終わるのかと勝手に想像していたのだが。
下巻の前半はこの小説のタイトル「大使とその妻」にある妻の貴子の生い立ちに割かれている。戦前に国をあげて南米への移住が勧められていた時期があった。人口の急増加で耕地不足となりあぶれている貧しい農民を国外に追い出してしまうことが政府の狙いだった。貴子の父もそんな流れで南米ブラジルに行き着いた日本人の1人。貴子はその父や後に彼女の育ての親となる古本屋を営む老夫婦、謎の有閑マダム風北條夫人らによってブラジルにいながらも「ちゃんとした日本人」に育てあげられる。ケヴィンが貴子に抱く第一印象、年齢の割に一昔前の日本女性を彷彿とさせる言葉遣いや立ち居振る舞いの所以はそこにある。
私は幼少期をアメリカ西海岸のサンディエゴで過ごし、親しい友達に日系アメリカ人が多かった。さすがに私と同世代の日系3世や4世にもなると日本語は話せず、完全にアメリカナイズされているが、彼らの親やその上の世代の人たちは日本にいる日本人より「日本人ぽい」という印象を持った。この本を読んでいてそんな事を思い出した。
「ちゃんとした日本人」てなんだろう?
「大使」の妹雪子が酔った勢いで、その場にいる誰よりも「わびさび」に代表される「日本文化」を叩き込まれながら外国で育った貴子や「失われた日本を求めて」なんていうプロジェクトに携わっている外国人のケヴィンの前で、友人に同意を求めてこんなセリフを吐くシーンがある。
果たしてこの雪子さんは本当に「わびさび」のなんたるかをわかっているのだろうか?わかっていると思い込んでいるだけではないか?
ケヴィンには若くして事故死した兄がいる。偉大な将来を嘱望されながら。誰もがもし彼が若くして死ななかったなら何をしても成功していただろうと思い込んでいる。その兄を失った悲しみをケヴィンは何十年もずっと引き摺っているのだが、歳を重ねるにつれ、ある心の境地に至る。
国籍や生い立ち、学歴や職業、ものの考え方やセクシュアリティに至るまで「アイデンティティ」と呼ばれるものは昨今の世の中で後生大事に守られるべきものとされているが、それよりも何よりも人が人を思う気持ちほど尊いものはない。そんなメッセージをこの本から受け取った。
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