【砂糖の日】シュガーロード視点のスイーツの日本史
結論
安土桃山時代、スペイン、ポルトガルから来た宣教師が長崎に南蛮菓子を持ち込み、長崎街道(シュガーロード)を通じて日本各地に広まった。
江戸時代、砂糖を使ったお菓子がシュガーロード沿いで続々と誕生した。
カステラ、金平糖などのお菓子は、現在でも食べられている。
今回は、九州に行って独自に発展したスイーツの歴史を学んできた話をします。
3月10日は砂糖の日
語呂合わせから、「お砂糖“真”時代」推進協議会によって2014年、制定されました。砂糖の良さを発信するだけではなく、東日本大震災発生の前日、長期保存可能なエネルギー源の役割も果たすため、防災について考えるイベントも行われます。「お砂糖“真”時代」推進協議会は、精糖工業会、日本製糖協会、日本ビート糖業協会、日本甘蔗糖工業会、日本分蜜糖工業会、日本砂糖輸出入協議会、全国砂糖代理店会、全国砂糖特約店協同組合連合会の8団体によって結成されました。
シュガーロード
長崎街道は、小倉から佐賀県を通って長崎に至る全長227kmの道です。現在、長崎〜鳥栖間は国道43号、鳥栖〜筑紫野市原田は国号3号、筑紫野市原田~黒崎は国道200号、黒崎〜小倉は国道3号に相当します。道中に、大村、佐賀、飯塚など25の宿場が置かれました。長崎の出島と結んでいたため、幕府も警備を強化するなど長崎街道を重要視していました。
長崎で荷揚げされた砂糖が長崎街道を経由して、大坂、京都、江戸など全国各地へ運ばれたため、長崎街道は「シュガーロード」と言われています。砂糖と同時に、中国、ヨーロッパから伝わったお菓子も入ったため、シュガーロード沿いの街には、海外から伝わったスイーツを元に、お菓子職人によって砂糖を使った新しいお菓子が生み出されました。今回は、その一部を紹介します。
スペイン、ヨーロッパからキリスト教とともに伝わったもの
砂糖
奈良時代、中国から初めて伝わりました。当時は少量しかなく、薬として利用されていました。
安土桃山時代に入り、スペイン、ポルトガルから砂糖が多く輸入されるようになりました。江戸時代には、スペイン、ポルトガルに代わってオランダから砂糖を輸入していました。当時、砂糖は貴重な貿易品だけではなく、船のバランスをとるために、ぎっしり積みこまれていました。オランダが植民地だったインドネシアから黒砂糖、白砂糖が輸出されました。
1641年、平戸からオランダ商館が長崎市の出島に移ってから、ヨーロッパとの貿易は出島に制限されると、長崎は砂糖を独占できるようになりました。
南蛮菓子
南蛮菓子は、16世紀、スペイン、ポルトガルから宣教師、商人を経て伝わりました。南蛮菓子は、砂糖、卵をたっぷり使用しています。
南蛮菓子が誕生したきっかけは、8世紀のイスラーム勢力のヨーロッパへ進出。イスラーム勢力は北アフリカから、スペイン、ポルトガルのあるイベリア半島へ上陸し、支配しました。このときに、砂糖も持ち込まれました。
西アジアから北アフリカでは、現在もイスラームが主要な宗教です。アフリカ大陸側でサトウキビを伝えました。ムスリムの間では砂糖をふんだんに使ったお菓子が食べられていました。理由はラマダン(恵まれない人に寄り添い、何事もなく過ごすことができている日常に感謝するため、日の出から日没まで断食を行う期間)の間、夜中に栄養補給の役割を果たすためです。
イスラーム勢力が撤退して、15世紀にキリスト勢力がイベリア半島を治めた後も、砂糖をふんだんに使ったお菓子が、イベリア半島内に残り、クリスマスの食文化に取り入れられました。中世のカトリック修道院では、貧しい人や巡礼者の疫病、飢饉対策の保存食として利用されました。
シュガーロードで誕生したお菓子
カスドース
平戸に伝わった南蛮菓子です。平戸は九州最西端にあり、長崎より先に貿易港として繁栄していました。
カスドースは、カステラを作る過程で四角に切り分け、溶いた卵をくぐらせ、熱した糖蜜の中で揚げるように浮かび上がらせ、グラニュー糖を、まぶしたお菓子屋。蔦屋が元祖とされています。カスタードより卵黄の色が濃いです。カステラのような見た目をしています。周りを砂糖でコーティングされています。砂糖のシャリシャリ食感、鮮やかな卵黄色の生地、優しい甘さが口に広がります。
カステラ
1573〜1592年、南蛮貿易により、ポルトガル人がスペインのカスティーリャ王国のお菓子として伝わりました。ポルトガルからパン・デ・ローが伝わり、独自に進化したお菓子が長崎カステラです。パン・デ・ローは、小麦粉、卵、砂糖などカステラとほぼ同じ材料です。しかし、カステラより固くパサパサしていたとされています。
長崎市では、一世帯あたりのカステラの年間購入額が全国平均の倍以上です。江戸時代から残っているカステラ屋さんは、福砂屋、松翁軒、岩永梅寿軒などがあります。現存する最古のカステラ屋さんが、福砂屋。初代がポルトガル人から製法を学んでイエズス会の日本本部だった岬の教会(現在の長崎県庁)に近い引地町で1681年創業しました。カステラだけではなく、干菓子、蒸菓子、砂糖漬けなどさまざまな、お菓子も販売されていました。福砂屋の名前の由来は、福建省の砂糖を使用していたことが由来です。二代目は、中国で、縁起の良いとされるコウモリをシンボルマークに採用しました。
長崎では、桃カステラというものもあり、中国で縁起の良い果物とされる桃の形を砂糖で表現しています。桃の節句など祝いの品として用いられました。
金平糖
当時、スペイン、ポルトガルがキリスト教布教し、日本の植民地化を企んでおり、宣教師が信者を増やすために教会で配りました。砂糖を知らなかった日本人に効果があり、中毒性をもたらす甘さで入信させることに成功し、信者を増やしていました。織田信長もお気に入りのお菓子でした。
ポルトガル中部でつくられているコンフェイトスというお菓子がモデルです。砂糖水を大釜で煮詰めて作ります。大きいものを作るためには、ゆっくり冷やして結晶を成長させる必要があるため、10日以上かかります。
びすこうと
ビスケットの原型です。ポルトガル語で二度焼くという意味。長期保存可能にするため、水分を飛ばすため、二度焼いて堅くしました。古代ギリシャ、ローマ時代から軍隊の携行食として作られていました。
丸ぼうろ
ポルトガル、オランダのお菓子ルーツ研究した佐賀の職人たちによって開発され、佐賀藩主に献上されました。ポルトガルで、ケーキを意味する「ボーロ」が名前の由来です。佐賀県では、鍋島家が砂糖をほとんど独占していました。
現在では、佐賀市菓子組合32社製造されています。内閣総理大臣で早稲田大学の創設者でもある大隈重信の好物でした。表面は乾燥して固く香ばしいですが、内側がカラメルでふんわりしていました。サクサクではなくしっとり食感です。
小城羊羹
羊羹のルーツは中国料理の「羹」という熱いスープ。字を見ると、羊肉を使ったスープをイメージされますが、全然違います。肉、野菜をたっぷり入れ、デンプン(水溶き片栗粉など)でとろみをつけたスープです。
練り羊羹は、シュガー街道沿いの佐賀県小城市(佐賀市の西隣)で明治初期に誕生しました。ようかんは、日が経つと表面に砂糖が浮き出てシャリシャリします。このシャリシャリ食感が人気です。
あんこを使っており、栄養価高く、持ち運びも便利で長持ちするため、日清戦争、日露戦争では軍事食として採用されました。日露戦争後も軍との取引が拡大し、発展しました。その歴史があって佐賀市は現在でも、羊羹の消費額が全国1位です。
逸口香
長崎で製造された唐饅頭が一口香として製造され、シュガロードを経て佐賀で漢字が変わりました。
まんじゅうのように丸めて片面ずつ焼くことによって皮と餡の温度差でそれぞれの面が膨らみます。中が空洞となっており、粘りのある黒糖が内側に張り付きます。カラメル内の水分と重曹(炭酸水素ナトリウム)の化学反応を用いて膨らませるカルメ焼きとは違います。
シュガーロード沿いの街では、江戸時代以降に開発されたオリジナルのお菓子をPRし、街の活性化にもつなげる取組をしています。詳しくは、下のHPをご覧ください。
参考文献
原田 博二 ,福田 八郎, 小松 勝助,(2012) ,長崎県謎解き散歩 ,新人物往来社.
川副義淳,(2013) ,佐賀県謎解き散歩 ,新人物往来社.
八百啓介,(2011) ,砂糖の通った道《菓子から見た社会史》 ,弦書房.
尾形希莉子、長谷川直子,(2018) ,地理女子が教える ご当地グルメの地理学, ベレ出版.
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