生きた選択。
僕らは秒単位で『選択』をしている。
例えば今この瞬間も,
君は,好きなあのアーティストの新曲のMVを観ることを選ぶこともできたにも関わらず,
僕のこのエッセイを読むことを『選択』した。
(ありがとうございますめちゃくちゃ感謝しtm)
要するに『選択』とは,
“選んだもの以外を捨てる”ことと同義だ。
もちろん君は,このエッセイを読み終えてから
今頭に浮かんでしまったあのアーティストのMVを観ることができる。
でも中には,
文字通り“どちらかしか選べないもの”もある。
例えば…,ほんとに例えばね。
クリスマスの夜に,
恋人と洒落たジャズバーに行くことと,
今夜が峠といわれた親友の病床に立ち会うことの両方を選ぶことはできない。
そういう意味では,
「二度と還らない今この瞬間」に何をするかは,
“一つしか”選ぶことはできない。
人は誰しも,「捨てることのできない選択肢」をもってこの世に生を受ける。
それは,『死』だ。
今この瞬間も,
僕らは人生の終幕へと向かっている。
内容が悲観的だって?
いや,むしろ超現実的だ。
「誰しもいずれ死ぬ」という事実から現実逃避している方が,よっぽど“後ろ向き”だと思う。
どうせなら,
“前向き”に死に向かった方が,
人生が楽しくなる。
それは決して刹那的な生き方ではなく,
「きちんと“今”と向き合う」という生き方。
時間は有限。
時間は命。
今この瞬間に,
“命という名の資産”を何に『託す』か。
極端な表現だけど,
「よりよく生きる」とは
「よりよく死ぬ」ということだ。
君の日々の『選択』は,
どれくらい“君の生きた証”と呼べるだろうか。
𝚙𝚑𝚘𝚝𝚘 𝚋𝚢 𝙺𝚄𝚁𝙾’
𝚜𝚘𝚗𝚢 α𝟼𝟺𝟶𝟶/𝙷𝚎𝚕𝚒𝚘𝚜𝟺𝟺-𝟸 𝟻𝟾𝚖𝚖 𝙵𝟸