家族のこと(母)①
今日は母親のことを書いていきます。
これまで度々母親のことに触れてきましたが、母に対する気持ちはかなり複雑なため、整理できるかどうか分かりませんが、とりあえず感じたことをそのまま書いてみます。
以前書いたとおり、私が幼稚園の頃、母は父に暴力を受けていました。
母は酒が強く、父に暴力を受けた後は酒に溺れていたようです。
最近になって母自らが明かしてくれましたが、幼い二人息子にそれを悟られぬよう、台所の流しの下にワインを隠し持っていて、子供が寝静まった後に毎晩ひっそりと飲んでいたそうです。
そんな母でしたが、幼少期の自分にとっては、とても優しい存在であったと記憶しています。
小さい頃よく「大人になったらママと結婚する」と言っていたのを覚えています。
母は料理が得意で、私はよく台所で母が夕食を作るそばで勉強したり遊んだりしていました。
箸や皿を出して夕食の手伝いをするのが大好きで、小学校に入ってからも台所で宿題をしていましたし、皿を洗ったり、洗った皿をふきんで拭いたりして母の手伝いをするのが好きでした。
小学校低学年の頃は、母に対して良い印象しか持っていなかったように思います。
以前書きましたが、その頃母は父と離婚しました。
当時、私の小学校の担任Aは、大学を出たばかりの新卒の男性でした。
学生時代からトランペットを吹いており、クラシックを聴いていたようです。
母は、面談や家庭訪問か何かで担任Aと音楽の話をしたようで、その後急にクラシックを聴き出すようになります。
担任Aとの連絡ノートにも「学校で流れる下校の曲のピアノは、ショパンのノクターンなんですよ」などとやりとりをしており、母がクラシックに傾倒するきっかけだったようです。
早い話、母と担任Aは付き合っていたようです。
そういえば、家庭訪問でもないのに担任Aが自宅に来て、一緒に夕食を食べた記憶があります。
息子の担任を自宅に招き、一緒に食事するなんて非常識ですよね。
担任Aは大学を卒業したばかりの新任でしたから、まだ20代前半。
母は既に30代後半。
良い歳をした大人が、こんな非常的なことをして、恥ずかしくなかったのかと思います。
事実、祖父は急に自宅に来た担任Aを見て母に「あれば誰だ?」と不審そうに訊いていました。
まだ小学生だった自分は、自宅に担任が来て一緒にご飯を食べるというシチュエーションがおかしいとは気づかず、同級生にそのことを話してしまい、その同級生が親に話し、その親からかなり不審がられた記憶があります。
今になって思えば、当然のことですよね。
母の非常識さが路程した出来事だと思います。
母と担任Aの話は、まだまだ続きがあります。
小学校3年生の時に担任が転勤することになり、4年からは新しい担任Bが赴任してきたのですが、この新担任Bが赴任してきてすぐに、以前の担任Aが所属するアマチュアオーケストラのコンサートがありました。
母はこのコンサートのチラシをクラス全員に配り、「みんなでA先生のコンサートを見に行きましょう」と声を掛けたんです。
新しく赴任したきた担任B先生は、どのような思いでその光景を見ていたでしょうか。
事実、母にすぐにB先生に呼ばれ、色々と話をしていましたが、自宅に戻ると「あいつ(B先生のこと)、嫌い」と言っていました。
この後、B先生もクラスの中でチラシについて触れ、クラス全員に向かって「今の担任はA先生じゃないです。Bです。こういうこと、とても良くないと思います」と言っていたことは、今でも覚えています。
これを機に、当たり前ですが母と担任Bとの仲は険悪になり、担任Bにとって私は「面倒な家庭の子」と思われるようになりました。
当時、私は同級生の弟、C君とよく遊んでいたのですが、母はこのC君の家庭が嫌いでした。
その家は、私の同級生の女の子と、弟のC君、お母さんとお父さんの4人家族でした。
共働きで両親が不在がちであり、2人の子供におもちゃやゲームをよく買い与えていた家庭でした。
恐らく母はそのことを疎んでいたんだと思います。
よく「あんな子供に感心のない親なんて」と言っていました。
C君の家によく遊びに行っていましたが、お母さんは物腰が柔らかくてとても優しく、お父さんはちょっと怖そうな印象でしたが子供にはとても優しく接しており、家族仲はとても良く笑顔の絶えない家庭だったと記憶しています。
休みの日は、家族でよく出かけていました。
金銭的にはおそらく裕福だったのでしょう。
でも、ドラえもんのスネ夫のように周囲に自慢するようなことはなく、家族が楽しそうに過ごしている印象でした。
母はこの家庭を嫌い、「あの家には行っちゃいけない」「Cちゃんとは遊んじゃいけない」とよく言われました。
子供の自分にとって、遊びを禁じられるのは苦痛でしかありませんでした。
担任B先生にこのことを話したところ、B先生は喜んで「子供に遊びに行っちゃいけないなんていう親の言うことを聞く必要なんてない。どんどん遊びに行きなさい」と言いました。
母と険悪な関係でしたから、母を悪く言う絶好の機会だったのでしょう。
B先生の言葉を信じ、C君の家に遊びに行っていたら、母に「どうせB(先生)に告げ口したんでしょ。遊びに行けって言われたんでしょ。もういいわよ。そうやって二人で私のことをいじめなさいよ」といじけたように言われました。
小学生の息子にこういうことを言うような母だったのです。
その後、小学校高学年になると、自分はクラスの中で次第にいじめられるようになってきました。
やはり母のさまざまな言動のせいで、クラスでは「ちょっとおかしい家の子」と認識され、成長するにつれてクラスの中で孤立するようになっていました。
自分も、自分の家とクラスメイトの家とが何か違うということはなんとなく気づいていましたが、自分の家がおかしいとは思っておらず、なぜ自分がクラスに馴染めないのか分かりませんでした。
その後も担任Bと母は犬猿の仲であり、母は担任Bへの文句ばかりでクラスのいじめには何も口を出さず、自分は次第に追いつめられていき、クラスの中で癇癪を起こしたり、すぐ泣いたり、わめいたりしていました。
クラスで悪口を言われたら大声で泣きわめき、家庭科室へ走って包丁を探して「自殺してやる!」とわめいたり、
いじめたクラスメイトのランドセルを教室の2階の窓から放り投げたり、
いじめられて泣きながら教室を出て、休み時間に勝手に自宅に帰ってしまったり、
とにかく問題の多い子供でした。
こういったエピソードが数多くあるにも関わらず、母は何も力になってくれず、担任Bも何も力になってくれませんでした。
自分は、感情をどう処理して良いか分からず、ただ泣く・わめくといった行動でしか示せない状態で、誰も話を聞いてくれず、ただただ悲しかった記憶があります。
そんな中、ある時自分が泣きわめいたところで、校長先生が来て、笑顔で優しく「○○くん(私の名字)、校長室へ一緒に来ないか」と言ってくれました。
泣きながら校長室へ行き、校長先生と色々な話をしました。
両親が離婚して父がおらず、兄とも殆ど口を利いていなかった自分にとって、校長先生は初めてちゃんと自分の話を聞いてくれた「大人の男性」でした。
校長先生は、色々と面白い話やためになる話ををしてくれ、自分も色々なことを話しました。
そのまま数週間、校長室へ通いました。
校長先生が仕事で忙しいときは、「音楽の先生に話をしておいたから、音楽室へ行きなさい」と言われ、音楽の先生に校歌のピアノ伴奏を教えて貰いました。
以前書きましたが、独学だった私のピアノを、初めてまともに教えてくれたのは、この音楽の先生です。
音楽の先生も忙しいときは、校長室で自習していました。
幸い、学校の成績は優秀だったので、影響はありませんでした。
ただ、給食の時間だけは校長先生から「給食は自分のクラスでちゃんと食べなさい。午後になったらまた色々話そう」と言われ、給食のときだけ自分のクラスに戻らされました。
登校してそのまま校長室で過ごし、給食の時だけ教室に戻ってきた自分のことを、クラス全員腫れ物に触るような態度で扱い、誰一人話しかけてはきませんでした。
その後、経緯は覚えていないのですが結局はクラスに戻り、その年の学校行事で初めて校歌のピアノ伴奏をしたことは覚えています。
そのまま小学校卒業まで、色々なことはありましたが以前のように泣きわめくようなことは少なくなっていきました。
母の話から自分の問題児ぶりを書いてしまいましたが、屈折した小学校時代を過ごしていたことはお分かりいただけたかと思います。
母は高校卒業後、就職で上京して実家を出て、OLをしながら父と出会って結婚したため、やたらと「田舎を出て都会で暮らしていた」ことを誇らしげに思っていたようです。
働かない父のせいで実家に戻ることになり、祖父と同居しなければならないことが苦痛だったのだと思います。
そのため、ことあるごとに「都会では○○だ」等と言っていたことを覚えています。
小学生の頃、学校で「好きなフルーツ」の話が出たことを母に話したところ、「他の家はオレンジとかリンゴとか、普通のものしか答えられないだろうけど、うちはあんた達が小さい頃から珍しい食べ物ばかりを買ってきているから、そんな普通の答えをする必要はない」などと得意げに言っていました。
当時、母はよく「マンゴスチン」を買ってきていました。
あまり一般的なフルーツとはいえない気がしますが、自慢げに「ほら、うちはこういうフルーツも食べられるでしょう」と言っていました。
クラスでマンゴスチンの話をしたら、クラス中にからかわれたのを覚えています。
小学生にとって、語尾が「チン」のものは、笑いの種にしかならないでしょう。
母にはそういう感覚が欠如していたと思います。
前述の担任A先生の影響でクラシックを聴くようになってからは、度々クラシックのコンサートにも連れて行かれました。
都会的になものを好み、朝食は必ずパン、
週末は家族3人(もちろん祖父は家族の中に入っていないです)でレストランで外食、
実家は地方の田舎ですが、地元の名産等は一切食卓に出てこず、
たまに祖父が野菜を採ってくると「こんな不揃いで汚い野菜なんて誰が使うか!」と怒りを露わにしていました。
きっと都会生活に未練があったのだと思います。
今となっては自分も都会に住んでいるので、その気持ちも分からなくもないですが、まだ小学生だった自分にとって、母のこれらの言動は良い影響があったとは思えません。
こうして振り返ると、やはり自分は母や先生等「大人」からの愛情に飢えていたんだと思います。
校長先生には本当にお世話になりましたが、僅かな期間のみでした。
人生にもしもはありませんが、もし担任Bとの関係が、校長先生との関係のような間柄だったら、私の人生は変わっていたかもしれません。
いや、それよりも担任Aと母が男女の関係になっていなかったら、
もし小学校の担任がA先生でなかったら、
私の人生は今と違っていたことでしょう。
休職中、リワーク活動の中で、過去の自分のことを整理していた時に、書籍から「スキーマ療法」を知りました。
スキーマとは、自動思考の根っこの部分で、子ども時代や思春期の環境や対人関係で形成されます。
すべての子どもににおいて、当然満たされるべき心の欲求が満たされないまま成長したことで、呪いのように自分の「生きづらさ」を形成してしまうものです。
スキーマ療法の本のワークに取り組んだ結果、自分には「完璧主義的(〜べき)スキーマ」と「感情抑制スキーマ」の2つが大きくあることが分かりました。
幼少期から複雑な家庭で育ったため、常に「ちゃんとしていなければならない」と意識させらたように思います。
事実、自分は前述の問題行動はあったものの、成績は優秀でした。
勉強さえきちんとしていれば大人は怒らない、と思っていたからです。
学校で先生に怒られるのは、宿題をやってこない、授業中にふざける子どもたちでした。
その光景を見ていて「ちゃんとしていれば大人は怒らない」と判断していたのだと思います。
一方で、いつもちゃんとしていれば大人は怒らないけど、クラスの子からはいじめられることが多く、その度に泣いたりわめいたりしていましたが、そんな自分を周囲は理解してくれませんでした。
先生や親は「そんなことで泣くな」としか言ってくれず、泣いている理由をしっかり聴いてくれて、ちゃんと話してくれたのは校長先生だけでした。
そんな幼少期だったので、いつの間にか「泣いてはいけない」と感情抑制に囚われて成長していったように思います。
こういったスキーマに囚われていたことで、自分は常に「学校・先生・親・会社・上司・先から、ちゃんとやれと言われ続けている」ように感じてしまい、更に感情を抑制することししかできないため自分の状態をうまく表現できず、追いつめられて休職に至ったんだと思います。
ということで、今回は母の話を中心に、小学校時代までの自分の体験から休職原因を探ってきました。
母の話は、まだ小学校までの話です。
この後も、まだまだ言いたいことがたくさんあります。
長くなりそうなので、今回はここまでにして、次回は中学〜高校くらいまでを振り返ってみようと思います。
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