生と死の権利
誰にでも、生きる権利はあります。
というかあるべきだと思います。
世界中を見ると、まだまだ人権や生きる権利さえも保証されていない人たちも沢山いると思いますが…
では、命を終わらす権利はどうでしょうか?
少しセンシティブな内容かもしれませんので、ご了承いただけますと幸いです。
村田沙耶香さんの『殺人出産』を読んで、ふと考えました。
この小説は表題の他にも三編入っており、その中の「殺人出産」と「余命」という短い小説を読んで考えたことです。
(以下、多少ネタバレを含みます)
〜殺人出産〜
その世界では「10人産むと1人の命を奪える」
という制度が存在します。
少子高齢化の対策として設置されたものですが、「殺意」が「新しい命」を誕生させるという皮肉的な制度になっています。
〜余命〜
医療が発達しきって、世界から「死」がなくなって100年。
老衰もなく、事故や他殺でも、すぐに蘇生される世界。
そんな中で、人々は自ら「死」を選ぶ。
そろそろかなという時期に、流行りの死に方、かっこいい死に方、可愛い死に方、中にはカップル死も…
このお話を読んで、「生きる権利」があるなら「死ぬ権利」もあって良いのでは?と思いました。(物議を醸しそうですが…)
ただ、「他人」の命を奪う権利はあってはならないと思います。
これは「人権」を推し進めるものとして譲れない考えです。
だから私は「死刑制度」には反対です。
それはさておき、ここでは、自身の命を奪う権利に注目したいと思います。
例えば、安楽死や尊厳死などです。
不治の病、延命のために激しい苦痛を強いるような病の場合はどうでしょう。もしその人が「生きたい」のであれば、話は別ですが、「死にたい」のであれば、認めても良いんじゃないかと思います。
(法的なことや、その承認過程の様々な壁は置いておいて)
私は、自殺は権利としてあっても良いんじゃないかなと思います。
しかし、人を自殺に追いやる社会的要因は排除していくべきだと考えます。
あくまでこれらは「私」の意見なので、そこはご理解いただけると幸いです。
社会学のお話(宣伝)
先日エミール・デュルケムの『自殺論』を読みました。
一見、個人的なものとして扱われる「自殺」ですが、社会的自殺率をみると、そこにはある傾向が見えてきます。
人々の自殺にはある傾向があり、それらは社会の様々な要因によって規定されているのです。
と自殺を社会学的に研究したデュルケムですが、「社会的事実をモノとして捉えよ」という言葉は有名ですね。
私の専門は教育社会学なので、社会学についても学んでいます。教育だけでなく、社会学についても何か発信できたらと思います!
ということで、今回は「死ぬ権利」について考えてみました。
ここで、私が最近悩んでいることについて共有します。
それは、
「死ぬ権利は人権に入るのか」
です。
色々な状況や立場に立って考えてみると、これはすごく難しい問題だなぁと…
また、人権については、また別の記事でお話できればと思います。
以上になります。ここまでお付き合いいただき本当にありがとうございます!少し重めの内容になりますが、頭の中でぐるぐるしていたので、ここで共有できたのはすごくありがたいです。
こんな重い話はポンポン載せませんが、これからも色々共有していけたらと思います。どうぞよろしくお願いいたします😌
以下に『殺人出産』と『自殺論』のリンクを貼っておきます。
You made my day✨