ホームスクール世代、過渡期からその先へ
2018/07/21書きはじめ 最終更新2018/09/11
日本のホームスクールの歴史を年代順に追っていく試みです。
【1990年より少し前から2000年以前】
今から15年ほど前、1990年より少し前からのホームスクールは、ネット上での情報が少ないものの、日本の各地ですでに実践されていたことがわかります。まだインターネットを活用するなどホームスクール家庭同志のつながりは少なく、その数も少なかったかもしれません。そんな中で、ホームスクールを実践しようという家庭は、手探りの中、海外のホームスクーリングの教育実践者の報告例や教育哲学の提唱を参考にして、「わが家のホームスクーリング」を形作っていったように感じられます。アメリカのホームスクーリング(Homeschooling)を試みた家庭の多くは、おのずとカリキュラムのないこどもたちの成長にゆだねたアンスクーリング(Unschooling)のスタイルに変更している様子がみられます。日本の風土になじんだスタイルだといえそうです。
ホームスクーリングを続ける家庭ではアメリカのホームスクーリング事情と同じく、親の「燃え尽き症候群」などの共通した課題があります。それは今現在ホームスクーリングをおこなう家庭でも変わらないようです。
この時期のホームスクール実践者からは、教育者「ジョン・ホルト」の名がよく出されます。実は私はこの著作を読んだことがありません。少しずつトピックとして目にする部分においては、非常に共感する、同意するところが多いです。「学校教育」「学校」という点において、既存の形態にとらわれない教育形態を認識していきます。『被抑圧者の教育学』の著書「パウロ・フレイレ」に影響を与えられた人も多いことでしょう。
【教育とはなにか】について、省みることを求められる時代の始まりです。
対外的にぶつかる諸課題は、この時代も今とそう変わらないように思えます。ただ、それに対しての家庭の反応の様子や根拠が、時代とともに変化してきているのは間違いないようです。「ホームスクール世代」と称して、あくまで個人的な見解であることを前提に、記していきます。
【2000年から2010年まで】
10年ほど前、2000年より後のホームスクールからは、ネット上で得られる情報としてホームスクール家庭が発信するブログも見つけることができます。それらの特徴として自然育児からの自然な流れとしてのホームスクール、いわゆるアンスクーリング(Unschooling)の台頭です。ホーム・ベイスド・エデュケーション(Home-based education)、ホームエデュケーション(Home-Education)という呼び方もされました。
アンスクーリングの意味する「自然」とは、自然環境の中で過ごすことに限定していません。命のリズムとしての自然あるがままという感じです。”バイオリズム””サーカディアンリズム(概日リズム)”といったものです。科学の発達した現代社会でわすれられがちな五感をフル活用した暮らしが、見直され、静かに広がったのでした。
この時期のホームスクーラーからよく出る教育者の名は「ルドルフ・シュタイナー」「マリア・モンテッソーリ」です。こどもをそれまでの「小さな人間」とはとらえず、その発達段階における「ひとりの人間」としてとらえ直されるようになり、その発達段階に適した対応をすることで、こどもらしくすこやかに順調に成長していく道筋が示されるよういなったのでした。それは知識の詰め込みや教育内容の吟味とは違った「人を育てる」という意味の教育の在り方を考えていくことでした。
物質社会が飽和状態となり、おそらく人々は見えない「こころ」「魂」「スピリッツ」そして、子育てのなかでおしこまれがちな「感情のコントロール(抑圧ではなく、自分で管理監督できるようになること)」について認識し、本当の豊かさとはなにかについて視野を広げるようになったのです。
【こども とはなにか】について考え、”こども”の定義がとらえ直されたのでした。
【2010年から現在まで】
今から5年ほど前、2010年を過ぎた頃には、日本では早期教育ブームの隆盛期です。「カール・ビッテの例」から始まる早期教育は、教育の前倒しを否定し、乳幼児の心身の成長発達に適した育児環境に注目する流れ(➀)と、脳科学に基づいた刺激と成果というフラッシュカードを用いる流れ(②)、身体能力の可能性を引き出す流れ(③)の3つの流れが入り混じり、それまで情操教育と謳われた分野が「根拠ある教育方法」として体系的なプログラムを展開する勢いです。
数多くの〇〇流派が、教育産業としてしのぎを削っている背景にはリーマンショック、不況があるのでしょう。少子化に伴い、こどもひとりにかける教育費の比重を高めることができるようになり、早い段階から「お受験」を見据え、よりより教育を求める家庭が増加。そのなかから自学自習スタイルで、能力を伸ばすこどもも注目され始め、そこに学校に教育の成果をもとめない風潮が登場します。管理教育が厳しさを増した社会背景も手伝って、「失敗が許されない」という目に見えないプレッシャーを感じて親になった大人たちはこぞって経済的な余裕のあるところから順に「こどもに最高の教育を」と要求されてきたのでした。それに応えるように、その新たな市場に参入した企業が教育産業と呼ばれるのです。最高の教育のその先にある成功を求めた親たちは、次々と生み出される教育メソッドを手に入れようとする消費者ターゲットになったのでした。
ここでいう早期教育とは「前倒し教育」「先取り教育」とは異なっています。「ちいさな人間」として扱われていたこども観の前には「とにかく早く身につけさせる」ことを早期教育といいました。こどもの成長発達という視点を持っている今では、個々の発達段階に適し、個々のペースにあわせてステップアップする教育という意味が大きく、先取りではなく、進みの早いこどもでも年齢という区切りで分けることなく、その時必要な求めている学習を与えるという考えに立っているのです。
また「英才教育」も多少の変容を見せています。英才教育と言えばスパルタ教育のようなものをイメージしてきたと思います。社会的に高い位置にある肩書を持つ教授陣による高度な、そして月謝も同じく高価な教育。そんなイメージではないでしょうか。
今は違います。英才教育とは幼少時の早期になにかしらの才能が確認できたこどもに対して、その才能を重点的に伸ばそうとその分野の専門家(プロフェッショナル)による指導を受けることをいいます。さらに教育学的にも体系的であることが求められます。才能を発見するという段階では、まだ家庭教育に委ねられていますが、発現した才能を伸ばすためには最高の環境を用意するという意味の英才教育です。
日本では「ちいさいときから習い事をすれば、その才能が伸びる」というとらえ方がまだ大多数のような印象を受けます。ですから「やりはじめたことは最後まで」とか「継続する力」などと、ともすれば根性論が持ち上がりがちです。諸外の先進国では「それが本当に好きでなければ続かないし、無理に続けさせてもやはり長続きもしなければ、成長もみられない」とわかっていて、「好きなことを伸ばす」ためにその環境を整えるという考えに立っています。
「好きなことを伸ばす」というフレーズだけは昨今、日本でもひろがっているようですが、果たしてその「好きなこと」とはなんだろうか?と疑問に感じることが時にはあります。それは好きなことであるのか、それともできてしまうことであるのか。こどもの意思を尊重する前に、評価を受け、承認欲求が満たされるようなものを大人の側で押し付けていたりしていないでしょうか。
【こどもの個々の才能を認める】ということは、こどもひとりひとりの人生を丁寧に育んでいくという視点に立ち始めたということだといえます。
ホームスクールという各家庭独自のスタイルでまなびを進めていく過程で、このような幼児教育や早期教育そしていわゆるエリート教育は「教育の成果」という点で、「学力を身につける」という点に共通点を見せ始めました。学力を身につけることは学校教育の学習カリキュラムにおけるねらいでもあります。それまでは学力という側面でなく人間的な成長や、もっと全体的な視点であるはずのホームスクールが「学力」という側面に見える効率性や生産性という成果に注目が集まっています。
すると「学校教育に代わる教育」つまり「代替教育」という意味でのオルタナティブの要素を呈してきました。それまでのホームスクールは、オルタナティブ教育には含まれないという見方もありました。家庭の内と外との関係性があるかないかという点において、果たしてそれらは「スクール」なのか?という疑問からです。ホームスクールは「学校」なのか。それとも「学校」という前提すら見直されるようになるのかもしれません。教育という本質的な営みを行う場とは。学習という人間の本能ともいえる能力と、それら能力が削がれることがない配慮がされた環境との組み合わせは、長いような短いような「学校」という歴史においては実は語られてこなかったのかもしれません。今、「学校」「教育」「学習」のそれらについて、さらに知が結集されていくことでしょう。ホームスクールは、このようにオルタナティブ教育と学校という在り方に一投を投じますが、ではオルタナティブ教育とはなにかについてはどのように語られているでしょうか。
【オルタナティブ教育とは】
オルタナティブスクールについて、私自身が整理するうえでまとめた解釈・定義は《モンテッソーリ教育やシュタイナー教育、サドベリースクールなどスタッフが体系的な研修を受けており、統一した理念と方針に基づいて運営されるフリースクール》というものです。2009年にテレビ放映で紹介されたイエナプラン・イエナスクールが再び注目を集めています。これも含むでしょう。これはフリースクールの定義・解釈との区別をつけるためでもあります。フリースクールの定義・解釈は《各フリースクール運営者の理念と方針に基づいた自由な教育方法でまなぶことができる》としました。(※ホームスクーリング・センターkokage ホーム>つなぎあい>コミュニティデコレーションケーキ参照)
モンテッソーリ教育、シュタイナー教育、サドベリースクールを並列して挙げました。しかしながら日本において厳密なモンテッソーリスクール(学校)、シュタイナースクール(学校)の数は少なく、多くはそのメソッドといわれるようなツールやノウハウを一部に採用したものです。まだまだその理解は深いとは言えないでしょう。
シュタイナー教育は、教育だけが注目されがちですが、社会全体の生活のなかのひとつである教育が切り取られているだけです。家庭、地域、学校、社会の仕組みなどがそれぞれにシュタイナーの世界観を持つなかで繰り広げられているのです。
モンテッソーリ教育は幼児教育時期がよく知られているかと思いますが、実は青年期を過ぎた過程もあり、自然観、宇宙観へと世界観が広がっていくのがわかります。いずれも人間の持つ未知の分野にすら教育分野が担う重要なものとして、人全体を引き受けてきた覚悟が見えるのではないでしょうか。これらは日本の文化人類学的な《こども観》にちかしいものを感じますが、どういうわけか日本の《学校観》はここからひどくかけ離れているようにも思えます。
いずれもスクールとしては、独自のカリキュラムを持ち、一貫教育として確立されています。環境が変わるという前提が無いのかもしれません。シュタイナーの世界観では、人が一生において過ごす世界で育まれるうえでの話ですし、モンテッソーリ教育では家庭を始め、こどもに身近にいる大人がこどもの成長を手伝うという子ども観で育まれていくものだからです。私なりの解釈ではありますが。
イエナプランの様子は、日本の学校の教室でみられるような「平等」「同じように」「不公平でない」の意味がまるで違うことに衝撃を受けます。ひとりのこどもが先生の膝の上に乗っているのを見て、日本の教室ではどのように言われるのか想像がつくと思います。そうです。みんなと同じように、が条件なら、みんな一緒に同時にできるはずもないことを求めてはいけないとたしなめられてしまうのですね。ですがイエナスクールのその教室では、だれもが「あの子は、今、そうしたい気持ち」ということをひとりひとりがごく自然に受け容れ、気持ちが引き起こす行動までも受け容れることができているのです。ひとりひとりに割り当てられた分厚いバインダーを毎日記録する先生の姿に育児日記や連絡帳をつける日本のママたちの姿が重なりました。ひとりで背負い込まずに、誰かに安心して任せるためのアイテムが記録です。実は、私はひとりめの育児日記こそたのしく記録していましたが、さすがに4人は無理なんて思っていたところにこの放映を見て、やる気を起こしたのですが、あえなく…でした。それでも託児所にお願いする時にはみっつほどのベビーサインをノートに書いて渡し、預かる方がこどもとコミュニケーションが取れるようにしてみると、どちらもストレスが激減するので助かったということがありました。
「サドベリースクール」は、なかでもそこに学校教育との妥協が可能な代替教育とみなされる要素が高いようにみえます。サドベリースクールでは、サドベリーバレースクールの教育指針を基本として、その理念を引き継いだスクールでの実地研修を受けることでスタッフになることができます。その承認はスクールのスタッフがおこなうだけでなくスクール生の承認も当然必須です。シュタイナーやモンテッソーリの体系的なカリキュラムが熟練したおとなたちの手によって展開されるのに比べ、サドベリスクールではスクール生とスタッフが対等な関係性を持っています。民主主義を体感してまなぶ学校なのです。スクール生の個人の尊厳が尊重されます。スクールで過ごした成果や過ごすことの目的は一般的な学校に期待されるものとは異なっています。それは理論ではなく、スクール生の間、スタッフとの関係性で徹底的に行動で示されているのです。スタッフはそのまなびを邪魔しないことを徹底的に求められていることでしょう。
日本のサドベリースクールの特異な点は、こどもを取り巻く環境にあります。それが日本社会であるということです。彼らが「学習」や「教育」の価値観にふれる機会が圧倒的に日本社会のそれなのではないだろうか、という点です。その価値観から自由になる可能性はおおいに高いものですが、スクール生個人を取り巻く環境に大いに影響される部分なのかもしれないと考えられます。あるいはスクール生の内心とは裏腹に、周囲のおとなたちの理解できる範囲でのみ語られてしまうこともあるのではないかと危惧する一面もあります。これは日本という環境ゆえんです。オルタナティブ教育という世界観が、ただ単に代替教育という位置づけとして理解されるのではなく、従来の枠組みすらも超える未知の可能性を持つものだという周知が求められるのではないかと考えられます。それが無いうちには、サドベリースクール生はこの点でおとなが期待する「優秀な」「成功者の」こどもたちという位置づけに置かれやすいように見えます。こどもたちからみれば、「そんなおもしろくもないことなど目標にすら置いていないのに」なんて感じてたりはしないでしょうか。もう少し具体的に言うなら、例えば学校でまなぶカリキュラムに興味を示した場合に、それらの学習内容の想定が「日本の学校教育に沿うこと」の域を出ないのではないか。学習方法は多様であっても、教科学習という概念から飛び出ることは、果たしてどれだけ期待できるのだろうか。それらは、彼らを取り巻く環境に影響されるのではないか、ということなのです。
学校にもいろんなこどもがいるように、オルタナティブスクールに通うこどもたちにもいろんなこどもがいて、その将来も未確定です。どこへ通っても、そのこどもの生来の特質は持ったままです。その道それぞれが多様な経験をもたらすことで歩む道は多様になりますが、長い人生を振り返ったときにもっとも大切にしたいと願ってきたことは、どこにいても変わらないと会得するのかもしれません。
【ホームスクールは自由教育】
明確な境界線があるような無いような、学校教育と自由教育の理解はどのように推し進められていくのでしょうか
海外で認められているホームスクールは、ほとんどが「代替教育」としてのホームスクールであるように受けいれられており、ホームスクーラー向けの教材が用意され、保護者が教員の代替として監督者となり市に登録され、自宅内学校のカリキュラムが構成され、それに沿った「教育の時間」が確保されるものをさすのだという認識が広まりつつあるように見えます。それが義務教育として認定される制度なのだという印象を覚えるとしたら、それは今までなじんできた日本の「学校教育制度」が前提にあるからでしょう。
日本でも、なかんずく、ホームスクールあるいはホームスクール制度とはそのようなものとしてとらえられ、教育や学校といえば他国の教育方法がとりあげられていますが、国の政策や人々の暮らしの背景や文化や思想は抜きにされています。その仕組みだけを取り出し、その仕組みのある国を称賛する向きがあります。
さて公的に認められること、学校教育と互換性があることがホームスクール制度であると受け止められるのであれば、文科省が作成するホームスクーラー向け教材を使用した学習プログラムに取り組むことで学校教育を履修した出席扱いとなる日は、そう遠くないのかもしれないとさえ思います。ですが、そのカリキュラム内容がすなわち国の定める義務教育課程という認識にとってかわられてしまったらどうなるのでしょうか。教育のカタチに正解が位置づけられてしまうのです。義務教育期間に習うべき教科や内容が決定づけられてしまうということです。そしてその履修程度、習熟程度によって卒業させるかどうかの試験制度になってしまったら、どうなるのでしょうか。こどものあるべき姿の模範例として示されるようになってしまうのです。学校の外へ脱出したとしても、学校教育の手のひらの上というわけです。学校外教育の学校教育化、システム化です。
それは新たな「枠をはずれた人たち」をうむことになるでしょう。新たにこぼれた人々を掬い取る策をいつまで考えようとしてくれるのでしょうか。それが「市民のため」なのか、果たして「国の為」なのか。いつしかそれがはっきりと誰の目にも映るやもしれません。
【教育の機会か、学習の機会か、習得か】
小中学校といういわゆる義務教育期間のうちの教育の機会について、今、語られようとしいているわけです。その通信制が期待されています。高等部ではすでに存在しています。なぜ高等部のようにはいかないのかといえば、成長発達段階におけるこどもを取り巻く環境が、大変重要きわまりないことなのだと肌感覚で知る人が多いからです。現在の学校や教師への家庭教育を越えた過大な期待がそれを物語っています。
学校とはまさにこのすべての家庭にはいきわたらない福祉の不足を、公教育という立場でから与えるという役割が期待されてきたと同時に、そうすることで公共の民としてふさわしい人間つくりにも貢献することも可能になったのでした。
わたしたちは学校に通うことが教育の機会であるのか、それとも学習の機会であるのか、技術習得の機会であるのかを見極めながら、なにを求めているのかと自分に問う時間がより必要になってきているのだと思います。
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