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日常が まなびになる

マガジン『ホームスクール、まなびのエッセンス』
10ノート目

Essence:風景を変える

 本は本棚に置かれていますか?
 もしかして、たくさんのすてきな本たちが、「本棚にしまわれて」はいませんか。
 
 本棚に並んだままにしているとどういうわけか、本の存在を忘れてしまうのです。そこにどんな本があったかを失念してしまうのですね。「本がある」という安心感が、逆に本の存在感を薄れさせてしまうのでした。
 
 そんな我が家では 《本のある場所》は、たびたび移動します。

 ある時は 枕元に。
 ある時は リビングに。
 本棚におさまっているときは、大抵、本は眠っていますから・・・。


本屋さんが教えてくれる本に興味を持つ仕掛け


 もし本棚におさめたままにしたいのであれば、本屋さんのように、目印になる旗が必要かもしれません。もし本を置くスペースが充分にあるならば、本屋さんの陳列パターンが参考になるかもしれません。

 こどもの絵本を並べる本棚に工夫をこらした家庭もあるのではないでしょうか。そう。こどもの目の高さに面陳列ができる本ですね。
 「本棚に本をきっちりもとに戻す」作業も年齢発達段階によって違いがありますから、我が子の成長に見合わせて、積み重ねてしまえるようにしたり、隙間をあけてならべられるようにしたり、本棚の高さや、目線の高さになにを置くのかなども工夫のしどころですね。

 本屋さんにいくと、ジャンル別であったり、作家別であったり、大きな文字のプレートが棚に差し込まれています。そのおかげで、探しものがみつかるときもありますし、思わぬ興味をひかれて新しい本に出会えることもあります。本はいつでもそこに並んでいたのに、ある時のタイミングで目に止まったり、気づかずに通り過ぎたりします。そのタイミングをしかけるプレート。目を引くしかけ。
 我が家では、リビングにある本棚には「絵本」「図鑑」「教科書(小学校~中学校)」「資料(小学校~中学校)」「コミック」の分類で並んでいます。主には親である私がこどもたちに「読んでほしい本」が並んでいます。
 分類「コミック」のエリアは「長男と次男の本棚」です。
 隣にならぶ本棚は「次女の本棚」です。一番下に「教科書(中学校)」も置かせてもらってますね。
 長女の本棚は別の部屋にあります。
 私の本棚も同じ部屋ですが、別の本棚で、分類は「自然療法」「教育」「ハンドメイド」です。
(本棚ばかりですね・・・)
 本棚に並べていない「蔵書」もあって、それは収納されていますが、読もうと思えばいつでもひっぱりだしてみることができます。教材DVDなんかも実はそこに押し込まれていたりして・・・。


手にした本を 元の場所に 戻さない


 「元の場所にもどしなさ~い!」とダイニングテーブルの上や寝る前に読んでいたであろう場所の横に置かれたままの文庫本やコミックはそう言いたくなります。
 けれども、どちらかといえば「元の場所に」というより「本の置き場所」に戻してほしいのです。ダイニングテーブルの上やまくらもとのそばは本の置き場所ではありません。

 本の置き場所は、元の場所以外に「続きを読むので、仮置きする場所」があります。「みんなにも読んでほしいので仮置きする場所」があります。

ブックエンドで「本を置く場所」にしているスペース
・カウンターの横
・枕もとのそばにある「本を置くスペース」

 「元の保管場所」以外にそんなスペースがあって、掃除のときなどに誰かがそこに置いておくんです。
 そんな習慣が、「家庭内ブーム」を広げる仕掛けになります。


いつもの風景を変えてくれる共通の話題

 
 『四季の雑草図鑑』が、このたび我が家の中で移動しました。これは比較的最近購入した本でしたので、枕もとのそばにある本を置くスペースに置かれていました。ある日、ふと手にしたそれを、私が台所のカウンターにある本を置くスペースに移動しておいたのです。「また時間のあるときに手に取ろう」「ほかのみんなにも見て欲しいな」という気持ちから。


 しばらく寒さが続いていた春の日でしたが、今日はお天気もよく、ぽかぽかとよいお散歩日和になりました。
 いつもの通り道沿いの、いつもそこにいる雑草に、一緒に歩いていた次女が目を止めるのです。
 「図鑑にあったね」と私。
 「うん。これだよー」と次女さん。

 私の見ていないところで、知らないうちに、雑草図鑑を手にしてみていたんですね。うれしくなりました。違う日に長女とも散歩をしていましたが、長女も図鑑を見ていたことがわかりました。
 「これ、ハルジョオン?あれ?ヒメジョオンだっけ?」と私。
 沖縄で見られるのはどちらでしたっけね?
 「春紫苑(ハルシオン)、ね。」と長女
 ヒメジョオン(姫女苑)の名前にひきずられてハルシオン(春紫音)がハルジョオンと呼び間違えられることを図鑑で説明されているのです。

 蔓性のアサガオをそこかしこで見られる沖縄ですが、「食べたらだめなんだよね・・・」「そうそう・・・あぶないよね・・・」なんて話も図鑑を読んでいたからこそ互いに楽しめる会話になったのでした。

 同じ時間にそうしているわけではないけれど、同じ本を見ているという「共有」「共通」が、対話を生んでくれるんですよね。


まなびをつなげていく


 さて散歩中の次女さんとのおしゃべりです。

「最近、ハエが増えたでしょ?」と次女さん。
ーそうだねぇ
「鳥も増えたでしょ?」
ーそうなの?
「うん。なんでかなぁって思ってて。ハエはフンに集まるでしょ。鳥のフンかなぁって」
ー〔生態系〕だねぇ。
「生態系って?」
ーほら、鳥を食べるのは虫でしょ。
「あ、そっか。温かくなって虫も出てきたもんね!」
ーそうそう。それで鳥もたくさん飛んでくるようになったのかなぁって。

(あれ・・・。私と次女さんと口調が似てますね・・・。)


『生態系』ー生物多様性の取り組み

 さてさて、帰宅した後「生態系の図」をパソコンで検索して開いて「見てみて」と誘ってみるけれど、そのときにはすでにこどもの興味は別に向いています。ここでノッてきて、さらに探究学習へ・・・などとスムーズに進めば、なんと充実したホームスクーリングだろうと思うのですが、そうそううまくはいきません。
 でも、それでもいいのです。
 またいつの日か、ある日ある時、「ほら、あの時、言ってたじゃない?生態系って・・・」と、未来に時間がつながればいいのです。


「今」と「明日」を共有する毎日


 我が家には時間割もカリキュラムもないホームスクールです。アンスクーリング暮らしと呼んでいます。予定も計画もありませんが、そもそもこどもの行動は予定通りにならないものだと、こどもたちの乳幼児期にさんざん親の私にインプットされてきましたので、「そういうもの」だと思っています。それでもこどもの成長とまなびはとめられるものではないということも。

 「今、この瞬間」がたくさんつながっていくのです、きっと。

 ホームスクールは、親が教師になるということではありません。確かに親になにかしらの技術や知識があって、それを教えることができるスキルも持ち合わせていて、講師役として、学習者である「子」の前に立つ機会はあるかもしれません。でも、それはめったにないことです。なぜなら、親が持つ知識と技術は、親本人の興味関心があってこそのまなびの道程で蓄えられてきたものだからです。親の興味関心と、子の興味関心が一致することはまれなことなのです。

 ホームスクール暮らしのもっとも素敵なところは、家庭を基盤にしていることです。家族で共通する話題があるけれど、その観点は家族ひとりひとりで異なっています。違った視点でものごとをとらえて、互いに語り合える場ができあがっているのです。語り合える、対話ができるというのは、誰かひとりの「正解」に従うことでもなく、なにが「正解か」と答えを導き出すことでもなく、なにかに判断されることも評価されることもなく、まさに《多様性》がそこに「在る」ことが自然なのですね。

 家族のひとりひとりが、個々の人間である。

 その感覚が、個人として尊重することや尊厳を守ることとはどういうことなのかを、明文化された規律ではなく、言葉にできない肌感覚として、身に沁みついた情緒として、静かに確かに育まれていくのだと感じています。

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