「わかる」は取り出せない思考
「理解する」と「わかる」の感覚の違いは、どのように説明することができるでしょうか。
理解する:説明を受けて知る感覚。知らなかったことを初めて知る。
わかる:内にあるものと結びつき、さらに広がる感覚。腑に落ちる。
理解したときに出る言葉「あぁ、そうか。なるほど。そうなんだね。」
わかるときに出る言葉「あぁ、そうか。うん、わかった。そうだよね。」
「理解した」:第三者の目で確認ができる。テスト。
「わかった」:明確に表現することができない。
筋道をたてて説明すると、理解することが容易です。説明の内容は理解度に合わせて変化させることができます。理解の良さは、勘の良さの違いのようにも感じます。説明のステップの幅を変えていくような感覚があります。理解が難しいときはステップの幅を小さく、そして量が増えます。その調節は段階的です。理解が容易であるときは1ステップで済むと言うことまであり得ます。伝える側の伝え方と、受けとる側の理解する筋道が一致したときが、伝わる瞬間なのだと思います。また、どこまで理解できたかを確認することができるのも特徴です。暗記することに似ていますが、暗記では応用がきかないことがしばしばです。理解すると、一連の流れが頭に入ります。それは一本の道を歩いているもので、どこまで歩けたのかを指し示すことができるのです。
一方、「わかる」ということはなにを・どれだけ・どのようにわかったのかを取り出して見せることができません。理解することが1本の道ならば、「わかる」状態とは膨張していくもので、その始点も終点も定かではありません。「どこまで・どれだけ」と示すことが難しいと感じます。また一本の道のようにはじめとおわり、スタートとゴールがあるのと違って、あらゆる視座に移ることができ、あらゆる視点を眺めることができ、あらゆる観点に注目することができます。ですから「なにを」といった一点をあらわすことができないでいます。
私は国語が好きでした。そして、どうやら得意でもありました。
漢字を理解するとはどういうことを表すのでしょうか。その漢字の象形を認識し、覚え、書くことができるということでしょうか。読みを知り、覚え、その熟語を読み上げることができるということでしょうか。私は確かに多くの本を読みましたが、本を読みながらその漢字を認識し、覚えてきたのでしょうか。
理解することが一本の道を進んでいくことだとすれば、「わかる」とはその法則を見出すことなのではないでしょうか。漢字をいくつか知ると、その形が部分の集合であることに気づきます。部首です。部首の意味と読みが一致しているという法則に気づけば、大抵の漢字は読むことができます。漢字を書くにはある程度記憶していないとできませんが、部首から意味を推測し、漢字の一文字を意味ある記号として定着して記憶しやすくなります。熟語の理解も漢字の作りや文脈からの推察に依ります。文章は、たとえその漢字が読めなくても、知らなくても、意味を推察して読み進めていくものです。段落は、その段落はなにかを説明している部分なのか、結論なのか、思想なのかでおもしろく読む部分が違います。そうしてとばし読みをしています。小難しい計算式の説明は理解できませんが、それによって「わかることがあったという発見の感動」は共有することができますね。すべてを理解できなくても、分かることで人は感動を共有することができます。理解することとわかることは、このように別々にとらえてよいものです。
わかるとは先を見通す力でもあります。理解していると、一見、先を見通しているようにも見えることがあります。しかしそれは一本あるいは複数のストーリーを知っているというだけです。わかることは、ストーリーを追っているのとは異なっているように思います。おそらく数多の情報にアクセスして、つながった末に導き出された推測の権化なのです。
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