"教育権”を、どう捉えよう
ホームスクールをテーマに書き綴ってきたnoteのなかで、どちらかといえば間接的に教育権や学習権について触れてきました。このnoteでは、”教育権・学習権”について考えるとき、どのような文献等を参考にし、どのように整理し、どのように解釈し、どのようなものと理解しようと努めてきたのかをふりかえりながら、あらためて”教育権”について考えていきます。
教育とは
基本的なおさらいをしておこうと思って検索したら、予想外に読み応えのある内容で、もう、このリンクの紹介だけで、このnoteを終えるべきだと思ってしまったくらいです。下記に、目次を転記します。
kokageはホームスクールを実践する支えや励ましとなる基盤を探そうと努めてきましたから、そこに至る道筋として情報はおのずと選び出されます(☆や★)。おおまかに書くと、以下の点を軸に、考えを整理してきました。まだ、その途中でもあります。
ホームスクールをはじめよう~日本のホームスクール~
ホームスクーリング・センターkokageのホームページ解説コラムを移行した同タイトルのマガジンがあります。「ホームスクール」について語られる時、多くは諸外国のホームスクーリング制度について言及されることがしばしばあります。しかし、国にはそれぞれの歴史背景があり、文化背景があり、その文脈で、近現代の教育観が成り立っており、さらに国策・政権が反映された制度が誕生します。
日本には、日本のホームスクールが存在すると認識することからはじめようと思いました。
日本の法体系~国際法規を上位法として~
「上位法優先の原則」の考え方は、リンクページの下記にあります【『ホームスクールと法律』ホームスクールネットれんこん(2003年)>ホーム>法律】から得た知見です。2008年来の我が家のホームスクール実践を支える情報源はすでにインターネットがありました。特に「ホームスクール実践は違法ではない」根拠を自覚しておくことは、こどもの環境にとって最も重要なものだと考えました。こどもに「堂々としてよい」と伝えることができるからです。親の堂々と実践する姿からも、それは”あたりまえ”のことなのだ、と子どもの心に根付くことでしょう。
教育法規に関する知見は、初めは「学校教育法」からでした。
”子どもの教育のこと”だからと思えば、自然ななりゆきでしょう。しかし法体系というものがあります。学校教育法は、どの基盤から成り立っているのか。教育基本法です。では、教育基本法を支えているのはなにか。日本国憲法です。ここで国民は、国家が国民主権を護っているかどうかを監督するのだということを理解できるのです。そして、敗戦国日本は、国際法に基づいて、世界の秩序に参加しているはずですから、やはり国際法にたどりつくことになります。さらに国内法と国際法の関係として「上位法優先の原則」は、国際基準としての基本的人権の共通理解の重要性の理解を示します。わたしたちは世界に住む個人のひとりとして、権利を知り、権利を行使し、その自由を脅かされないように意見を表明する意思をもった存在であることを自覚するのです。
そうして国際法から国内法まで眺めていくと、国際法と国内法のそれぞれの内容に、整合性や関連性があることに気づくことができます。
日本の教育観(教育の歴史)の文脈~日本の教育制度
ホームスクールを実践する家庭のほとんど(※)は、一条校の在籍生徒になっています。そのため学校対応は必須となります。その時、制度としての学校運営に関わる専門用語を知っていると、共通認識の上で話を円滑に進めることができ、合意形成にいたる対話を重ねるために有効な手段になりえます。学校側や地域に必要に応じて具体的な提案をしたり、要望することが容易になります。立場によって通じる道理、立場によって異なる論理が理解できるからです。そうすれば伝え方も変わります。用語が持つニュアンスによって、どのように伝わるのかが分かるので、なにをどのように伝えれば明確に意図が届くのかが分かるようになります。
(※)インターナショナルスクールに通っていたり、外国籍を持っていて就学義務に相当しないなどの理由で、在籍する必要のない子がいます。逆に言えば、置かれた環境と状況に応じてその必要が認められていても、就学の機会からこぼれる可能性のある子どももいるため、外国籍を持つこどもたちも就学通知がいきわたる配慮がされるようになりました。インターナショナルスクール生のなかでも、日本国内の一条校を卒業した公的文書(卒業証明書)が必要になるケースも多々あり、卒業学年までに一条校に在籍することはよく知られていることです。
このnoteを書くにあたり、あらためてkokageのつぶやきやnoteで触れてきた「教育権・学習権」を振り返り、追記しています。
日本の”教育観”と”こども観”を知ることからはじめよう
ホームスクールは学校教育の代替とは違って家庭教育の側面が大きく占めます。家庭それぞれの哲学、家庭方針が異なります。そのうえで、家庭それぞれの独創的なホームスクールの空気ができあがっていきます。家庭が置かれている環境、土地柄、価値観、伝統、さらに家庭内で継承されてきた家庭文化までも、ホームスクール環境の要素に加わることでしょう。それほどまでにホームスクールは、”個人”に依拠するのです。
ホームスクールというと、やはりその例としてアメリカのケースを取り上げられることが多いかもしれません。しかし、アメリカにはアメリカの教育の歴史と変遷、教育観が存在します。例えば、「子どもの権利条約」についてはどうでしょうか。
ホームスクール先進国とよばれる諸外国の制度体系のみを日本に導入することは、目に見える形式を真似ただけで終わる可能性が高く、本質的な理解まで及んで浸透する可能性を低くします。言葉が生まれるには背景があり、言葉からイメージするものが違ってくることから、受け止めるニュアンス(意味合い、意図)に違いが生じます。
有用と思われるシステム(制度、構造、体系、仕組み)を参考にすることは、発展に重要な学びですが、そのシステムを支える人の価値観念をとらえることもまた重要な一面でしょう。「なぜ、どうして」といった見通しある理解が、行動の継続を支え、その重要性を肚落ちさせるからです。
日本の土壌にあうようにカスタマイズされる必要があると思われます。そのことをふまえても、日本の教育観や子ども観について知ることは、とても重要だと考えます。現代社会に求められがちな”合理性”や”効率”、”生産性”といったものだけでは受け入れがたい感情的な部分に、より丁寧に寄り添うためには必要な過程ではないでしょうか。
そういう意味でも、都市部に通じる道理や理屈を、そのまま地方にあてはめるような中央主義は、全国一律を誘い、柔軟性を失い、全体主義をも誘い出す要因であるとも思えるのです。
教育基本法の改正と、第10条に関する特記
ホームスクール実践家庭にとって、平成18年に改正された教育基本法で登場した第10条は、家庭が主体となって我が子の教育の責任を負う根拠として大きな支えとなってきました。
出典:マガジン『ホームスクーラー、教育機会確保法を考える』
我が家がホームスクールに本格的に移行することを考えた時、初めてしたことは「違法ではないか」の確認でした。法律の条文を読んでいて、みつけたこの第10条は「ホームスクールができる」最大の根拠となりました。憲法が誕生した当時、ホームスクールという言葉や概念はまだなかったとしても、「学校以外の多様な学びの場と機会の登場は、想定されていた」とする説もあります。逆に言えば、いかに現在においても公教育が学校教育独占状態であるかの摩訶不思議さが垣間見えてきます。
我が家もまた第10条を支えと根拠に、自信を持ってホームスクールを始めることができたわけですが、「家庭にまで法律の網をかぶせ」る解釈に塗り替えられる様相を示したきっかけが、2016年に成立した教育機会確保法であると言えます。
『ホームスクーラー、教育機会確保法を考える』noteは、元々、kokageホームページのウェブサイト内で投稿していた記事を元に2018年から投稿したものです。2021年現在までに、確保法の影響にどんなものが認識できるかの観測がなされてきました。
【教育機会確保法は、諸刃の剣】。
このことは法案を推進する人たちも、そうでない人たちも自覚していたはずのことで、そのため、家庭にとって不利益の無いように活用するために、必要なことがありました。その内容についてはリンクのnoteに譲ります。
教育機会確保法が成立して、思うほどには学校現場や家庭に浸透していない様子が見られますが、いくつかの声が届きました。実感もありました。
これらの対応で望ましい家庭もあれば、当然、そうではない、望んでいない家庭もあります。個別の対応が必要なところを、忖度する体質もあいまって、いわゆるクレーム対応・予防策なるラインがはられた心地でした。学校が、保護者・児童生徒・教育委員会・文科省のいずれに向かっているのだろうかと問われるところだと思います。
教育機会確保法は、【教育権は親に”も”ある】と既存の基本的な権利を再認識する機会、実際には知らなかったことを初めて知った機会になったと思われますが、行き過ぎて【子の教育権は親のものだ】と認識されてしまう側面も持っていたのではないか、とも思われました。
人権について、子どもの権利について、初めて目を向けるようになって、学びを進めている真っ只中では、それが行き過ぎたものにならないよう、そして、本来の目的や本質からはずれないよう、客観的な目、冷静に見極める目を持ち続けることはとても重要な役目を果たします。初めて知ることについて、驚きとともに、いいようのない怒りや憤りがわいてくるのも自然なことです。与えられるはずのものを、手にしていなかった事実に気づくからでしょう。
けれども私は思います。
「休んでもよいと認められた」に眉をひそめる理由
権利について考え始めると、教育権や学習権と関わって、現在では教育機会確保法の影響を外すことができません。別のnoteでも書いたことですが、確保法がもたらした益のひとつとしてよく挙げられる言葉です。ツィートを記しておきます。
学校以外の多様な教育の機会と場を「認められていない。認めて。」の主張にも同じもどかしさを感じます。もどかしさの正体は、個々人が、それぞれすべての人が持っている権利を、自分も持っているのだと自覚がないことだろうと思っています。
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一考:ホームスクール制度
自由教育としてのホームスクール、学校に登校するという従来のスタイル以外のカタチで学校教育をまなぶ在宅学習。ホームスクールか、不登校か。教育…
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