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志賀直哉は僕の推しなのか?
3年前に志賀直哉のエッセイ「国語問題」についての論考をnoteで上げてから、沼にハマっている。
志賀直哉の「国語問題」についての論考
ここで書いた内容は長年あたためて来たもので、かなり力を入れて書いたのであるが、なかなか満足のいくところまでいかない。
書き上げた後の3年間で、本文に手を加えたのは若干で大意に変化はないが、その分補足で注を加え加えしていき、38個もの注をつける事になってしまった。注の中身もついこのあいだ2つほど手直ししたばかり。
注は別アカウントも作って、そちらにも項目ごとに載せ、本文中のローマ数字と紐付けた。
注と文献のアカウント
そんな注の中には、別の論考として更に広げられそうなものもあるが、どうもそのようにする気が起きない。
自分の力量を超えるということもあるが、何かどうも志賀直哉の「国語問題」についての論と結び付いた形での方がしっくりくる。
それらは主たる論より広がった地下茎や匍匐茎から出てきた芽が僅かばかり茂ったようなものだ。切り離し整理して植え替えてもきっと根を張るが、今はそのままにしておきたい。
地下茎には閉鎖花もあって、そこから種が散らばる。地下から伸びた茎には引用文献が接ぎ木されてもいる。
そういったところから思いもかけない芽が出てくる事もありうる。
いずれにしても自分でも予測するのは難しい。全く油断はできない。
これで終わりにしようと思っては考え、もう書くまいと思っては書き足す。そんな事を繰り返した3年間であった。まさに底なしの沼である。
それはどうも終わりそうにない。
なぜここまでこの問題系に拘ってしまうのだろうか?
本論の前半では多くの場合受け流されるか否定的に語られるかのどちらかだった志賀のエッセイ「国語問題」を一つの抵抗運動として肯定的に捉え、後半では私小説として括られてしまう志賀の小説を多様なものの交錯として捉えた。
これは志賀直哉に対する思慕の念から来た考えだろうか?これは僕の推し活なのか?
僕には志賀直哉と「国語問題」を論考で述べたようにしか捉えようがなかった訳だが、そこから広がり交差する複数の網状の罠は、僕に絡みついて、離してはくれなそうである。
志賀直哉「国語問題」について書いて3年
2年
1年
クリエーターページに固定した記事と重なる部分がありますが
#ハマった沼を語らせて の企画に合わせて書いてみた次第です。
志賀直哉の「国語問題」についての論考
注で取り上げたいくつかのテーマ
三島由紀夫と反教養主義
国語学・民俗学・文学
徳田秋声と志賀直哉
今までに上げたエッセイと論文
自己紹介の代わりに