記憶の/と変化
記憶と私の関係は不思議なものだ。
三人称的には私とは習慣そのものであるとともに習慣の相関物、または同一のものとみなせる記憶そのものであるといえ、記憶に私は埋没している、または記憶は私に埋没している。
しかし、一人称的には、記憶を眺める私というものがあり、私と記憶とは眺めることができるほどの距離があるようにもどうしようもなく感じる。
それは、インスタレーション作品を分け入りながら鑑賞しているときに、鑑賞しているものそれ自体が作品になっているかのようなものなのだろうか。
ぽつんと一軒家やダーツの旅みたいなテレビに映る朗らかに笑う路面店のおばちゃんを見るとこの上なく羨ましく思う。
珍しい特急電車を撮りにプラットフォームを走り回る男の子、ダンスの強豪校で休日返上で打ち込むポニーテールの女子高生を、画面やメガネ越しに見て、あんなふうに笑っていた時代があった、みたいにありきたりに懐かしく思うこともあるけれど、おばちゃんやおじちゃんの笑顔を見る時はより一層身に詰まされ、差し迫った観照を覚える。
もちろんあのおばちゃんであっても本当に身体が動かなくなった時にはあの朗らかな顔のままで必ずしもいられないのかもしれないし、あんな風に笑っていられなかった苦しい時もあったのかもしれないという想像も働くのだけれど、あのおばちゃんと私は根本的に異なっているのではないか、もはや異なる人種ではないのかと思わされる。同じ年齢になった時にあんなふうになれているのだろうか。もちろん可能性はあるのだろうけれど、可能性が低いように感じるからそう思うのだろうか。
少し前に「インサイド・ヘッド」を見ていて考えさせられたことは、記憶の変化の仕方と喜びの立ち位置についてだった。
記憶の底のような場所があって、そこでは記憶の玉は基本的に色褪せており、少なくない場合で霧散し、ごく稀に意識に回帰するようなものとして、記憶のあり方が描かれており、その記憶の底に加えて短期記憶、長期記憶などを含めた記憶の総体が、人物のありようの総体を示しているようなものとして描かれていた。
また、ストーリーの初めには人格化された喜びであるヨロコビが喜びヤクザとして、自ら以外を悲しみなどの感情をできる限り記憶に残さないように排斥しようと働きかけていたが、ストーリーの終盤には悲しみなどの感情を抑圧せずに受け入れるようなものとして描かれていた。
なんらかのきっかけによってなのか非社会的な性格を獲得した人を前にし、何かアドバイスをしないまでも何かしらのコメントを返す必要がある場面は生きている限り少なくない頻度ある。
この時、最も念頭に置いておくべきことは粘り気であるだろう。何がどれくらい変わりやすくて、変わりにくいのかを捉えることが重要になる。
そのうえで、それまで変わりにくかったところを変わりやすくなるかもしれないきっかけを作ることが最も効果的に働くものだと捉えている。
まずはやりやすいことをやって、やれないなら手伝ってもらうとかしながらやって、少しずつ環境・人間関係の調整を含めて、習慣を再構成することになるけれど、その過程の中盤あたりから、より自由な形で可能になる、個人の語りの場面において、記憶とどのように向き合うのがいいのかという話になることが多いように思う。
苦しみ/病は環境との相互作用とで起きる/定義されるとして、生理的な機能よりも社会状況よりも記憶は一般的な生活においてでも比較的変わりうる場面が多いからであり、外部のありようよりも内部的な人のありようが人の感じ方に影響を与える部分が大きいからである。
記憶としての人間のありようは、再帰的に似たありようを獲得しようとするかのような粘り気の強く変化しにくいものであるが、再帰の過程はずれを含み、似ているけど異なっているようなものを生み出す。それは同じ名前の人を多様な面を持つものとして認識する人には馴染み深いものだろう。
人の相談事のうち、法律的な労働環境的な改善で解決するような話以外はメンタルヘルスの話になり、その場合の生理的な解決策以外としては記憶をどう扱うかという話になることが多い。
記憶の取り扱い方として、避けるか、向き合うかみたいな話になることがあるが、どちらかではなく両方とも必要である。
そしてそういったことは卑近な生活の必要上としてなされるのがちょうどいいと感じる。
トートロジー的だが、生活上必要なことは生活上必要なものとしてなされるのであり考えさせられる。
生活上、生活費をナマポでも仕送りでも何にせよ獲得しなければならないのであり、また極端な感情のブレはそれを安定させるための過程が(無意味に)必要になる。
何にせよ生活上その時その時の対応が必要としてなされる。何か深淵で本質的に向き合うべきだと思われることがあるのだとしても向き合う余裕がないのであればほとんど避けるしか選択肢は限られるだろうし、何かを忘れていたのだとしても意図せずとも何かのきっかけで思い出し苛まれることだってある。
そのため、基本的に向き合うことは大事なのはそうだとしても、向き合うことをことさら意識する必要はないように感じる。意識する必要がないのだけれど、意識せざるを得ない精神状態に置かれた場合に、必要な情報、物語、芸術は受容されざるを得ない。そういったことはただ生活上の必要としてなされる。
生活のなかで、記憶とは、離れたり近づいたり、逸らしたり受け止めたり、ゆらりゆらりと付き合っていくにすぎない。
アドバイスのようなものを嫌う人は少なからずいる。こうすべきだよ、こうしたほうがいいよみたいなことを言われるとなんだか嫌だ、みたいな話は昔からおそらく変わらない人間の性質の一つだろうが、最近は繊細さんみたいな話が上がりやすくなったことから、タテマエとして社会に一般的なものとして普及した感がある。
かくいうわたしも肯定的な言葉を信用できないことが多く、二重否定的な言葉をもって初めて信用することが多いのだけれど、それはどうしてなのか考えてみることにする。
ひとつに、わたしが獲得してしまった習慣、体質、癖により、ある種の過敏さを持ってしまったためともいえる。それは当事者性とも言い換えられ、内部分裂しやすいリベラルに見られやすい性質であり、それは生存戦略としてもともとの体質に重ね合わされて獲得されたものである。
その上で、もう少しだけ考えてみると、アドバイス自体が精彩を欠くということも事実としてあるように感じる。
おそらく多くの場合の肯定的な宣言は多かれ少なかれ論証や実証を欠いたものーー少なくとも聞き手によってそう思われるーーとして提供されるものであるのだろう。
今井むつみがどこかの新書で知性は絶対主義→相対主義→評価主義に変化すると述べていた(おそらく概ねはそれぞれ東浩紀の形而上学システム、否定神学システム、郵便システムに相当するものである)けれど、多くのアドバイスは絶対的なものとして、根拠が欠けている、少なくとも根拠を聞き手は持ちえないようなものとしてあるということだろう。
ましてや最近では一切に根拠がないというような相対主義的なアドバイス的なものも世の中に氾濫しているように感じる。(「それってあなたの感想ですよね?」、「みんな違ってみんないい」)
しかし、場当たり的であったとしても、究極的で普遍的な根拠でないとしても、感想なのだとしても、やはり何かしらの根拠が生活上必要になるのであって、それが一個人の相談事に対するものである場合、その人に納得できる根拠がある、なければ作り上げられる過程が必要になり、そのようなオーダーメイド的で仮固定的で評価主義的なアドバイスが必要なのだと言える。それはもはやアドバイスというよりもどっちがマシかというのとを考え、選択を始められるプロセスのある場を作ることにあたる。納得には経験がフックになるのであるから、少なくとも間接的には経験と関係したアドバイスしか効力を持ち得ない。(フックの有無を無視するから歳をとった人の言葉は若い人には響かないというようなことが起こるのだろう。)
ところで、私が最近驚いたことは、軽薄な自己啓発書的な、テレビ的な、エンタメ的な発言を以前より受け入れやすくなったことだった。
それは以前より当事者性が低くなったことが大きいのかもしれないが、どんなに下卑た社会の軽薄な発言であっても、そこで生きていくのであれば、距離をうまく取りながら付き合っていくほかないと諦めて認めたことも大きかった。
さらには、それらの軽薄な発言が少なくとも社会の一側面を的確に表現しているものであると思えるようになったことも強く関係しているのかもしれない。
大衆エンタメの、どんなに軽薄で残酷な発言も、おおかれ少なかれ昔から共通していることがあり、それはヒトの、社会の、深いところに根ざしている場合が多い。たとえ理性が薄いように見えても、ある理(ことわり)が働いていると捉えることができる。
それは特にロマンティックラブに関わるような、きっしょいに関わるような、健康に関わるようなことに見られやすい。
たとえばどんなに多様性が叫ばれたとしても、
かわいい女の子が魅惑的に映ることも、お金を稼がない限り男性は魅力的に映りにくいことも、子孫を残さない限りその社会や国家などの人間集団の発言力が相対的に落ちてしまうことも、結局幸福に生きていくためにはポジティブな考えを持った方が何かと良いということも、
生理的または社会的に深く根ざしており、程度の差こそあれ大きくは変わらないだろうし、少なくとも変わりにくい。
変わりにくいことを無視してなされる発言は生き延びることに意味がある以上の価値は持てずさらには発言力を持てない。
しかし、変わりにくいことを本質であり正しいものだとしさらには理想とするような考え(たとえば優生学やナショナリズムのうちの論理的なだけのものはここに入りやすい)は端的に間違っているのであり、そういった誤解に対する指摘は何度だってすべきだろう。
変わりにくいことは必要条件、前提条件も異なるけれど近いものであり、地震や変動が起きにくい大地のようなものであるにすぎず、目指すべきかどうかとは区別されなければならない。
しかし、だからといって、誤解が多いということを無視をした言動ももちろん社会上も個人の生活上も大した意味を持ちえない。
特に学者や政治家や家長などの成熟した大人のような立場ーーむろんそれは実際に成熟しているかどうかは無関係に役割・立場的によって課される成熟であるがーーで個人や社会集団の中期的な目標を立てなければならない際にはこれらの個人や社会の変化しにくいことを考慮すべきだろう。そして、多くの場合で、それらのことをある程度は踏まえた上で無意識的に判断はなされているだろうが、考慮できた範囲が適切な場合は少ないため、やはり訂正が必要になる。
他方、苦しんでいる個人がある種生き延びるために個人の生き方を決めるために目標を立てる意義がもしあるのだとすると、それは目標を気にする必要がないようにするために必要な措置である場合にほとんど限られるのであり、つまりは、目標には不能さを含ませたうえで持つ限りにおいて目標は効果を持つ。
身体に違和感を感じる、または、世界が滑り落ち身体に世界が記号接地しない場合は目標はおそらく想定されているよりも滑らかである方が良いことが多く、目標は必要である場合であっても必要であるにすぎず、目指すべきでもなくましてや内面化する必要もなく、ほどよい主体性を含み込ませることができるような「やれやれだぜ」的な素朴で生活的な距離のもとに置かれるくらいがおそらくほどよいのであり、そのほどよさを保てないのなら目標を変えるか逃げた方が良い。しかし、多くの場合自分一人や二人ではでは自分の目標をほどよく設定できないことも多く、多数の他者が必要になる。多対多の関係性の中で違和感や世界の滑りがほどよい主体性的な個が生まれてくる。
参考
映画 「ある男」
ベンジャミン・クリッツァー 『もやもやする正義』『21世紀の道徳』
ミシェル・ウェルベックの著作
今井むつみの著作
グレゴリー・ベイトソンの著作
P.S.
上記の散文集はありきたりな言葉の集積であるにすぎないが、上記のようなまとめ方をされた文章があまりにも世の中に少なすぎるため、書き残すことにした。これがいいかどうかはあまりわからないけれど、必要であるように感じる。
これまで、記憶についての捉え方はさまざま議論されており、保存され続けるのか(フロイト)、壊れてしまうのか(カトリーヌ・マラブー)、壊れてしまうとしても他の記憶に影響を与えるのか(ドゥルーズ)(たとえば欠片として残っているのか)、回帰し脅かすような形としてあるのか(フロイト)などがあるように思う。
その上で、記憶は改変され続けるものであり、不都合な記憶は時たまに回帰することもあるものであるというように、私はやんわりと受け止めている。
そのため、記憶は時間経過や物語などの予期しないものにふれることによって再配置されるものであるとともに、不都合なものには向き合わざるを得ない時が来るものであり、ガス抜きが必要であるというように捉えている。
なお、本文はもしかしたら、保守的、つまり、もともとの個人や社会にある位階、価値基準を保全するのを促すような印象を与えるかもしれないが、保全することではなく考慮すべきということ、また、必ずしも目指すべきでもないし、避けるべきでもないということを改めて書き置きたい。現実と理想の区別は重要である。
このような視点を持たない限り現実的なリベラルも自由もあり得ない。現実的なリベラルとは現実の醜さに向き合うことであるが、それは醜さに向き合えないという本源的な醜さを認めることである。それは向き合えていないという否認を否認しないことであり、否認してしまうことを認め、向き合えばいいという安直で理想的な解決策に走らないことである。
それは人間の欲望を加味する必要があるからであり、人間の欲望とふるまいは、正しくなく、する必要がないのにも関わらず、日常生活において事後的に必要があったとわかるというようなあり方で必要が生まれるというプロセスを理解することによって、精神病の治療の多くは初めて捉えることができる。治療において目標として正しさや理想や必要が事前に提示されることは障害になることも多いように思える。
追記 20241110
たとえば、自分はリベラルよりの系譜を辿ってきた人間だと思うが、もしアメリカの選挙にいたらハリスの方に投票しないだろうと思ったし、このまえの衆議院選挙には立憲民主党に投票したいとは思わなかった。(結局小選挙区は消去法で入れたが)
こうした選択や志向にある欲望に多かれ少なかれ戸惑いを感じており、そういった中今回の文章を書いたことが、本文章に反映されているように思う。
また、少し前にオタクとフェミニストについての文章も載せたが、オタクもフェミニストの両方が欲望を持ち、互いをおそらく他者・超自我・抑圧してくるものとして捉えているという節があるということをその文書の中の本文では暗的に、補足で比較的明示的に述べたが、その内容とも関係する。
あと、福尾匠の『眼がスク』を元に読み直したい。
関連
斎藤環 『イルカと否定神学』