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家族

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いつもたいへんなときに支えてくれる家族という存在について書いています。子育てで悩んだことや、つまの心の病気とのかかわりなど、「自分とこだけじゃないんだ」と思いつつ読んでいただけれ…
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「悲しむ」は「愛しむ」大切な人の永遠の不在

大切な人が亡くなると、 それまで楽しかった時間や、一緒にいた空間が、 突然、悲しみ色に覆いつくされてしまったような気持になります。 どんなことをしても、その事実を変えることができないことに心を痛め、涙を流します。 悲しい事実を受け止めるには、長い時間がかかります。 コロナ禍になって、死に目にもあえず、悲しい別れをした人がたくさんいると思います。 私の義兄が、今年2月に亡くなりました。 60代でした。 いわゆる突然死といわれる死に方でした。 特に持病があるわけでもないの

子どもをとことん信じることに決めた朝

子育てに関して、今でも思い出すと後悔することがいくつかあります。 その中のひとつに、子どもを信じてやれなかったことがあります。 長男が6歳のときでした。 その頃、幼稚園に通っていた長男は、毎朝、近所の子ども達と幼稚園に集団登園していました。 集合場所はごく近所のお寺の前でした。 特に決まっていたわけではないのですが、保護者が任意で集合場所の様子を見に行っていました。 ある朝、様子を見に行くと、長男が大声で泣いていました。 同級生のお母さんが、長男を叱っていました。 事

今はいつか思い出になる

十代の頃から、突然時間が止まったように感じて、胸の奥がヒリヒリした切ない気持ちになる瞬間がありました。 停学を言い渡された高校3年生の秋、駅から母とともに、誰も通らない昼間の通学路を歩きました。 中学から続いた私の反抗期は、その頃にはピークを迎えていました。 人に見られると恥ずかしいので、母と距離をあけて歩いていると、話しかけながら近づいて来ようとするので、そのたびに声を荒らげて制止しました。 「すいません、すいません」 と生活指導の教師に頭を下げる母に、 「謝らんでもえ

子どもたちが支えてくれて今がある

もうずいぶん前のことですが、都会で暮らしていた息子たちの存在に支えられていた時期がありました。 どちらかというと、友だちは多い方だと思っていました。 40代、50代と、年齢を重ねるごとに新たな友だちも増えていきました。 仲のいい職場の同僚とも、よく飲みに行ったり、一緒に山登りをしたり、非番日を楽しんでいました。 そんな頃に妻がうつになりました。 実家の両親には心配をかけたくないので、 「調子が悪から」 とだけ説明し、盆も正月も、彼岸にも、実家にはいつも私ひとりで行くように

我が家の壁の穴 反抗期は愛情の証し

我が家の壁には、ところどころ穴があいています。 何部屋かはクロスを張り替えたので、隠しおおせていますが、部屋によってはいまだに小さいながらブラックホールの深淵をのぞかせています。 それらはすべて我が家の長男が高校生の頃に制作したものでした。 プラスターボードが脆弱だったのか、あるいは長男の拳が強靭だったのか、そこは不明ですが、当時は制作意図をはかりかねていました。 妻は、ブラックホールの数が増えるたびに、涙をながし、私に訴えました。 「お父さん、私たちの育て方がまちが

妻をさん付けで呼んで1年半

「奥さんをどう呼んでますか?」 と、ある経済団体の会長からたずねられたことがあります。 「うちは、『おかあさん』ですね」 と私。 子育て時代を経ると、子どもが巣立ってからも「おとうさん」「おかあさん」と呼びあっている家庭が多いんじゃないでしょうか。 我が家も、例にもれずお互いにそう呼んでいました。 「会長、よく聞くあれですよね、あれ。『奥さんはあなたの妻で、お母さんじゃないでしょ!』とかって叱られるパターンですよね」 と、先回りをして言うと、満面の笑顔でおおきくうな

結婚式で泣いてくれた息子 そして泣いた父

大阪に住んでいる次男の結婚式は、とても暑い日でした。 パーティー形式で会費制というとてもラフな結婚式で、我が家らしいスタイルでした。 参加者の服装も、招待状そのままに平服でした。 「おやじ、一曲歌ってくれ」 と頼まれていたので、ギターをかかえて、事前に作っていたオリジナルを歌いました。 学生時代に住んでいたアパートを引き払い、すでにべつの土地にうつり住んでいた息子夫婦のことを思ってつくった歌でした。 僕らの知らない街で 君たちふたりの暮らしが 始まるよ 始まるよ と

お父さんの力だけではお母さんを元気にできないんだ

「お父さんの力だけでは、お母さんを元気にできないから、俺たちが力をあわせて、お母さんの病気を治してあげよう」 そんなメールを2人の息子に送ったのは、もう15年も前のことでした。 都会の学校に進学して、盆や正月にも帰ってこない時期があった息子たちです。 声が聞きたくて電話をしても出てこない。 メールなら返信をくれるかと思って出しても、返信はない。 たまに、妻にだけ送ってくるメールの文面は、「金送れ」だけ。 そんな彼らの力を借りなければ、もう自分では何もできない、と気持ち

父のことを僕はなにも知らない

中学生の頃から嫌いで、私が社会人になるまで口論ばかりしていた父は、この夏で97歳になりました。 社会人になり、私の子どもたちが生まれると、親のことも考えるようになりました。 10年前、父に 「育ててくれてありがとう」 と、勇気を出して伝えたことがあります。 息子たち家族も、父の顔を見に実家によく行ってくれています。 ひ孫の顔を見ると大喜びの父を見て、私が喜ぶという構図になりました。 父は耳が遠いのですが、それでもよく会話をするようになりました。 そんな日々を送りなが

母がほんとにいなくなったと気づいた瞬間

こんなに悲しいはずなのになんで涙が流れないんだろう そんなことを考えたことがあります。 自分の年齢のせいなのか、無意識に対面を気にしてしまう性格になってしまったのか、それは自分でもわかりませんでした。 緩和ケア病棟に転院し、最高気温を更新する真夏の病室で、母は意識のないまま苦しそうな呼吸をつづけていました。 母は、まるで私たち家族をあきらめさせようと、あえて苦しい呼吸を何日もつづけてくれたのかもしれません。 近くの病院だったので、亡くなるまで毎日2回、ときには3回、病

音楽療法の授業で気づいた父の心

以前、脱サラするとすぐに心理カウンセラーのセミナーを受講するために、鳥取県から大阪に毎週通いました。 カウンセラーになりたくて通ったわけではなくて、妻や私を苦しめた心の病気について知りたいと思ったのが受講動機でした。 たくさんあるカリキュラムの中に「音楽療法」の授業がありました。 自分が音楽をやっているために、特に強い関心があった授業です。 この授業が、父に感謝を言葉で伝えることのきっかけになりました。 受講前には、心地よい癒やし系の音楽を聴いて、傷ついたり疲れたりし

感謝できるまで待とうね

感謝をすることで自分も周囲も幸せになれる。 感謝できることは幸せ。 誰もが知っていることですね。 けれど、感謝できない心理状態のときもあります。 なんでこんなに理不尽な出来事が襲ってくるんだろう。 からだも心もボロボロになってしまった。 なんでこんなに生きづらいんだろう。 そんなときには、心の底から感謝する力が失われています。 感謝する力が心に満ちるまでの時間が必要です。 何年も前の話ですが、私の妻は長らくうつ病でした。 「どうしてこんなことになってしまったんだろ

母の入院で教えられた思いやり

母が急に意識をなくして病院に運ばれてから亡くなるまで、毎日病院に行きました。 もう9年前になります。 夜になって、病院の玄関から待合室を通り、病室に向かいました。 意識がないまま苦しみつづけている母のことを考えながら歩いた廊下は、かつて私が救急隊員として何百回も病人やけが人をストレッチャーに乗せて搬送した、見慣れた場所でした。 夜なのに、診察室の前の長イスには数人の人が座っていました。 薄暗い照明の下で、その人たちの表情は見えませんでした。 その時ふいに、不安そう

母が教えてくれた やさしさの意味

昨日は、97歳になった父の血液検査の結果を聞くために、兄と待ち合わせて病院に行きました。 「肺に影がある」 と、CTの映像を見つめながら医師がいった言葉を兄から聞いて、 ついに来たか! そう思いました。 97歳まで生きられたなら万々歳ではないか。 それでも、本人の望みどおり100歳まで生きてくれたら、というのが子どもとしての願いです。 ずいぶん待たされたあと、ようやく医師の説明を聞きながら、9年前に母が倒れたときのことを思い出しました。 当時から聴力が落ちていた兄と