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禍福は糾える縄の如し?うつ病が運転免許証になった話
はじめに
これは、前回の記事↑の続きです。note初心者の私は、とにかく記事を増やして、自分のことを整理したいという気持ちで思いつくままにこの話(前回の記事)を書き始めてしまいました。
しかし、ふと、どんな方が読んでくれるかわからないnoteで、公開するのであれば、慎重に書かなければいけない内容ではないかと思い至りました。
今その只中にいる方がどう思うのか、想像はできても、実際はわからないからです。
同じうつ病でも、状況や環境、その程度や原因かもしれないことが皆違いますし、私が当時を振り返って書く内容が、この記事を読まれる当事者の方のそれとは温度差があるのではないかと思います。
確実に言えることは、この記事が凶器になってはいけないということです。
また、私自身のことも守れるようにしたいと考えています。そのため、詳しいことをあえて書いていない部分もあるかと思います。
当時の感覚を振り返ってはいるので、当事者を支える周りの方にとっては、ほんの少し理解を深めることに役立てることができるかもしれないなとは思いますが、あくまでも私が今、自分の心を整理するために書いた文章です。
「心の風邪」などと表現されることもありますが、心と身体と脳みそ(この脳みそが重要!)が疲れきった状態です。判断したり、決めたりすることが難しく、周りからしたら、とてもやきもきすることでしょう。
私の場合は、おそらく大きく分けて5つの要因が複雑に絡み合って、心の風邪をひきました。
「私は、人より弱い人間なのか」と自分を責めたこともありました。
しかし、十数年経った今「そうではない。誰もがうつ病になり得るのだ。」と思うようになりました。
もし、今現在、うつ病や適応障害などの渦中にいる方がどうにも身動きがとれない場合や、過去に発症していて当時のことを思い出すのがつらいという方、なんだか読んでいてしんどいなと危険を察知したら、その瞬間すぐにブラウザバックして逃げてくださいね。お願いします。
【公開当時、この懸念から後半部分を有料記事としていましたが、2024年11月10日.加筆修正して無料記事にしました。】
まさか。教習所に入ったけれど、学科ができない…
診断書による休職をしてしばらくし、とりあえずの復職の日付が、大体そこから2ヶ月後だったころです。(たしか…です。当時の記憶は、不思議なほど曖昧です。特に数字。)
卒業まで最短のスケジュールを教習所で組んでもらっていたと思います。
4月から毎日、23時に帰宅し、4時半に家を出る生活。土日は、部活か、学生の彼と会うくらい。実家暮らし。学生時代は、バイトを掛け持ちしてもマイナスだったのですが、社会人になって半年以上経っていましたし、使う時間もなかったため、口座には教習所に迷わず行けるくらいのお金が入っていました。
運動神経が悪い(体育は、基本的に地獄の時間だと思っていたタイプ)ので、実技が心配でした。教習所内での運転は言われるままにハンドルを動かしているだけで、おそらくスレスレの合格でした。でも、低空飛行というか、とりあえず予定通りに進みました。
視野はもともと広い方(これは、教員としてもかなり役立ちました。)であるのと、運転のうまい父の助手席に乗っていつも観察していた(ボーッと乗るタイプではない。)のとで、運転の要領は割とわかっていた方だと思います。
道路に出ても、同乗の他の教習生よりは、何も言われませんでした。
実技は、そんな感じ。
想定外なのは、学科です。
当時22歳。運動はできないけど、勉強はそれなりだと思って生きていました。
ところが、教官のお話も、テキストの内容も、全くと言っていいほど、ほとんど頭に入ってこない。意味を考えようと思っても、文を読もうと思っても、理解できないのです。
そんな状態で、車を運転するなとお叱りがあるやもしれません。
自分でも、驚きましたが、おそらく、あの時の私は、非常用のバッテリーとか非常用メモリーとかで、なんとか生きていたのです。
本来の自分は、緊急停止させて、命を守っていたのだと思います。
思いっきり転んだのにタダで起き上がるのは嫌だから
教習所の授業(?)は、詰め詰めにしていたので、休み時間(?)のたびに、綺麗とは言えない狭いトイレに駆け込んで、吐き気を堪えました。「鬱の原因の一つになっている相手(性加害者)を訴えたらどうなるだろうか」という考えがぐるぐると頭を周り、脳みそが焼けそうになるので、思考を止めました。
それと、今思い出しましたが、当時付き合っていた彼と別れたばかりでした。その人もなぜか同じ教習所に通い始めたと聞いて、会いたいような会いたくないような気持ちで、移動する時には、常に俯いて物陰に隠れて歩いていました。(実際には、教習を始めた時期が違うのと、相手は一浪していてまだ大学に通っていたので時間帯が違い、会ったとしても入り口等で見かけるだけでしたが。)
席について、教官が来て、授業が始まれば、少し安心するものの、学科の時間は、幅の狭い机にテキストを広げて耐えるだけの時間です。意欲も湧かないし、難しい言葉は理解できないのです。自分の住所すら、パッと出てこないのがうつ病です。
ただ、受講者に色々な人がいることだけが、救いでした。(平日の昼間なので)きっと色々な事情のある人たちなのだろうと思い、教官やホワイトボードではなく、前に座る人々を眺めていました。(いつも一番後ろの席。)
学科の試験は、本来ならば、私の得意中の得意です。暗記も、文章読解も、間違い探しも、大の得意分野!
それなのに、できないのです。
言葉が留まっていてくれません。思考が、バラバラに散らばります。
できる瞬間もたまに訪れるのですが、長くは続きません。
「仕方がない。ギリギリでいいから合格しよう。ここで、免許を取らなければ、傷ついても踏み出した自分が報われない。」
「こんなに派手に転んだのに、タダで起き上がるのは嫌だ。」
小さい声ではありましたが、これは確実に私の心の声でした。
実技の方は、父が仕事から帰ってから、一緒に練習してくれました。
かくして、(あんまり覚えていないのですが)ちゃんと出席して、真面目な態度で、というそれだけで、ギリギリ教習所を卒業しました。
本試験、不合格!
府中の免許センターに行ったのは、慣らし運転で復職して2ヶ月ほど経った頃でした。
早くしないと、期限が切れてしまいます。
慣らし中とはいえ、平日に休みが取れないので、体育祭の振替休日しかチャンスがありませんでした。
試験は、1日2回です。
「簡単だから、落ちることはないので、大丈夫。」と家族や友人に言われていました。
が、結果は…不合格。
電光掲示板を見て落ち込みましたが、「仕方ない」と自分を慰めました。
今は、普段の私とは違う。ここに来ただけでもすごい。
バツがついた自分のことを受け入れてあげることが、復活する近道だと直感的に思ったのです。なんと言っても、またすぐに2度目の試験の時間です。
幸い、なんとなく1回目の試験の内容を覚えていて、昼休みに対策本で間違っていたところの復習ができました。少し、いつもの自分が戻る瞬間があったようです。
念の為持っていたお菓子で(泣)、空腹を誤魔化しながら、午後の試験を受けました。
始まる前に、心配しているであろう家族にメールを入れることもできました。やるじゃんと思いました。でも、ここで受からなければ、期限も日程も後がありません。
試験が始まりました。たまたま席は後ろの方で、たくさんの人がいるのが見えました。ここならば。自分のことも俯瞰できるような気がしました。
復習したところが、出ました。
合格。
手続きや写真撮影をしました。
こればかりは、何か見えないものが味方してくれたのだと思います。
翌日、職場の保健室で合格の報告をすると、養護の先生が
「あの大きな鉄の塊を、小さな自分が自在に動かせると思うと楽しいわよね。」と言ってくださいました。
それから、
やっと社会人になったのに、両親にとんでもない迷惑をかけていると感じていた私に
「もう一度子育てをさせてあげるなんて、親孝行なことよ。子育てって幸せなことなのだから。」と言ってくれました。
その言葉だけは、覚えています。
さすが、たくさん傷ついた人をみてきた保健室の先生だと思いました。
ただ、結局、元気でない人が車の運転をすると、集中力も低下していて、瞬時の判断も難しく、とても危ないので、父がいる時に助手席に乗ってもらって近場に2、3回しか乗った以降、見事にそのまま5年以上ペーパードライバーでした。
あの時休職してよかったと思える自分が今ここにいる
あの頃は、まさか自分が、車がないと生活しにくい埼玉に住むとは、毛頭思っていませんでした。
この運転免許証は、休職したから、持っている資格です。
ASDの感覚過敏で多動な2歳の息子と、まだ歩けない0歳の娘を抱えて、見知らぬ土地でどこにも行けなくなった私を、その資格は救ってくれました。
買い物、通院、療育、通勤、保育園の送り迎え、おともだちと住宅展示場のアンパンマン ショー…
多忙の夫の予定や体調を気にせず、小さな子どもたちを連れて遠くまで出かけられることは、本当に私を自由にしてくれました。
人間万事塞翁が馬《にんげんばんじさいおうがうま》 。禍福は糾える縄の如し《かふくはあざなえるなわのごとし》。
あの時、馬から落ちて、よかったのかもしれない。あの不幸は、実はこの幸福と隣り合わせだった。
と思えるのです。
運転免許証は、たとえうつの時であろうとも、取得してしまえば、こっちのものです。
その後は、更新のハガキが来たら、警察署でビデオを見て、視力検査をして、写真を撮って貰えば、これから先いつでも、自分で決めた時にどこまでだっていけるのです。資格の欄に運転免許証と書けるし、身分証明書もこれで一発OK。なんて素敵。
もちろん、免許証だけが残ったわけではありません。あの経験で、感じたことや、心療内科の先生の言葉、接し方は、のちに、いじめで不登校になった女子生徒との交換ノートで役に立ちました。
今も、旦那さんのうつ病に悩む友人に寄り添って話を聴くことができています。
仕事に行く朝、最後の靴を履くところで、玄関にうずくまって動けなくなってしまっていた私が、
眠ることができず、生きるのすらやめてしまおうと思っていた私が、
あの時想像もしていなかった今を生きている。なかったかもしれない未来を生きている。それを思えば、実はもう何もこわくないのかもしれません。
家族ができ、いつのまにか、身軽になんでも挑戦というわけにもいかないと思っていた私ですが、そのマインドをこれからまた変えていこうと思います。noteにどんな私の変化が記録されていくか楽しみです。
何が未来の自分に必要かわからないと思う方もいると思います。私は、全て必要だから今それがやってきているのだと思います。そして、その未来は、今より絶対よくなっている未来だと信じてみてください。どんな嫌なことも、楽しみに変わるはずです。
たつりころも
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