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冷蔵庫の思い出【エッセイ】

 家の中に何か得体の知れない白い箱がある。ヨチヨチ歩きで通り過ぎる幼い俺にはそんなふうにしか映ってなかったのかもしれない。ものごころがついてようやく自分で冷蔵庫を開けたのは、記憶があるのは小学校に上がる前くらいかな。当時保育園に通っていて、帰って戦隊ヒーローの番組見る前にだいたい冷蔵庫を開けたら、魚肉ソーセージがいつも手前の小さな棚に置いてあったな。で、今もあるのか知らないが、赤いビニールの上に小さな銀色のアルミか何かのクリップと、ちょっと剝きやすくしてある、細い少し濃い赤のテープみたいなのをめくって、ピンク色した物体をほおばるのが好きだった。不思議と小学校に上がるとあまり食べなくなったが、それが冷蔵庫との最初の思い出かな。
 小学校に上がると夏とか家に帰ったらこれも必ず、まず冷蔵庫を開けて麦茶の入ったボトルを注ぎ口に直接口をつけてラッパ飲みしていた。当時は、父親が早くに亡くなったから母親の実家に住んでおばあちゃんと母と三人暮らしで、まぁ、二人ともやさしいというか、俺が何してもそんなに怒ることはなかったな。当然のように、麦茶の入ったボトルを、おばあちゃんも母も飲むだろうに、オレが自分の口つけてラッパ飲みしているの見ても、時には怒ったこともあったやろうけど、聞かないわがままな子供でしたね。俺が一緒に住んでいて、子供とかにそんなことされたら絶対嫌やな、神経質なんで。よう言うわって感じやけど。ガキの頃はめちゃくちゃでしたね。でも、マイペースにのびのびと好きな事させてもらったから、いい環境だった面もあるか。  
 他にも夏にチューペット凍らせたのとか、駄菓子屋とかで買ってきたアイスとか冷凍庫にあったな。アイスと言えば思い出したけど、自分らの世代はビックリマンチョコのシール集めがめちゃくちゃ流行っていたな。で、チョコの他にもアイスに入ったシールのビックリマンアイスも発売されていて。チョコの方の話やけど、スーパーに買いに行って、全盛期とか、開店前に子供がもう十人くらい並んでたわ。俺もそこに加わって並んで、開店と同時に子供が一斉に運動会並みに売り場のコーナー目がけてよーいドンって感じで走りだしてさ。それでビックリマンチョコのあるお菓子売り場に行って、早い者勝ちで、人気もあるからひとり三個までって制限付きやったけど、それでもあっという間に売り切れるくらいでしたね、あの頃、昭和六十二年くらいかな。誰も生まれていませんね。でも、本当にビックリマンシールは、子供のころの一番といっていいくらいのいい思い出やね。プリズムやホログラムのシール、ブラックゼウスとか、今六十万円の値段ついているらしいで。持っていたら、いいお金になるから、授業料に充てれるやんけ。N君というめっちゃ面白い友達がオレらの中で唯一そのホログラムのシール「ブラックゼウス」を持っていたんやけど、見せてもらうのも、なかなかためらいがちに、もったいぶって「えー、辰己、見たいんか。どうしよっかな、そんなに見せてほしい?前に見せたやん。あれからそんなに経ってへんけどなぁ。えー、しょうがないな、じゃあ、あれ貸してくれる? ファミコンの魔界村。それ貸してくれたら辰己だけ特別にまた見せたるわ、みんなに内緒やで」みたいに見せてくれたりするから、余計にプレミアム感あって、めちゃくちゃ羨ましかった。冷蔵庫の思い出話でしたね、ちょっと脱線。
 子どもの頃、もう一人のおばあちゃんが自転車で十五分くらいの団地に住んでいて、何か団地と団地の間に大きな共用の庭があって、おばあちゃんそこでイチジクの木を植えて、栽培しててん。で、夏になるとその取れたイチジクを皮向いてそのまま冷蔵庫の冷凍室に入れて凍らせて、俺やいとこの女の子はそれを「イチジクのアイスクリーム」と言って、とてもおいしかったから好きでよく食べてた。ただ、普通の団地の庭に一本だけイチジクの木があるって感じでさ。そこで実る売り物じゃない果物やから、当然のように農家みたいに農薬も使ってないから、アリとか勝手にイチジクの中に入っててな、せっかくとってきたイチジクあけたらアリだらけ、とかようあった。それで見つけたらいいけど、凍らせたアイスの中にも入ってたりして、おばあちゃんはそれ見て「もう凍ってアリも死んでるから大丈夫」とか今考えたらよう分からん理屈とか言って子供に食べさせてたな。最初は嫌やったけど、言われてみれば凍っていて、そんなに気にならんかったけど……。おばあちゃん自身鹿児島県奄美地方にある喜界島という小さな島から大阪にやってきてさ。で、なんか、あの当時はすごく文明から切り離された生活をまだ続けていた人で、おばあちゃんの家だけ、現代から遠くタイムスリップしたような異次元空間みたいな感じやった。昔の沖縄とかの暮らしがそのまま移植されたというか……。大きな機織り機、庭で栽培している薄荷、みかんの樹にとまるアゲハチョウの幼虫、卵、おばあちゃんの庭がそのまま小さな南の島の大自然みたいな感じがして、子供心に大好きやったな。家の中は昼とか電気もつけずに自然の光だけやったからそれもなんか、心にしみて本当に田舎に来たような、大阪のど真ん中やけど、そんな気持ちにさせてくれた、特別な場所やった。
 冷蔵庫の思い出、他にはもう特にないかな。それだけ、寂しいことやけど、あれ以来本当に心が躍るようなエピソードに乏しい人生なのかもね。誰かが言っていて共感した言葉があり「人生の全盛期って十歳までなんじゃないかな。それ以降は子供のころのように感動しなくなるし、しんどいことも多いから、心から楽しくて満たされるのって、やっぱり幼い頃で止まっている人って多いんじゃないかな」というものです。確かにそうなのかもしれない。心のままに生きていける、生まれたままの能力で楽しく生きていけるのって、本当に幼いころだけで、そこから先は努力とか才能とかある人だけが、いわゆる「いい人生」を送れるけど、それも純粋な心でもないし、皮肉だよね。まぁ、虐待とか小さいころに苦労して、それをバネにして大きくなって成功する人とかもいたり、ずっと苦しいまま生きる人もいたりと、人生それぞれだから一概には言えないことも多いけど。それでも、昔から思っていることがあって、子供は自由に遊ばせてあげなってこと。親のエゴとかで習い事で埋め尽くして、人生で一番純粋に楽しめる時間を奪うようなことしたら、その子の人生に本当に楽しかった思い出とか何も残らんで。そんな奴が大きくなっていろいろ問題起こしてるんとちゃうんか? ってね。俺は甘かったのかもしれないが、好きなことさせてくれたおばあちゃんや母に感謝してる。まぁ、昭和の最後の方の時代を子供で過ごせて、今とは違って大人の目がなくても子供だけで遊んでも全然危ないとかなかった、いい時代やったけどな。社会全体が安定してたというか、平和な空気で満ちていた。戦前から生き抜いてきた大人がまだたくさんいて大人たちがまだしっかりしていた、信用できた最後の時代やったのかもしれないね。昭和が終わり、平成になっていろいろなものが崩れて変化して大人たちが慌てふためくようになったりしてさ……。それから世の中の空気がおかしくなって、社会が安全ではなくなり今のように子供だけで外で遊ばせるのは危険、ってことになったんやと思う。そういう意味で親にしても子供を自由に外で遊ばせるより、習い事とかさせて大人の目の届くところでいてもらう方が安心なんやろう。俺が子供持っていてもそうする。でも、四六時中大人の目が光る監視下で過ごす子供って、どう育っていくんやろな? 自由のない中で……。だからスマホとか持ったらそこだけが親の目が届かない自由な空間に思えて、いい意味でも悪い意味でも色々するんやろな、わからんけど。世代間ギャップがあるところやから、これ以上は語るのはやめておこうか。若い世代には若い世代なりの世界が見えているのかもしれんし。一概には言えない事ばかりやけど、とりあえず思ったことは書いておこうかな、と思って書いた感じやね。
 
───面と向かっては言えないことも文章ならスラスラ書けてしまうので、書いてしまいました。かなり偏ったものの見方もあって不快に思われた方もいらっしゃったかもしれませんが……。関西弁丸出しでしたし……。と……いうことで、そろそろ「冷蔵庫の思い出」という名のエッセイ、ここらでお開きとさせて頂きたいと思います。お付き合いいただきありがとうございました。
                        
                               (完)

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