見出し画像

フィジカルシアター Physical Theatreってなんでしょね?

さっそくよくわからんタイトルきました。
一部界隈で最近よく話題にでるフィジカルシアターという言葉。
今後このnoteでもわたしの活動や考えについてお話していくにあたり、この言葉について定義することはとても重要になります。
なぜなら、この言葉をどういうふうに定義づけているかによって、その方がどのように舞台を見ているか?に関わってくるからです。

というわけで最初からかなりニッチなお話ですが、わたしは面白いかな?と思っています。わたしだけかも知れませんが。


フィジカルシアターとは何か?



まずは一般的な解釈として、この方の文章がわかりやすいかなと思います。

"フィジカルシアターとは、せりふと共にダンス、マイム、曲芸など身体的な要素、また、小道具や美術、映像なども積極的に採り入れて、解釈の間口を広げた舞台のこと。"

CINRA掲載:オリンピック開閉会式の演出家ドゥクフレの美しくも奇天烈な舞台より引用
テキスト by 徳永京子 編集:野村由芽、飯嶋藍子

ふむ。
簡潔にまとめられていてわかりやすいですね。
”せりふと共に”というフレーズがいいです。
人によっては「言葉を排して」といういうような表現をする方もいらっしゃいまして、これには「ん?」と引っ掛かります。

ですがこの定義、よくよく読んでみるとですね、日本のアレを思い出しませんか?

そう、歌舞伎です。
歌舞伎には
・ダンス○
・マイム○(パントマイムじゃないですよ〜)
・曲芸○
・小道具や美術○(廻り舞台は西洋より発明は早く、奈落、宙乗りも江戸時代からあります)
・映像△(書き割り・振り落としがあるので)
がありますね。

実はですね、20世紀に入りヨーロッパの芸術界でとても大きな動きがありました。

19世紀から写実主義vs印象派、自然主義vs表現主義…と
「リアルか」「非リアルか」とずーっと議論されていました。というか「何がリアルなのか?」という問題。
スタニスラフスキーは俳優の内面からのアクションを提唱しましたが、彼の生徒であったフセヴォロド・メイエルホリドはスタニスラフスキーに反発しました。
メイエルホリドは観客との関係性や身体性にこそ舞台の可能性を見出し、舞台での「リアル」は必ずしも「リアルに描く」ことではなく、また外的なアプローチによってキャラクターを形成できると考えました。その考えに基づきバイオメカニクス(日本語ではビオメハニカとされているようです…Biomechanicsと書くのでどう読んでもバイオメカニクスなのですがなぜそうなったのか、誰が訳したのかは不明です…ロシア読み…?どなたか偉い人教えてくださいです…)というトレーニングを開発しました。

折りしもジークムント・フロイトが名を馳せていた時代。
当然舞台芸術も心理学に解を求めます。そこにスタニスラフスキーの自然主義が相まって、あたかもそれが舞台の全てとなっていた時代。
この時代の少し前に日本にも新劇というものが輸入され、坪内逍遥や岸田國士という新劇の祖(新劇というのは実は日本でのみ現れた言葉なのです。ちなみに旧劇とされるのは歌舞伎です。)はここに学びを得ました。

余談ですが…
1938年にスタニスラフスキーが亡くなる際「メイエルホリドの面倒をみるように。彼は私の魂の継承者であるのだから」という遺言を残します。残念ながら1940年にメイエルホリドはソビエトの内務人民委員部(NKVD)に捕えられ拷問の後処刑されてしまいます。またこの頃〜後にアーサー・ミラーやテネシー・ウィリアムズなどのいわゆるアメリカ発自然主義派が台頭します。そしてこれが戦後黎明期の日本の新劇に拍車をかけてゆきます。
この流れはイギリスにもあったと考えられ、伊川東吾さんの言葉で
「イギリス演劇なんて演じるのは首から上」というのに当てはまります。

ところがです。20世紀後半に入りその新劇、自然主義に頭打ちを食らったヨーロッパ演劇界は打開策としてアジアのポピュラーシアター(大衆演劇)に解を求め始めます。その中には中国の京劇や日本の能、歌舞伎、浄瑠璃などがありました。
これこそ、フィジカルシアターがその体を成すきっかけのひとつなのです。


そもそもシアターってなんだっけ?



ピーター・ブルックのThe Empty Space(邦題:何もない空間)には

“I can take any empty space and call it a bare stage. A man walks across this empty space whilst someone else is watching him, and this is all that is required for an act of theatre to be engaged.”
”何もない空間は全て素舞台として捉えられる。この何もない空間に誰かが入ってきて、それをまた別の誰かが観ていたとしたら、それこそまさに舞台が現出するのに必要なもの全てである。"(筆者訳)

Peter Brook著 
The Empty Spaceより

とあります。
千種万様の舞台がありますが、その全てにおいて共通する、舞台が舞台である構成要素の最たるものはこの文に集約されると思います。

この文章は例えばアフリカの民族舞踊の舞台性についても孕んでいます。
あるいは日本の神事における能楽についても触れていますね。

"I hate the word 'production'...it's a ceremony, it's a ritual...you should go out of the theatre stronger and more human than when you went in."
"’プロダクション’という言葉は嫌い…それは儀式であり祭典だ…入ってきた時よりもより強く、より人間らしくなって出ていける場が劇場であるべきだ。"(筆者訳)

Ariane Mnuochkine

わたしもアリアーヌの言葉に同意でして、シアターは神事の要素を含むと考えています。
シアターとは
①空間を孕み
②観客・舞台・俳優の三つ巴の関係性があり
③経験を伴い観客に何かしらの影響を与えるもの
であると考えます。

"Every form of theatre has something in common with a visit to the doctor. On the way out, one should always feel better than on the way in."
"どんな形態であっても全ての舞台は「医者に診てもらう」ことと似通っている。出ていく時は入ってきた時よりもすっきりして出ていくべきである"(筆者訳)

Peter Brook

なので今2.5次元とか、またいわゆる'演劇'とされている新劇などは、実は演劇の一側面に過ぎず、それ自体が演劇そのものであるなどとは到底考えられぬことなのです(あくまで演劇という言葉の定義です。その存在の是非あるいは良し悪しについて言及しているのではありません)。


なんでそんなこと疑問に思うの?



ですよねー。
わたしもそう思います。
ですけどね、やっぱりこれってわたしにとってはとても重要なのです。

なぜならこの定義づけを誤ると
「そもそもなんで演劇って社会に必要なの?」
という根源的な質問に、ビジネスの側面以外から答えられなくなるからです。

この「神事としての舞台」あるいは「経験としての舞台」というものこそ、舞台がいつの現代社会の中でも必要とされる役割であると考えています。

"You can discover more about a person in an hour of play than in a year of conversation."
 "1年間の会話より1時間の芝居の方が、その人物についてより深く知ることができる"(筆者訳)

Plato

舞台は経験の芸術です。
その時代やその価値観に生きた人間の歴史を追体験することができるものです。
だからこそ政治の道具にされたり、また前述の様に政治的に弾圧を受けざるを得なかった歴史があります。
ですがそれに関わる人の美しさは、そんなことに一蹴されやしません。

多様な生き方(歴史)を知ることは人文科学・社会科学であり、これらはリベラルアーツです。(ちなみに「藝術」という言葉はもともとこのリベラルアーツを明治時代に翻訳してできた言葉だそうです。)
そしてこのリベラルアーツとは「人が持つ必要のある技芸のひとつ」として認識されていたものです。
人文科学や社会科学で学ぶべきことを経験として橋渡しできる演劇が、社会の中で果たせる役割はとても大きいと考えます。
これがビジネス以外で演劇が社会において必要である理由のひとつです。
ちなみにリベラルアーツの重要性は、東大が入学者に対し2年もかけて教養学部でそれを教えていることから明らかでしょう。

わたしの小さな疑問をこうして公の場で発しようと思ったきっかけは、ここにあるのです。


いわゆる”ふつうのお芝居”ってなに?



なんでしょねー。

っといきなり投げやりになるわたし。
まあその時代時代で一般的なものかと思いますが。
今の日本で一般的な舞台というと…いわゆるストレートプレイ、日本語では会話劇と言われるものですかね。

このストレートプレイなどと呼ばれているもの。
あえてわたしが(頼まれてもいないのに)定義づけるとすれば

Conventional Theatre(慣例的な舞台)

ですね。まあ色々あって
あまり詳しくいうとわたしが消されかねないので←
conventionalを調べて、想像を膨らませてくださいませ。


結局フィジカルシアターと呼ばれているものは何なのさ?



よくぞ聞いてくれました(←聞かれてない)。
前述の様にフィジカルシアターとは東洋に打開策を求めるなかで生まれた存在。
ですがその素は、古代ギリシャ演劇やイタリアのcommedia dell'arteにも内包されていました。

なぜなら古代ギリシャ演劇には
・コーラスがある
・仮面を使う
・歌う
・踊る
・演技をする
という’フィジカルシアター’の要素がありましたし

commedia dell'arteにも
・仮面を使う
・踊る
・歌う
・演技をする
・ディバイジング(集団制作)
などという’フィジカルシアター'に通じる要素がありました。

まあ要素というよりも、そもそもシアターってこういうのなんです。
会話のみを主体としストーリーを展開する舞台って、実は歴史的にはそんなに長くありません。

そうしてね。
上述のものらから学びを得て、その時代に生きる自分達にあったフォーマットを探し続け生み出されたものがPina Bauschだったり、DV8だったり、GeckoだったりCompliciteだったりするのです。

"All I know is the theatre that I make, I don’t have any other way of expressing myself – the fact that it happens to be globally called physical theatre never really crosses my mind. I suppose one way I could express this is to say that I am committed to finding ways to engage people imaginatively without the use of text – this means that all ideas I have, pass through the lens of Gecko theatre, which happens to be called physical theatre."
"私が知っているのは私が作っている舞台のことだけで、他の方法で自分自身を表現できなかったのですーフィジカルシアターと世界的に呼ばれる様になるとは思ってもみませんでした。ひとつ言えるとすれば、私は人々を、言葉を使わずに想像力豊かにさせる方法を探し続けているということですーそれは、私がもつアイディアをGeckoのレンズを通してお観せしたものがフィジカルシアターと呼ばれるようになった、ということです。"(筆者訳)

Amit Lahav
Artistic Director of Gecko

そしてそれを、フィジカルなシアターに馴染みがなかった「首から上だけ」の演技の文化圏の人たちが、自分達に分かるように名付けたものが'フィジカルシアター'なるものなのです。


おわりに



スタニスラフスキーの著書An Actor's Workの最終章THE 'SYSTEM'にはこうあります。

"It is customary to call what we have been studying 'the Stanislavski system'. That is a mistake…
…The 'system' is a guide. Open it and read. The 'system' is a reference book, not a philosophy…
…Work on the 'system' at home. Onstage put it to one side.
You cannot act the 'system'.
There is no 'system'. There is nature."
"私たちが学んでいることは、慣習的に'スタニスラフスキーシステム'と呼ばれているがそれは間違いだ…
…'システム'とはガイドである。開いて、読むものである。'システム'とは参考文献であって、原理や真理ではない…
…自宅で'システム'に取り組みなさい。舞台では、そんなもの横に置いておきなさい。'システム'で演ずることはできないのだから。
'システム'などは存在しない。あるのは本質である。"(筆者訳)

Konstantin Stanislavski
An Actor's Workより引用

スタニスラフスキー’システム’と銘打って教えていらっしゃる方々、この文章は読まれていますか?
ぜひご意見をお聞かせください。

わたしには、それは彼の仕事に対する冒涜と考えられてならないのです。

システムはその組織や自分を取り巻く環境を「自分が」望むように機能させるために「自分が」発明すべきものです。
スタニスラフスキーは「彼にとって(あるいは彼らにとって)」のシステムを考案したのであって、それは万人に対し絶対のもの(真理)として向けられるものではなく、むしろその中で発見したものは万人が利用・発展・変容させるもので、こうすれば上手くなるという絶対のシステム/メソッドではないと考えます。

フィジカルシアターとはそういった「自分が」生み出したシステムに基づき、「自分が」望むものを現出しようとして生まれた舞台たちであり、それを定義づけするのに定義づけする側が理解しやすい言葉で名付けたものであって、決して、生み出した当人がつけたものではないでしょう。
アーティストがアーティストであろうと足掻いた結晶なのです。

何よりね。

“All theatre is physical”
"すべての舞台はフィジカルである"(筆者訳)

Ariane Mnuochkine

なのならば、Physical Theatreって言葉は
「頭痛が痛い」なのよね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?