『死刑 その哲学的洞察』(萱野稔人・ちくま新書)
テーマは死刑、ただそれだけである。死刑は是か非か。そういうふうに受け止めても構わないだろう。だが、それを試験や感情で片付けるようなことをするわけではない。そもそもどういうことを根拠にそれを肯定するのか、否定するのか、などを考慮しようとする。そこが「哲学的」という意味なのだろう。だが、著者は社会理論を専門分野としているように、プロフィールで紹介されている。社会学的視点というものは、どうしても強く働いているように感じる。
その辺りの切れ味というものは、読者がそれぞれに受け止めるとよいのではないかと思うが、途中で、その口調などから、著者の凡その方向性や結論というものは、だいたい見えてくる。それは仕方がないだろうとは思う。ただ、哲学者がしばしば結論を先に挙げて論じてゆくのとは違い、どちらがよいだろうか、ということを、様々な論拠を通して問いかけつつ、著者なりの落ち着くところへ導いてゆくような構成になっている。
それはそれでよいのだが、本書は、読むのに実に苦しい本である。いくつかの死刑判決の出た事件について、詳細なレポートがなされるのである。もちろん、悪趣味で露骨な表現で殺害現場を描くことはなされていないのだが、それでも実情をなんらかの形で述べなければならないわけで、少しばかり想像力を働かせてしまった私のような読者からすれば、読んでいてたまらなく苦しくなってくるのである。これから読む方は、その辺りを覚悟して挑んで戴きたい。
とくにこの死刑の問題は、日本社会におけるものとして本書は捉えている。世界の動向や世界に於ける考え方も当然関与するが、主題は日本社会である。つまり、日本社会では、死刑を肯定する声が大きいのである。世界の趨勢として死刑が廃止されていく流れがある中で、死刑存続の国は比較的少なくなってきた。日本では、特別に宗教的理由があるなどのためではなく、国民感情として、死刑が廃止されないのである。
だからこの「哲学的」は、「日本社会」をベースにしたものである故に、普遍的なものではないように、見えないこともない。しかし、あくまでも日本での例を基に考え、検討してゆくのは確かであっても、普遍的なものを目指していることは確かである。
こうして、本書はまず日本社会と死刑の関係について、いろいろな角度から光を当てて考察する。
それから、これがかなり核心的な問題点なのだが、凶悪犯罪が死刑を刑罰にしなくなっている例があることを指摘する。つまり、自分は死にたい、死刑にしてくれ、これだけ殺人を犯したのだ、世の中が憎くて死にたいから、道連れにしたかった、さあ殺せ、このように振舞った実例があったのだ。しかも、弁護側が死刑判決に控訴しようとすると、当人が控訴をしないとし、さらに法律を根拠に、死刑を長引かせるな、と政府に働きかけたのである。
この人間にとっては、死刑制度は彼の欲望を叶えるために役立ったに過ぎず、死刑は刑罰として機能していない。このような者は、例外的なのかもしれないが、決してこの人間一人ではない。死刑が犯罪抑止力にもなっていないどころか、殺人を奨励する形になっているとき、死刑は何のためにあるのか分からないのではないか。
そこで著者が持ち出すのが、終身刑である。日本では、無期懲役という判決がなされるが、これは一定の年数が経つと釈放されることがある。尤も、近年釈放例は、以前ほど多くはないのだというから、終身刑に近づいてきているともいう。自分を死刑にしろ、という者にとっては、実はこの終身刑が最も苦痛であったわけである。だから、真の意味での終身刑を以て最も重い刑とする案が生まれてくる。
それで被害者感情は満たされるのか。そういう声もある。ただ著者は、その「被害者感情」というものは、実は当事者ではない傍観者が自分の感情を満たすために、被害者になりかわって、そして意地悪な言い方をすると、被害者の存在を利用して、理由として持ち出している面があるのではないか、と言う。そして、現に、殺された人の遺族が、死刑にしないでくれ、と運動した実例を持ち出す。ごく稀な出来事であったのだろうとは思うが、その例を大きく取り上げて、この問題か普遍的になることを求め続けるわけである。
その後、カント哲学を大きく取り上げて、道徳が死刑に対して何を根拠づけるのか、という点をかなり長く論ずる。「哲学的」という言葉が一番ものをいうのは、たぶんここである。カントは死刑を肯定していたが、それをたんに当時の社会常識のようには考えず、その道徳論の意義からかなり詳しく検討している。ここは、カント哲学入門としても悪くない読み物である。しかし、道徳が死刑を認める根拠にはなれない、という方向性を導いてゆく。
最後に、政治理論を用いる。公権力が、死刑という暴力を実行できるのは何故か、というものである。いっそ国家というものがなかったら、という極論も世にはあるが、そうなるとそもそも刑罰どころの騒ぎではなくなる。公権力が存在しない社会は考えられない。ただ、ここで冤罪というものが中心に置かれる。警察が冤罪をつくってきた背景や心理なども例を挙げながら示し、冤罪だけはなんとしても防がねばならない、とするのである。
そうして本書は、チェーザレ・ベッカリーアというイタリアの法哲学者の思想で結ばれる。この人に考えに対する反論を、カントが述べているということだが、思想界においてはマイナーなところから結論を支持する考えを取り出してきたのは、意外と言えば意外であった。
本書の姿勢は届く。本書はどこに響くのだろう。あるいはもしかすると、死刑という問題は、「哲学的」には解決できない分野であったのだろうか。人が人を殺すことは「あり」なのかどうか。死刑判決に響くような重大刑事事件に関わる裁判員制度では、裁くことを拒む信仰的理由が、辞退のために認められている。だが本書には、宗教的な視点はどこにもない。視野をそこにまで拡げる機会が、この後に与えられたら、また違う景色が見えてくるのかもしれない、と思った。