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『現代思想2024年9月 vol.52-12 特集・読むことの現在』(青土社)

今回は「読むこと」について「読む」こととなった。メタ構造のようだ。実に多彩な角度から「読む」ことについて論じられた文章が集められた。これをどのように「読む」とよいのだろうか。といった遊び的な眼差しは一旦控えて、まずはどのような話題があるのか、ご紹介しよう。
 
冒頭の対談で、まず殴られるような感覚を覚える。話題は「読書バリアフリー」である。芥川賞受賞で注目された、市川沙央さんが登場する。障害を負っているとき、本を読むということが、如何に大変なことであるのか、思い知らされた。そのために電子機器が役立つのなら、もっとニーズに合った、豊かな読書が可能な機器ができてほしいと思う。
 
読書を阻むものは、身体的障害だけではない。識字障害というものもある。何かしら法的な問題や、社会的な事情もある。そうした当事者からの声は大切である。心して接しなければならない。自分で当たり前と思っている私のような者には、痛い指摘ばかりである。
 
同じ「読む」にしても、仲間と「ともに読む」というやり方がある。読書会は、同じテクストを前にしても、人それぞれに違ったものが見えるということを教えてくれる。それは豊かな思想につながるのだ。哲学書について大学で「読書会」を経験した私には、しみじみ分かる。また、「聖書」を礼拝後に共に読むことも、実に豊かな実りをもたらした。いま礼拝説教で聞いた話と、その箇所の聖書を前にして、自分が受けたもの、思わされたことを語り合い、分かち合うのだ。これをしたことがない教会がもしもあったら、ぜひご一考願いたい。以前していた教会も、聖書や説教への興味が失せてしまったとき、これを止めてしまった。教会が、ただの仲良し定例会になってしまうことになったのだ。
 
物理学者の読み方はなかなか辛辣だった。論理的に事に当たると、思想的な文章も、「ザル」であるように思えてしまう。また、いったい本を読むことで失ったものはないか、と反省してみるのもよい。人間は、記憶に頼っていた時代といまと、どちらが幸福だったのだろうか。あるいはまた、今後電子形態が一般的になるとき、そしてAIが日常に当たり前に存することになったとき、読書というものがどうなるのか、何を意味することになるのか、見据えておかなければならないだろう。
 
個人的には、「#本好きと繋がりたい」を問題にしたものは、痛快だった。SNSによくあるのだ、このタグが。だがそれを、多分に個人的な感覚で述べているに過ぎないのだが、痛烈に批判しているものだ。
 
別の言語で書かれた作品を「翻訳」するということについて、もっと光を当てるべきことを教えてくれた論考もある。翻訳者の苦労を示したいのもあるかもしれないが、翻訳というのはいったいどういうことか、読者に考えさせる機会となった。私もこれから、翻訳者にもっと気を払って、ありがたく読ませて戴こうと思う。
 
特集の最後は、法律の文書を読むことだった。ちょうど朝ドラでこの9月まで、「虎に翼」という作品が放映されていた。朝のドラマで、法律の文章が真っ向から飛び交うもので、当初は大丈夫かと思われたが、恐らく朝の連続テレビ小説の歴史の中で、必ずや一目置かれる作品となったと思う。視聴者に、法律というものがどういうものなのか、意識させ、考えさせる機会となったに違いない。そこへタイムリーにこの法律文書の読み方が指南されたようで、興味深く拝読した。
 
時に、読書量が激減している、という報道が社会問題化しかけていた。そうした報道や論考すら、もはや読まれないほどに、読書というものから、人々が離れているのが皮肉であり、悲しいことなのだが、私はそこに、人間が益々「想像力」を失ってゆくことを懸念している。すでに以前から、想像力が崩壊しているのではないか、と言われていたが、本を全く読まないという層が加速度的に増加している現状は、もはや末期的症状を呈しているかのようである。最初にも挙げたが、「読むこと」について「読む」ということ自体が、ハードルが高いのである。
 
しかし、「本を読みたくない人に本を読めと言うことなんて、絶対にできない」という人の言葉も真実だ。そう書いた三宅香帆さんに、私は痛く共感した。「誰かの寂しさを言葉ですくいあげる」というタイトルの文章である。「読書はその寂しさを分かち合ってくれる。言葉を共有する。どこの誰とも知れない他人と、世界も時代も異なる他人と、抱えきれなさを共有する。そのとき私は、寂しくなくなる。それは読書の効用だと思っている」(p133)という指摘は、忘れたくない。
 
中程に、石岡良治さんと宮﨑裕助さんの対談がある。これは実り多いものだった。「あなたはどう読むのか」と問いかけてくるもの。それが「読むこと」の出来事であること。そうして、「テクストが自ら引き起こす出来事に巻き込まれていく」こと。「読むことを通じてテクストに巻き込まれるかたちで人間が人間を超えていく」こと。この「テクスト」というところに、ぜひ私は「聖書」を置きたい。聖書の読み方は、こうでなければ、命とならない、と私は固く信じているからだ。それで、「あらかじめ読みたいことを読むだけのナルシシズムには、人間が人間のなかに閉じこもるだけで読むことの出来事は生じません」というところにも、大きく肯くことができる。聖書が命を与えるという出来事は、こうした説明もあるのだということを、知ることができてうれしかった。
 
宮﨑さんの『読むことのエチカ』がそこに登場したが、高価な本だけれど、いつか読んでみたいと思った。

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