『源氏物語と神学者』(R.ボーレン・川中子義勝訳・教文館)
2004年の出版。副題として添えられている「日本のこころとの対話」のほうが、原題に近いという。それは「日本に想う」というものであった。
ボーレンとくれば、加藤常昭氏のドイツでの師であり、友人でもある。そのキリスト教関係の著作は、悉く加藤常昭氏が翻訳してきた。だが、本書は、その加藤氏から、訳者に任されたのだという。その理由が、本書が文学についての叙述が多いためであり、適任だろうと言われたということである。
ボーレンのタイプ原稿から翻訳されたものであるが、かなり自由なエッセイの形式をとっている。そして、自身詩人でもあることから、最後にその詩が載せられ、また随所で文学の話が出てくる。
本の題は、元々「源氏物語」という名をもたない。確かに多くの場面で源氏物語を引き合いに出してはいるが、それがすべてではない。読み終えてみると、ひとつの看板のように用いられたという印象を与える。始まってまもなく、日本の現代詩や日蓮に話題が移ってゆく。もちろん、聖書も随所で触れるし、当の源氏物語と聖書との比較も多くなされる。特に雅歌は、ひとつの鍵である。詩編も、対照できるところがある。そこには「美」という角度から見つめる眼差しがある。
その後、東山魁夷と茶の本については、かなり突っ込んだ検討がなされている。
ここまで触れてきたことでお感じになったとは思うが、ここに取り上げられたのはいずれも日本文学である。源氏物語も、ドイツ語で読めるわけで、それとは30年来の付き合いであると記されている。日本の文学について、深く広い見識をもっているという点では、私など足元にも及ばないと感じる。ある程度、源氏物語も「抄」としては知っていても、それを論じるなどという芸当ができるわけがない。しかしまた、読者としても、源氏物語についていくらかでも知っておかなければ、この本を読むことができないことを思うと、改めて自国の文化について無知であることは恥ずかしく、自分のフィールドを狭くしてしまうことであると思い知らされる。
エッセイである。訳者も最後に述べているが、ほんとうに思いのままに言葉が流れてゆくこともあって、段落と段落とが有機的につながっているというよりは、その都度断片が置かれているようにしか見えないこともある。それを、少しでも抵抗なく読んでもらうためにはどうすればよいか、と考えて、訳者は、段落と段落との間をゆったりと離して設置することにしたという。そのため、本書は300頁に迫るほどの量をもちながら、情報量がその割には減少しており、恰も本全体が詩であるかのように、感じてゆけるという面がある。訳者はこのことを、それが散文詩のようである、とも言っている。
日本庭園についても、陶芸というものについても、たいへんよくご存じである。もしかすると、その道の専門家から見れば、やはり外国人の理解に過ぎない、という批判があるかもしれないし、私たちもまた、その道の方々の思いや行動についても、さらにまた理解しようと努めなければならない、と思う。
だが逆に見れば、ボーレンも呟いている。平均的な日本人も、なかなか哲学に関心をもっているため、平均的スイス人などより、よほどヨーロッパの思想について知っている。そう書いた人に啓発され、自分もまた教えられた、というようである。
キリスト教関係の方が、本書に触れると、どういうよいことがあるだろうか。密度からすれば、少し薄いかもしれない。しかし、開いてゆくと、随所に聖書の読み方や教会の在り方などについて、ためになる視点や教えを提供されることがある。それには、加藤常昭氏の言葉が影響を与えている。あるときは、ドイツから来る宣教師たちは日本の教会に役立たない、と嘆く加藤氏に対して、ボーレンは答える。ドイツでは、神学を学びはするが、伝道への意識をもつものではないから、伝道という点では、確かに気持ちが向かってゆかないのも尤もである、というようになことである。そして、キリストを無駄に語ったり、神に誤解を生じさせるようなことについては、絶対に寛容であってはならない、と言う。キリスト教の救いには、「創造的な不寛容」が必要なのである。
最後に、聖書を読むということについて、非常に示唆に富む言い方をしているところを味わおうと思う。それは一種の「出エジプト」である、と言っている。つまり、「自己の外へ出てゆき、言葉の中に入り行くこと」だ、と。その言葉というのは、「聖書が神の業に与ると告げる」言葉である。どんな文化を目の前にしても、また、その文化に美を覚え賞賛の心を深く懐いたにしても、私たちは一人ひとり、そのような体験を実感することによって、聖書に生かされるという出来事が起こるのである、ということなのだろう。このような福音を携えているからこそ、本の題にも「神学」という言葉があってよいのである。