読むことは簡単ではない
どうしてこんな簡単な文が読めないのか。大人たちは、子どもに教えていて、嘆くことがある。私の経験からしても、昨今の受験生の読解力の衰えは目に余る。入試問題は一時よりは読みやすく、解きやすくなっていると思われるのだが、ますます読めなくなっているように見える。
もう少し適切に言うならば、読解力は二極分化していると思う。優れた子は本当に優れている。だが、そうでない方が目立つのだ。
文章読解というのは、テクニックではない。その読解の危機を考える。言語は思考そのものであるとするなら、人間のものの考え方の危機がここにあると言える。「闇バイト」の問題がマスコミを賑わせているが、こうした背景と無関係ではないと私は感じている。言語の問題は、倫理や想像力の問題と直結するのだ。
ただ、『プルーストとイカ』という、タイトルだけからすると中身が何なのか分からないような本をいま読んでいるが、それを見て、目を覚まされた気がした。言われてみると、確かにそうなのだ。
この本は、認知科学に関するものだ。とくに「読む」という行為について、分かりやすく書かれている。人間が文字を使い、文章を読む、ということが、如何に難しいことであったのか、ということを思い知らされるのである。
考えてみれば、およそすべての人が文字を読むということができるようになったのは、ごくごく最近のことである。古代エジプトで書記という者が超エリートの才能豊かな存在であった、というのも当然で、そうした状態が何千年も続いていたのだ。聖書を人が読めるようになったということが、どれほど現代的なことであるか、歴史を振り返れば簡単に分かるはずである。
もちろん、昔のような差別的な社会は御免だ。誰もにチャンスが与えられ、また、それぞれができることをやりがいをもってできる社会でありたいと願う。だが、エジプトの書記だけができるような芸当を、万人に課すことが平等であるのかどうか、疑問に思うことがあってもよいのではないか、とも思う。それが苦痛でしかない子が、少なからずいるのである。
否、だからこそ義務教育として、この社会でやっていくために必要な知識や技能を、なんとか身につけておく、という配慮は十分に分かるし、当然である。しかし、必要以上に高い能力を強要されることで、心が歪むようなことはあってはならないだろう。文章読解というのは、誰でも当たり前にできる簡単なこととは言えないのだ。そこを前提にした形で、教育も考えていきたいと思う。
もちろん、文字を読み書きできるように、というのはやはり大切なことだ。人間は言語によって思考する。読み書き話すことは、考えるという行為を創造する。言語活動をすべての人に教育するのが、現代では必要なこととすべきだろう。ただ、それを難関大学が求めるような高度な読解のみが目的だとするのではなく、読むことが、書くことが、そして考えるということがこんなにも楽しいことなのだ、ということを体験しながら学んでゆく機会が、もっと良い形で拡がっていくとよいのではないか、と思うのである。
それは、大人たちはかなり気がついている。サークルもあるし、同好会のようなものもある。小学校で、絵本の読み聞かせをしましょう、という集まりがあり、また読み聞かせる機会がある。それらは、試験をして入試問題を解こう、というためのものではない。楽しむためのものだ。誰かと分かち合って、互いに喜ぶものだ。こうした読書を大いに楽しめる社会でありたいと思う。
「読書時間が減少している」というような調査が、数字によってのみ語られるのは悲しい。一人ひとりが違う理解をしている「読書」というものについて、あれこれ勝手な論議が飛び交うだけで、肝腎の読書をどう楽しむか、という点が蔑ろにされていくようだからだ。
読書の愉しみ、読み解くことの必要性を知ることなしに、そして少々突き放した表現を使うことを断りつつも、よく考えることができないで、世の中の常識や人の心への思いやりなどということを体験しなかったのではないか、と思われるふしのある若者たちが、いま話題になっている。「闇バイト」に吸い寄せられる人たちである。そして、「闇バイト」というような生温い言葉を垂れ流す社会も、何かこの妙な流れに棹さしているようにも感じるのは、私の感覚が異常であるためなのだろうか。「いたずら」とか「いじめ」とか、生温い言葉は、これまでにも、いまでも、普通に使われている。とんでもない。重罪であり、卑劣な行為なのである。
私も、読むのは得意ではない。読んでもよく理解できない本はたくさんある。読むことは学び終えるということがなく、日々読むことを学び続けていきたいと願っている。空気の読めないことは度々あるけれども。