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『良心学入門』(同志社大学良心学研究センター編・岩波書店)

同志社大学良心学研究センターは、2015年に設立されたという。「良心」というキーワードを中核として、理系文系に拘わらず、凡ゆる領域で探求するという場であるらしい。現代社会での様々な問題の根柢に、「良心」が関わっているのではないか、という見通しの下、リベラルアーツ教育にも適う営みが始められたのである。
 
同志社大学は、新島襄により創立され、キリスト教主義を基本としている。近年そのリベラルさが、キリスト教界から一部煙たがられている点は否めないが、こうして聖書との関連のある人間と社会の研究と提言がなされていくというのは、歓迎すべきことだと私は考える。
 
なぜに「良心」を問うのか。上に掲げたが、さらにまた、この「良心学」そのものが、それを問い続けていくことにもなるのだという。これではまるで「哲学」のようだ。自らの正体を問い続ける中でこそ、哲学は成り立つと言えるのであった。
 
だが、どのような学問分野であれ、正面切って「良心」について探究したという話は聞かない。もちろん哲学にはないわけではないが、たいへんマイナーである。別の議論の中で、申し訳に「良心」に触れる程度であり、そのものを主役として問うことは、盛んではない。
 
日本語にしてみれば、「良心」という言葉は、「良心の呵責」という使い方が最もポピュラーであるかもしれない。「良心が痛む」もあるだろうか。善悪を判断する心のことを想定していると思われるし、また、読んで字の如く「良い心」というのが、一般的な理解ではないだろうか、と感じる。
 
本書で、そしてこのセンターで問う「良心」は、かなり違う。まずここから実は問わねばならないところが、ややこしい。というのは、日本語で「良心」と訳されている語は、西欧文化においては、「共に知る」という意味を明確に表しているという事情があるからである。
 
もしかすると、そういうことを初めて耳にする方がいるかもしれない。その語は、「共に知ること」あるいはそれゆえに「常識」のイメージで捉えることができることを人々は踏まえた上で、議論していかなければならないと、ここで一度ご理解戴きたい。まさにそれをこそ、共有知としたいことである。しかし、一つの分野でも、意見がひとつにまとまらないからこそ、議論や研究が起こるのであって、「良心」についての捉え方がひとつにきれいに定まってしまったとしたら、それもまた少し怖い話になりそうである。それでも、何かしら共に賛同できる前提のようなもの、然るべき道というものが、あるのではないか、という探究は、やはり必要なものであろうと思う。
 
この問題は、あらゆる領域で検討可能である。それが「良心学」の強みであり、またまとまらない理由でもある。今回ここで「~と良心」というタイトルで統一された章が、全部で15章ある。その「~」だけを並べてみると、キリスト教・イスラーム・哲学・法・新島襄・社会福祉・経済学・環境問題・ビジネス・スポーツ・科学技術・医療・脳科学・心理学・人工知能、となる。このように幅広く、凡ゆる分野で「良心」が問われうるのだ、ということに、きっと多くの方は驚かれるだろう。だが、考えてみると、凡ゆる場面で「良心」は問われて然るべきだ、というのは当然であるとも言える。但し、同志社大学の学内での分野がここにあるわけで、それ故にたとえば「芸術と良心」というテーマは成立していない。芥川龍之介の「地獄変」のように、娘を焼く姿を芸術のために必要とするといった極端なものを持ち出す必要はないかもしれないが、まだ検討の余地はあるのではないかと思われる。
 
また、ここでは「科学技術と良心」という程度で収まっているが、原爆をつくった科学というものは、たんに科学という領域に留まらず、社会や政治との関係の中で問うていかなければならないものであるだろう。するとまた、「平和と良心」というテーマも成立するように私なら提示したい。「平和」というものは「良心」そのものではないか、とお考えになる方もあるだろうが、私の見解では、そうではない。平和=良心などでは決してない。対立する者たちが、それぞれの共通知によって、我こそは平和、と主張して引き下がらないところから、逆に平和に反する事態になっているという現実があると思うのである。
 
もちろんこのセンターにしても、さらに視野を広めていくものだろうと思われる。だが、そうして広まれば広まるほど、収拾がつかなくなるかもしれない。結局人間が活動するあらゆる分野で、「善く生きる」ためにはどうすればよいのか、が問われる必要があろうかと考えるのである。「善く生きる」とは、まさにソクラテスの「愛知の学」すなわち「哲学」のテーマであった。だから、こうして「良心」という概念で追究することが、もちろん悪いはずはないし、ぜひ継続して戴きたいのであるが、根柢的には、「哲学」が必要なのだ、と私は理解している。もちろんそれは、哲学史の研究ではないし、哲学者の紹介などではないはずである。

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