『東大教授、若年性アルツハイマーになる』(若井克子・講談社)
2005年秋、東大教授の若井晋さんのもとに、琉球大学から講演の依頼があった。本書はここから始まる。まだ発症したとは言えなかったが、その気配は始まっていた。59歳だった。このとき沖縄を訪ねたことが、治療生活をそこで暮らし、いろいろな人と出会う契機になったのだということらしい。
このプロローグで、「医師は、自分の専門領域の病気にかかることを極度に恐れる」という言葉が挙げられている。晋さんは、脳外科医として臨床の場にいた。それで、自分がアルツハイマー病ではないか、ということを、認めたくないのではあるが、客観的にはその可能性が非常に高いということを知っていたらしいのだ。事実、それは結果的にその通りで、まさしく若年性アルツハイマー病であったことが、後に分かる。
この自覚以後、妻として克子さんは、認知症の夫を支え、また対外的にも窓口となって活躍する。多くの人との間をつないだのも事実だが、家庭においては、衰えて行く夫に付き添い、時にはその暴力的な声などに困惑するようにもなる。
この家族がどのような過程を経たか。それは、どうか本書を直接お読み戴きたい。私は下手に紹介はしないし、粗筋を述べるような野暮な真似もしない。認知症の家族と接するような方には、別の家族だが、生々しい体験として、何かしら役立つ情報があるかもしれない。尤も、教授という比較的恵まれた環境にあるだけに、生活自体の困難を覚える方々には、羨ましく見えることがあるかもしれない。どんな人にもお薦めしてよい、というわけでもないだろうと思う。
ただ、私が本書を心に留めていたのは、このご夫妻がクリスチャンだという一点であった。本書は、信仰の証しのために書かれたものではない。ここで神さまが云々、というふうな言い方は決してしていない。発行は講談社である。これがなまじキリスト教書店からの本でなくて、私はむしろよかったかもしれない、と思っている。失礼な言い方だが、講談社だと、市販のルートがまるで異なる。宣伝の仕方もあっただろう。信仰を表に出す売り方をしているものではない。だから、結果的なかなり話題にもなった、よく読まれた本のうちに数えられるのだろうと思う。もっと信仰のことを書いてください、などと頼まれなかったはずだから、よかった、と思うのだ。
しかし、本書をよく読むと、この信仰のことが、かなり表に出て来ている。まず、二人の救いの体験が書かれている。それをここにあからさまに書くのは控えるが、二人とも学生のとき、信仰の体験をしている。とくに克子さんは、一般的にいう神秘的体験をして、イエスに出会っている。この体験は大きい。たとえ自分の信ずる力に翳りが見えたとしたも、イエスのほうが離さないはずである。そして本書を見る限り、修正神への方向というものは変わっていない。
晋さんは、最後までヘンデルの「メサイア」を愛し、その音楽に包まれて動けない体の生活を過ごしていたともいう。何かあれば賛美歌が響き、賛美歌が心を助けた話も、自然と中に混じっている。なんとすばらしい証しであろうか、と感動する。
それだから、当たり前にこのように接することができた。読者には、自ずからそれが伝わってゆく。私は神を信じているのです、アーメン、といった気負いはどこにもない。もう当たり前のように、日々の生活の中で神が支えているのだということが、ひしひしと伝わってくる。
物語そのものは、まだ存命のうちに幕を閉じる。しかし、「エピローグ」で、晋さんの死が伝えられる。しかしそのことも、実にさりげなく、「晋が天に召されたからだ」と記されている。それは、2021年の2月のことだった。この年月、お気づきだろうか。コロナ禍真っ只中の時である。病院に付き添うことが許されなかった時期なのだ。それで容態が急変したとき、病院に留まるか、退院して自宅に連れて帰るか、選択肢が与えられる。もちろん即答した選択は、ご想像の通りである。子どもたちが見守る。次男はアメリカにいたが、リモートという手段でそこにいる。
東大教授がアルツハイマー病にかかる。人はそれを、「天国から地獄に落ちた」と称した。だが、克子さんは高らかに宣言する。「すべて失ったことで……信仰の、人生の本質に触れた」のだ、と。本書は、晋さんが愛した言葉で本文は結ばれる。あの有名な『リトル・トリー』からの文章であった。
必ずしも名文ではない。改行が多すぎる、と指摘する人がいるかもしれない。だが、このリアルさについては、何も口を出すことはない。別に「東大教授」でなくてもよかったのだろうが、そのために、多くの人に目に触れ、手に取ってもらえたなら、それで十分だ。これから文庫化してでも、さらに多くの人の心に刻まれてほしいと願う。