終わりなく面白いもの
何かを表現するとき、文章を書くことはとても遠回りな手段だと私は思う。情報を調べていると、その情報をあたかも自分が考えたように書いてしまいそうになる。言いたいことがあるはずなのに、考えきれずに一般論でまとめてしまいそうになる。気づくと何時間も書くテーマや構成について考えていたりする。その時、他のことは考えられない。何を書くか、どうやって書くかだけを考えている。私はよく、この長い工程と時間の拘束に疲れ果てて呆然としている。だから、私は絵を描くことにした。
最初は何を描いたらいいかわからなかったので、自分で撮った写真を絵にすることにした。私はテーブルに置かれたケーキの写真を拡大し、テーブルの模様やカップの形を確かめながら、絵を詳細に描き込んでいった。そして、「テーブルに置かれたケーキの絵」が完成した。それは全く喜ばしいことではなかった。私がこれまで観てきた他の人の絵は、明るい色合いに楽しそうな空気を感じたり、陰影の濃さに寂しさが滲み出ていたりするのに、私の「テーブルに置かれたケーキの絵」にはそのような情緒が全く漂ってこない。それは私が写真のコピーを描いたにすぎなかったからだ。
写真のコピーを制作してしまったことに失望した私は、描く方法を改めた。自分が書いている日記の内容に合わせて絵を描いてみることにした。絵にするモチーフは生活の中で目にする機会が多いものから選んだ。見ている頻度が多いものであれば、頭の中で明確にイメージできていると思っていたし、何も見ずに描けると思っていた。しかし、いざペンを使って描いてみると、ぼんやりとしか想像できてないことに気づく。ドーナツの絵を初めて描いたとき、円の中心にもう一つ小さい円を描き入れて二重丸の記号を作成してしまった。私は記号を描きたいわけではなかったので、ドーナツの形を調べ直した。スマホのカメラロールの中から、インターネット上にある画像から、ドーナツを描くことに役立ちそうな情報を集める。その情報の中から、自分が描きたいドーナツに必要なものだけを抽出して、再構築する。形や色や質感やどこに置いてあるかなど様々な切り口で検討し、どのような絵にしていくのかを決める。
私はよく一般的なイメージでモチーフを決定しそうになる。例えば、ある日の日記の内容は「カトリックの幼稚園で行われているお祈り」についてだった。それを題材に絵を描こうとした時、すぐに頭に浮かんだのは幼児が両手を組み合わせている場面だった。しかし、それは一般的な祈りのイメージで、私が日記で書いた内容を表したものではない。私は、幼稚園の先生がお祈りを毎日一つ一つ違う文言を選んで行なっていることに関心していた。そのことを絵にしたかった。スマホのカメラロールを眺めながらモチーフを探してみると、曇天に包まれた港の写真が出てきた。グレーの空に朝靄がかかりポツリポツリと明かりが灯っている港は美しかった。その明かりのかすかな光が小さな祈りとリンクした。
どんなものを描くか考えたり描いている間、私はモチーフと自分だけが存在する部屋にいると思う。実際には雑音の多い場所にいたとしても、自然と耳を閉じることができる。目の見える位置に対象物以外の物が置いてあっても無効にできる。「買い物したい。お菓子を食べたい。」というような欲求もキャンセルされ、ただひたすら観察したことをペンで再構築することに向かう。描くものと私だけが存在する世界に引きこもって、活動することができる。そうやって、日記に合う絵をいくつもいくつも描いていった。
「サガンの言葉」という本を読んだ時の日記には、水差しの絵を合わせた。その本にはサガンの清くて誠実な言葉がたくさん載っていた。私はサガンという人の精神的な清潔さに憧れた。それは透き通る水のようだと思った。そこから私はレストランで見たガラスの水差しを連想し、描くことにした。レストランという場所も、人との交流を好んだサガンの人柄と重なるので都合がよかった。
「サガンの言葉という本を読みました」ということ自体を絵にするのなら、サガンの顔写真が載っている本の表紙を描けばいいのだと思う。そうすれば、わざわざモチーフを1から考えたりする必要はなく、絵を描くことに集中できる。しかし、私はそのような「事実」を絵にしたいのではない。サガンの誠実な言葉が醸し出す潔さや、実は人好きであるという雰囲気そのものを絵にしたいと思ったのだ。ただ事実を絵にすることと、説明できない感情を含めて絵にするのかを考えるとき、私は後者を選ぶ。そしてあることを思い出した。言葉にも同じような事が言える。
吉本隆明が書いた『言語にとって美とはなにか』という本では、二種類の言葉が定義されている。一つは指示表出。これは、誰が見ても同じ事実を言葉で説明すること。「私はサガンの本を読みました」という文章は、誰が見ても同じことを言葉で説明している。もう一つは、自己表出。「うっ」や「熱い!」など、自分の内側から出てくるような言葉がそれにあたる。これは誰から見ても同じではない。私がサガンの言葉を読んで思った清潔さや人好きから生じるやわらかな雰囲気については、似た捉え方をする人もいるかもしれない。けれど、その捉え方から誰もが同じ水差しを連想することはない。サガンの言葉から、もっと別の印象を受ける人もいるだろうし、その印象を表現する方法も一つではない。この誰もが一致するわけではない感性や感情を言葉で表現すると自己表出になる。他の誰がどのように見ようとも、私が持っている感情そのものを表現するということだ。
私が写真を模写した時、なぜ描いていることがつまらなかったのかがわかった。言葉で言うところの指示表出として描いていたからだ。「これは水差しです」「これは祈りです」「これはドーナツです」という説明をしているだけで、ほとんど何も表現していないに等しい。そのあと、方法を改めて描いた絵は、「サガンの言葉に感銘を受けたこと」を水差しで表現し、「幼稚園の先生が毎日の祈りの内容を丁寧に選んでいること」を靄に包まれた港に灯る明かりで表現し、「がんばらないでなんとかする」ことをたいらなドーナツで表現した。それらは私が勝手に関連づけたものなので、水差しを示して「サガンの言葉に感銘を受けた」と説明することはできない。説明し得ないものを描いていくことが、自己表出なのだと思う。その探求が、絵を描くことに楽しみを与えてくれた。
私にとって絵を描くことは、情報をコピーをすることではない。モチーフを選ぶところから始まっている。一般的なイメージと自分が描きたいものとの違いを注意深く考える必要もある。気づくと長い時間、描くことについて考えていたりする。その時は何を描くかどうやって描くかだけに集中していて、他のことは気にならない。そうして、たくさんの工程を経て一枚の絵が完成される。それは何かを表現するときに遠回りな手段だけれど、終わりなく面白いものだ。
絵を描くことは文章を書くことに似ている。
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