
スッタニパータ 第1章「蛇の経(Uragasuttaṃ)」第1偈
導入
「Uragavagga(ウラーガヴァッガ)」 は、『スッタニパータ(Suttanipāta)』の最初の章であり、蛇(uraga ウラガ) を象徴的なモチーフとして使用している。本章では、出家修行者がどのように煩悩を捨てるべきかを、蛇が古い皮を脱ぎ捨てる様子になぞらえて説いている。主に 「執着を手放すこと」 と 「怒りや煩悩を克服すること」 が中心テーマとなっている。
仏教では、蛇の脱皮は修行者が過去の執着を捨て、新たな境地へ進むことを象徴する。本章の詩句は比喩に富み、仏教の根本的な教えを簡潔かつ力強く表現している。
直訳
1. 蛇の経(Uragasutta ウラガスッタ)第1偈
「Yo uppatitaṃ vineti kodhaṃ, visaṭaṃ sappavisaṃva osadhehi;
So bhikkhu jahāti orapāraṃ, urago jiṇṇamivattacaṃ purāṇaṃ.」
訳:
「怒り(kodha コーダ)を鎮める者は、まるで薬(osadha オーサダ)を用いて広がった蛇の毒(sappavisa サッパヴィサ)を制するようなものである。
そのような比丘(bhikkhu ビック)こそ、この世(ora オーラ)とあの世(pāra パーラ)の執着を捨て去る。
まるで蛇(uraga ウラガ)が古い皮(jiṇṇataca ジンナタチャ)を脱ぎ捨てるように。」
要約
怒り(kodha コーダ)を克服することは、修行者にとって最も重要な課題の一つである。
煩悩や執着を脱ぎ捨てることは、蛇(uraga ウラガ)が古い皮(jiṇṇataca ジンナタチャ)を脱ぐことに例えられる。
真の修行者(bhikkhu ビック)は、過去の自己や執着にとらわれることなく、悟りへの道を歩む。
注釈・補足
1. 「怒り(kodha コーダ)」について
『スッタニパータ註釈書(Suttanipāta-aṭṭhakathā スッタニパータ・アッタカター)』によると、「怒り(kodha コーダ)」 は五蓋(pañca nīvaraṇa パンチャ・ニーヴァラナ)の一つであり、心の清浄を妨げる最大の障害の一つとされる。
怒りの克服は、慈悲の瞑想(mettā-bhāvanā メッター・バーヴァナー) を通じて可能であり、これは仏陀(Buddha ブッダ)が推奨した修行法の一つである。
『パラマッタジョーティカー(Paramatthajotikā パラマッタジョーティカー)』では、「怒りを捨てることが解脱(vimutti ヴィムッティ)への第一歩である」と述べられている。
2. 「蛇の毒(sappavisa サッパヴィサ)」の比喩
怒りや執着が広がる様子を、蛇の毒(sappavisa サッパヴィサ)が体内に広がることに例えている。
『スッタニパータ註釈書』では、この毒を「執着と妄執の象徴」として解釈する。
瞑想(jhāna ジャーナ)と智慧(paññā パンニャー)という「薬(osadha オーサダ)」によって、この毒を克服できるとされる。
仏教では、煩悩(kleśa クレーシャ)はしばしば「毒」と表現され、「三毒(triviṣa トリヴィシャ)」として 貪欲(rāga ラーガ)、怒り(dveṣa ドヴェーシャ)、無知(moha モーハ) が挙げられる。
3. 「この世とあの世の執着を捨てる(orapāraṃ jahāti オーラパーラ ヤハーティ)」
「ora(オーラ)」 は現世、「pāra(パーラ)」は来世を指す。
つまり、修行者は「この世(現世の執着)」と「来世(輪廻への執着)」の両方を超越しなければならない。
『スッタニパータ註釈書』では、これは 「涅槃(nibbāna ニッバーナ)に至るための心の解放」 を示すとされる。
仏教哲学では、このような超越を 「二辺を離れる(ubhayataḥpratipatti ウバヤタフ・プラティパッティ)」 と呼ぶ。
4. 「蛇が古い皮を脱ぎ捨てる(urago jiṇṇamivattacaṃ purāṇaṃ ウラガ ジンナミヴァタチャン プラーナン)」
仏教において「蛇の脱皮」は、悟り(bodhi ボーディ)に至る比喩として頻繁に用いられる。
『スッタニパータ註釈書』では、「蛇の脱皮」が 「自己変容と煩悩の除去」 の象徴とされる。
これは、修行者が自己の過去や執着を手放し、新たな境地へ向かうことを示している。
サンスクリット仏典では、これは「変容(pariṇāma パリナーマ)」や「解脱(mokṣa モークシャ)」と関連づけられる。
5. 「比丘(bhikkhu ビック)」とは?
比丘(bhikkhu ビック)は、仏教における出家修行者を指す。
『スッタニパータ註釈書』では、ここで言う比丘は単なる僧侶ではなく、「心の執着を断ち切る修行者」 を意味するとされる。
つまり、形式的な出家ではなく、心の解放を達成した者 を指す。