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『香港陥落』 松浦寿輝

     

ひとり遅れの読書みち     第42回

     太平洋戦争の勃発をはさんで、暗い過去を秘めた3人の男たちが香港を舞台にして交遊を深める。日本、英国、そして中国という国籍を異にし、また年齢もそれぞれ40代、50代、30代と幅のある人たち。不思議な縁から知り合いとなり、交わりを続ける。日本軍が今にも香港を支配下に置こうかという時、「災厄の時代」が始まり、「きな臭い予感」が空気中に濃厚に立ち込めていた時代がスタートだ。
     作者は、時代の奔流に押し流される町や人々を哀切の思いを込めた名文で綴る。心の奥深くに響いてくる物語だ。

     登場する日本人は、元外交官で駐英参事官を勤めながら、それを辞めて香港に来た谷尾悠介。今は小さな新聞社の編集長をしている。英国人はリーランド。香港政庁の元職員で、今はロイター通信の記者。もう1人は香港生まれの黄(ホアン)。貿易会社で働く。若いが見込まれて副社長の役職にある。
     3人の最初の出会いは、戦争勃発直前の1941年11月8日。高級ホテルのレストラン。日本軍が深圳を支配して今にも香港に攻め上がって来る時。しかし「誰も彼もそんなものには気づかないふりをして、安逸と享楽に溺れていた」ときだ。ホテルでは英国人の男女が着飾って踊り明かしている。「能天気」の状態。3人は豪華な料理を食べながら、酒を飲み、また語り合う。とりわけ谷尾とリーランドは大のシェークスピア好きで、シェークスピア劇のせりふを互いに暗誦し合えるほど。人間として引かれ合う3人だった。

     次は、同じホテルで12月20日。日本軍による真珠湾攻撃があり、英国も交戦国になり、香港には日本軍が入って来た。ホテルの照明は暗く、ほぼ日本軍人の姿しか見られない。ありあわせの食べ物をとり、酒を飲みながら語り合う3人。谷尾は、日本が2、3年すれば敗けるとの見通しを示して、2人が日本の統治下でうまく生活できるように働きかける。だが、2人は日本軍への協力はできないと拒否する。

     そして3回目は、1946年3月23日。日本の敗北で終わった戦争。中国本土から戻って来た黄が新しく貿易会社を始め意気盛ん。2人を同じホテルに誘った。リーランドは収容所での暮らしを経てだいぶやせていた。谷尾は敗戦国の人間として、近く日本に帰る予定。落ちぶれた雰囲気。2人とは会いたくないとの思いもあったが、なつかしさから出向いてくる。やや気まずいまま別れる間際、リーランドがシェークスピアの一節を朗唱した。「次はいつまた会おうぞ、われら3人、雷、稲妻、それとも雨のなか?」『マクベス』だった。「大騒動が治まって、いくさに敗けて勝った、その後で」と谷尾は、一瞬の間を置いて続けた。そして振り返った。3人との友情は続くとの思いがあふれ、涙を流す。

     一方、「Side B」と題された後半では、3人の交遊を英国人リーランドの視点から書く。状況が重層的に写し出される。
    リーランドには新しく別の中国人沈(シェン)たちとの出会いがあり、物語に一層の深みを与えている。上海から逃れて来た人たちだが、やや暗い影がつきまとっている。

     最初の出会いは、1941年11月15日。前半の物語にあった3人の会食から1週間後。みすぼらし建物にある食堂の場面。そして同年12月20日。さらに20年余りのちの1961年7月15日。英国で暮らしていたリーランドは77歳。香港に戻って来た。なつかしい黄と会いたかったが、連絡をとるとつい最近死亡していた事実を知る。それでも黄の妻と沈との再会を果たす。谷尾の姿はなかった。

(メモ)
香港陥落
松浦寿輝
講談社
2023年1月11日第1刷発行

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