『西郷従道』維新革命を追求した最強の「弟」 小川原正道
ひとり遅れの読書みち 第48号
西郷隆盛の15歳年下の実弟、従道の生涯を描く。父を幼くして亡くし、父代わりの存在だった隆盛だが、西南戦争で「賊軍の将」となった。従道にとっては「重荷」であり「負債」にもなる。その中で「維新大業の基礎」を確立すべく国家発展に尽力する従道の姿を、著者は貴重な書簡や書類をもとにして明らかにする。
従道は幕末期に兄や大久保利通のもとで尊王攘夷の志士として活動し、薩摩を代表する若手官僚、政治家として新政府に登用された。さらに政治的軍事的リーダーとして参議になり、重要な閣僚にもなり、また元老のひとりとなって明治政府の中枢を担い、国家建設に寄与する。
中でも著者が注目するのは、従道が陸軍卿代理から海軍大臣へ、また海軍大臣兼臨時陸軍大臣として、陸軍と海軍とを股にかけ、海軍大臣については8内閣で合計10年間あまり務めたこと。海軍の創生期に軍の拡充を図り、また若き日の山本権兵衛や斎藤実を見出して要職に抜擢、後任の海軍大臣へ、さらには首相を担う人材として育て上げたことだ。
著者によると、その道程には常に偉大な兄の影が寄り添っていた。隆盛は薩摩藩と明治政府との間で「板挟みの苦悩」を味わったが、従道は隆盛と政府との間で「葛藤」することになったという。
征韓論をめぐる政変(1873年)に敗れた隆盛が政府を去って、これに同調した鹿児島出身の多くの近衛兵や官吏が職を辞したとき、従道は陸軍大輔(陸軍次官)の立場であり、明治天皇の命で彼らの説得にあたった。だが失敗する。鹿児島での戦いが始まったときには、陸軍卿山県有朋が前線の指揮に向かい、従道は陸軍卿代理として陸軍省を預るかたちとなる。主に軍の編成や兵站、情報収集に努めた。冷静に状況を見通し、忠実に職務にあたっている。
従道が海軍大臣だったときに、腹心の山本権兵衛が、兄隆盛と進退を別にした理由を尋ねたことがある。従道はそのとき、次のように答えたという。
欧州に留学していかに「政治、教育及軍事その他百般の事」を整備し、「維新大業の基礎」を確立すべきかを悩んできた。征韓論の争いでは、内政の改革と財政の整理をすべきとの主張に賛同したと。
従道は26歳のときに1年間欧州情勢視察のため主にフランスに滞在して軍事を中心に視察、同じくプロシア視察の山県有朋とイギリスで合流し、アメリカ経由で帰国している。
西南戦争終了後に隆盛死すの報を聞いた従道は、「長大息」して「今日限り官職も罷める」と言って、部屋に引きこもってしまったという。大久保利通が翌日訪ねて来て説得。苦しいだろうが「国のため」に尽くしてもらいたい、まずは外国に出てイタリア公使に就任するよう持ちかけた。従道は日本に戻らないつもりでイタリア行きを決意した。だが大久保がその直後暗殺されたことにより、イタリア赴任は取り止めになった。
天皇から出勤を命じられ、従道は78年5月に参議兼文部卿に就任、9月には陸軍卿を兼任、12月参議兼陸軍卿に就任して80年までトップを務める。
伊藤博文内閣が85年12月成立すると、従道は陸軍中将ながら海軍大臣に就任する。陸海の両軍を「架橋」する役割を果たすことが望まれていた。86年7月からは1年間かけて、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、ロシア、イタリア、スイス、ベルギー、オランダなどを歴訪して、艦艇の製造、軍港の設備、兵器や火薬の製造、さらに士官、下士官の教育訓練などを視察して回った。
90年内相に転じ、92年枢密顧問、93年再度海軍大臣に就任している。日清戦争が始まり、山県有朋が第1軍、大山巖陸軍大臣が第2軍の司令官として出征したので、従道がその間(94年10月から95年5月)海軍大臣のまま臨時に陸軍大臣を兼任した。
日清戦争後、従道は海軍の拡張計画を決定した。その計画に従って建造された艦艇などが日露戦争の主力となっている。首相に推されるときもあったが辞退、98年には元帥に、また元老にも加えられた。
著者の克明な記述から、従道が表舞台では目立った存在ではなかったが、国家の基盤を支え、また陸軍と海軍の間、長州と薩摩の間で重要な調停者の役割を果たしていたことがわかる。
(メモ)
西郷従道─維新革命を追求した最強の「弟」
小川原正道著
発行 中央公論新社
2024年8月25日発行
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