『魂の教育』 良い本は時を超えて人を動かす 森本あんり
ひとり遅れの読者みち 第59号
神学者で東京女子大学学長の森本あんりが幼い頃からどのような本を読んできたかを語り、またどのように生きてきたかをまとめた。人生に迷って彷徨しつつも、良き本にめぐりあって神学を学び始めるようになる。ひとコマひとコマが貴重な証しだ。
幼い頃に亡くなった母が遺していた自筆の「信仰告白」との出会いには、奇跡や運命を感じる。著者が4歳のとき、母は余命あと1年と知りキリスト教徒として洗礼を受けていた。著者は50歳になって初めてそれを知ったという。その「告白」には、将来の不安はあるが「魂の教育」を神に委ねる、今は安心して死ぬことができると綴られていた。著者が言うように「身が震える」体験だっただろう。「一人で」洗礼を受け、「一人で」牧師になったつもりだった。しかしそこには「魂の教育」を祈った母がいたのだ。
著者は暗い青年時代、真っ暗な地下鉄の線路を歩くように生きながらも、優れた教師や友人たちとともに様々な書物を読み込んでゆく。また思索を深める。
マルクスの『ヘーゲル批判』では、「宗教はアヘン」という言葉をとらえて、宗教や信仰に否定的な見解を抱く。ただ、それでも神や信仰への関心を強め、20歳のときにキリスト教の洗礼を受けた。「救われた」との実感を持ったという。
「万人が認める神など存在しない」「信仰は常に個的で実存的である」と、著者は静かながらも強い信仰を告白する。また、「キリスト教の信仰をもつということは、社会への反逆であり、世間への挑戦であった」と記し「現世とは別の価値や秩序を指し示すのが宗教」だと強調する。
その前後に衝撃を受けた本が、森有正の『ドストエフスキー覚書』だという。人間の「罪」の問題をとりあげたもの。理性ある自律した成人であっても、人間は「自分で自分の責任を負うことができない存在」であり、「罪は途方もなく大きく」「どんなに努力しても取り返せる」ものではない。だから「救いが必要」と訴えていた。キリストとともに「新しい生命」に生きることができると思ったという。「当時のまま生きていたら」今どうなっていたかわからないし、「とっくの昔に死んでいた」に相違ないと、当時を振り返る。
マックス・ウェーバーの『古代ユダヤ教』では、とくに預言者の項目に興味を引かれたと述べる。預言者エレミヤの言行に感動する。預言者がどのように神の言葉を語るのか。「忘我と恍惚」のうちに「うわごと」のように語るのではない。「自分が体験した事柄の意味を尋ね続け、神の意思を解釈できたと思われたとき」はじめて語り出すというのだ。「語りたくて語っているのではない」「自己の内面から押し動かされて語る」というわけだ。預言者について、著者は「権力から独立して政治活動を行う知識人」と見なして、「今日も続く」「固有の伝統」と強調し、「世界史的な意義」を持った人々と高く評価する。
著者はさらに多くの本をとりあげている。例えば、井筒俊彦の『「コーラン」を読む』、北森嘉蔵『神の痛みの神学』など。北森は世界では著名だが、日本では余り触れられていない。痛む神という考え方に感銘を受けたという。
著者は4年間松山での牧師生活を経て米国に留学した。米国に渡ったピューリタンの研究を目指す。バルト、トレルチ、エドワーズ、ティリヒ、ニーバー、ブルンナーらの神学の研究を進める。米大学の博士課程での厳しい研究努力を明らかにするとともに、神と人、罪、不安や空虚、民主主義の問題などをわかりやすく説明する。今日的課題への示唆に富む見解も多い。
副題の「BONAE LITERAE(ボナエ・リテラエ)」は直訳すると「良い書物たち」のこと。著者によると、「優れた・洗練された・品格のある」「文書・手紙・文芸・文学・教養・学問」という意味だ。「良い本を読めば良い人間になるかというと、そうとも限らない」が、「良い読書体験は(やがていつか)良い人間形成につながる」と信じる。「良い本を読むということは、結局それらの本を通して自分を解釈する手立てを得る」ことだと、著者は結論付けている。
(メモ)
魂の教育 良い本は時を超えて人を動かす
BONAE LITERAE(ボナエ・リテラエ)
森本あんり著
岩波書店
2024年11月6日第1刷発行