『女は二度決断する』:2017、ドイツ&フランス
[I 家族]
ドイツ人のカティヤはクルド人の移民であるヌーリと結婚し、6歳になる息子のロッコと3人で暮らしていた。ある日、カティヤは妊娠している親友のブリギットとエステに行くため、ロッコを連れてヌーリが経営する小さな旅行代理店へ赴いた。
彼女はヌーリに息子を預け、7時になったら迎えに来ることを告げる。カティヤが外に出ると自転車を停めて去ろうとする女性がいたので、「鍵は?盗まれるわよ」と告げる。すると女性は「すぐ戻るの」と言い、そのまま立ち去った。
カティヤはヌーリの車でブリギットを拾い、エステへ赴いた。カティヤの体にはタトゥーが彫られているが、「ヌーリが嫌がるから、これで最後よ」と言う。夜になってカティヤが旅行代理店へ戻ると周囲は封鎖され、警官隊と野次馬が集まっていた。
爆破事件があったことを聞いた彼女は慌てて代理店へ行こうとするが、警官たちに止められた。カティヤは刑事から、現場で男性と子供の死体が発見されたことを知らされる。DNA鑑定によって、その2人はヌーリとロッコだと判明した。
カティヤはレーツ警部から捜査への協力を要請され、ヌーリは熱心なイスラム教徒だったか、政治活動をしていたかと質問される。レーツは代理店の前で爆発が起きたこと、ヌーリを狙った犯行の可能性が高いことをカティヤに説明した。
最後にヌーリとロッコを見た時に何か変わったことは無かったかと訊かれたカティヤは、自転車の女性のことを話した。自転車は新品で、荷台にはボックスが載っていた。事件を報じる新聞ではヌーリを「薬物売買で前科のある男」と書いており、カティヤは不快感を抱いた。
カティヤは母のアンナマリーから「何かの抗争よ」と告げられ、「ヌーリを悪く言わないで」と反発した。彼女は弁護士で友人のダニーロを訪ね、「主人が何をしていたのか知ってる?」と質問する。
ダニーロはヌーリが薬物取引から足を洗っていたと告げ、「ヤバいことは何もやってない」と話す。警察が犯人は東欧系だと考えていることを聞いたカティヤは、「ドイツ人のネオナチに違いない」と言う。彼女はダニーロに頼み、コカインを貰った。
カティヤの家にヌーリの両親が来て、「息子と孫をトルコへ連れ帰りたい」と要求した。カティヤはコカインを吸ってから2人の元へ戻り、「家族を2度も奪われたくない」と遺体の引き渡しを拒否した。
葬儀を終えた後、ヌーリの母は彼女に「貴方がちゃんと見てたらロッコは死なずに済んだ」と告げた。警察が家宅捜索に入り、コカインが見つかった。アンナマリーは「ヌーリの物よ」と嘘をつくが、カティヤは自分の物だと認めた。
警察署へ赴いたカティヤは、レーツから犯人の心当たりを問われる。彼女はネオナチだと断言し、その根拠について「あそこはトルコ人街だった」と述べた。レーツの事情聴取が続く中、カティヤは彼がヌーリを薬物犯罪人に仕立て上げようとしていると感じる。彼女が抗議すると、レーツは「警察がマークしている人物がご主人と何度も電話しています」と言う。
カティヤは「夫は犯罪者の通訳もしたの。電話するのも仕事よ」と声を荒らげ、ヌーリは加害者ではなく犠牲者だと主張した。レーツは「犯罪組織との取引でトラブルが発生し、報復で殺された」という見解を語り、憤慨したカティヤは事情聴取を切り上げた。
カティヤが帰宅すると、アンナマリーは「どうして薬が自分の物だなんて言ったの。亭主の悪い影響?」と責めるように言う。カティヤは「出て行って」と怒鳴り付け、母親を帰らせた。ビルギットは心配するが、カティヤは「1人にして」と彼女も帰らせた。カ
ティヤは浴室で手首を切り、自殺を図った。しかしダニーロから留守電に「君の言う通りだった。犯人はネオナチだった」とメッセージが入ったため、彼女は自殺を中止した。改めて留守電のメッセージを確認すると、ダニーロは犯人が捕まったと言っていた。
[II 正義]
犯人として捕まったのは、代理店の前に自転車を停めていたエッダ・メラーと夫のアンドレだった。カティヤは裁判に出席し、ダニーロの隣で全てを見守ろうとする。被告側弁護士はカティヤの退廷を要求するが、裁判官は却下した。
検視官の説明を聞いていたカティヤは我慢できなくなり、エッダに襲い掛かった。「殺してやる」と彼女は喚き散らし、職員たちに制止された。裁判長はカティヤに、また同じことを繰り返せば出廷を禁止すると警告した。
アンドレの父であるユルゲンは証人として出廷し、ヒトラー崇拝者の息子とは絶縁状態だったことを話す。彼はガレージで爆破テロに使う道具を発見し、警察に知らせていた。ユルゲンはカティヤの方を見て、犠牲者に対するお悔やみの言葉を口にした。法廷を出たカティヤが「息子の犯行を知っていても通報した?と訊くと、ユルゲンは「分かってました」と述べた。
メラー夫妻の弁護士は、証人としてマクリスというギリシャ人を出廷させた。マクリスは事件当時、経営するホテルに夫妻が宿泊していたと証言した。ダニーロはマクリスがギリシャの極右政党の党員であること、メラー夫妻と繋がっていることを示す証拠を提示した。
カティヤが法廷で証言すると、メラー夫妻の弁護士を務めるハーバーベックは薬物検査と証言能力の鑑定を要求した。ダニーロが反発して拒否すると、ハーバーベックはカティヤの目撃証言が薬物の影響下にあるので信用できないと主張した。
ダニーロは発表前の鑑識結果とカティヤの目撃証言が一致していることを説明し、証言能力は証明済みだと告げる。しかし裁判官は証拠不充分として、メラー夫妻に無罪判決を下した。カティヤは最後のタトゥーを完成させ、ギリシャへ向かった…。
脚本&監督はファティ・アキン、共同脚本はハーク・ボーム、製作はヌアハン・シェケルチ=ポルスト&ファティ・アキン&ハーマン・ヴァイゲル&アン=クリスティン・ホマン、共同製作はメリータ・トスカン・ドゥ・プランティエ&マリー=ジャンヌ・パスカル&ジェローム・セドゥー&ソフィー・セドゥー&アルダヴァン・サファイー&アルベルト・ファニ&フラミニオ・ザドラ、製作協力はマイケル・ウェバー&ハロー・フォン・エーヴェ&ティナ・マースマン、撮影はライナー・クラウスマン、美術はタモー・クンツ、編集はアンドリュー・バード、衣装はケイトリン・エーシェンドルフ、音楽はジョシュア・ホーミ。
出演はダイアン・クルーガー、デニス・モシット、ヨハネス・クリシュ、サミア・シャンクラン、ヌーマン・アチャル、ウルリッヒ・トゥクール、ハンナ・ヒルスドルフ、ウルリッヒ・フリードリッヒ・ブランドホフ、ヘニング・ペケル、ローレン・ワルター、カリン・ノイハウザー、ウーヴェ・ローデ、ラファエル・サンタナ、アシム・デミレル、アイセル・イスカン、イオアニス・エコノミデス、ユーラ・ボウダリ、ハートマット・ロス、クリスタ・クリングス、ウォルフガング・ゾルナー、インゴ・ボスマン他。
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『愛より強く』『そして、私たちは愛に帰る』のファティ・アキンが脚本&監督を務めた作品。『50年後のボクたちは』のハーク・ボームが共同脚本を務めている。カンヌ国際映画祭の主演女優賞やゴールデングローブ賞の最優秀外国語映画賞を受賞した。
カティヤをダイアン・クルーガー、ダニーロをデニス・モシット、ハーバーベックをヨハネス・クリシュ、ビルギットをサミア・シャンクラン、ヌーリをヌーマン・アチャル、ユルゲンをウルリッヒ・トゥクールが演じている。ダイアン・クルーガーはドイツ人だが主に英語圏で女優活動をしており(だから母国語だとダイアンじゃなくてディアーネ)、ドイツ語の映画に出演するのは本作品が初めてだ。
警察はヌーリが薬物売買に関わっており、裏社会のトラブルで報復を受けたと決め付ける。一方、カティヤはネオナチが犯人だと断言する。カティヤの主張は根拠に乏しいが、警察の見立てが間違いだろうってのは何となく見える。
ミステリーやサスペンスで「違うと思わせておいて、実際にそうだった」というどんでん返しを用意するケースもあるが、この作品がそういう類じゃないことは最初から確定していると言ってもいいしね。
実際にネオナチの夫婦がヌーリとロッコを殺した犯人であり、第1章のラストで逮捕される。だから偏見に満ちている警察は醜悪であり、カティヤは全面的に同情されるべき存在だと言っていい。
ただ、この映画には1つ仕掛けがあって、それは「カティヤにしろヌーリにしろ、品行方正で善良な市民とは言い難い」ってことだ。ヌーリは薬物売買による前科持ちで、カティヤはコカインを吸っている。つまり2人とも薬物関連の犯罪者なのだ。
なので、そっち方面で警察が疑いを抱くのは、全く根拠が無いモノではない。ヌーリがクルド人だからという人種差別による偏見だけで、「裏社会のトラブルの報復」と決め付けたわけではないのだ。
とは言え、もちろん「だから警察がヌーリを薬物犯罪者と決め付け、裏社会のトラブルによる報復と考えたのも仕方がない」と擁護したいわけではない。例え前科があろうとも、カティヤがコカインを吸っていようと、「それはそれ」として捜査は進めるべきだ。
人種差別だとか移民の問題ってのは重要な要素だが、そこだけが本作品のテーマになっているわけではない。ヌーリがクルド系トルコ人ではなかったとしても、メラー夫妻がネオナチではなかったとしても、類似の事件が起きることはある。
「ヒロインが夫を理不尽な理由で殺され、犯人の正体は確定的だが無罪放免になってしまう」という出来事が起きる可能性はある。「そういう状況になった場合、果たしてヒロインはどういう行動を取るべきなのか」ってのが、一番のテーマと言ってもいいだろう。
ようするに、この映画で最も重要なのは「復讐」という行動だ。「復讐は間違った行為」とか、「復讐は憎しみの連鎖を生むだけ」とか、そんな風に批判的なことを言う人も少なくない。
ただ、それは清廉潔白で立派な主張だが、実際に自分が大切な人を殺された時、そういう気持ちになれるかというと、それは難しいんじゃないか。実際に復讐できる勇気や覚悟を持てるかどうかはひとまず置いておくとして、犯人に復讐したい気持ちが湧くんじゃないかと思うのだ。
粗筋に書いた展開の後、映画は最終章の[III 海]に突入する。カティヤがギリシャへ向かったのは、もちろんメラー夫妻の居場所を突き止めるためだ。そして夫妻の居場所を突き止める目的は、夫と息子を殺された復讐を果たすためだ。
完全ネタバレだが、カティヤはメラー夫妻が住んでいるキャンピングカーの場所を突き止め、夫と子供が殺された時と同じ爆弾を作成する。そして夫妻の留守中、車の下に爆弾を入れた鞄を仕掛ける。そのまま放置すれば、復讐を遂げることは出来る。
しかしカティヤは夫妻か戻るまで少し離れた場所で見張っている最中、心に迷いが生じる。そして鞄を回収し、その場を去る。それから彼女は夫と息子の動画を見るが、再びキャンピングカーへ戻る。そしてメラー夫妻がいる時、鞄を持ったまま車へ乗り込んで爆発させる。
最初に爆弾を仕掛けた時とは、大きく状況が異なる。最初の時は、メラー夫妻を抹殺して自分は安全な場所にいた。つまり、メラー夫妻が夫と息子を殺した時と同じだ。しかし最終的にカティヤは、自分も死ぬことを選んでいる。
どっちであろうと、「復讐を果たした」という形ではある。ただ、強い復讐心を燃やした結果しての行動なのかと考えた時、そうとは断言できない。ある意味、絶望感から来る自殺でもあるように感じるのだ。復讐と自殺と、その両方を果たした行動にも思えるのだ。
しかし結果だけを見ると、ある種の自爆テロという形にもなっている。とは言え、もちろん監督はテロリズムを美化したり正当化したりしているわけではない。問題提起として、この結末を用意しているんだろう。
(観賞日:2020年6月24日)
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