『狐の呉れた赤ん坊』:1945、日本
東海道の大井川、金谷の宿。川越人足の寅八と馬方の頭分・丑五郎は、顔を合わせれば喧嘩ばかりしている。その日も2人は馴染みの浪華家で、激しい喧嘩を繰り広げていた。浪華家の娘・おときが止めに入っても、2人は言い争いを続ける。
そこへ寅八の弟分・辰が呆けた顔で現れ、「狐にやられた」と漏らした。街道筋の野っ原には、狐が出て人を化かすという噂があった。野っ原に出掛けた辰は、川っ淵にあるはずの大柱がそこに立っているのを見つけた。それは、普通の人間では不可能な所業であった。
寅八は「狐を退治してやる」と強気に言い放ち、一人で野っ原へ向かった。そこで赤ん坊を見つけた彼は、狐が化けていると確信し、皆の元へ連れ帰った。
寅八は「生け捕りにしてやった」と得意げに告げ、赤ん坊を乗せた駕籠を天井から吊り下げ、狐に戻るのを待った。だが、いつまで経っても赤ん坊の姿は変わらない。寅八は元気が無くなり、関取の賀太野山を運ぶ時に川へ落としてしまった。
弟分の辰、六助、太平が賀太野山に謝り、事情を説明した。すると賀太野山は寅八に、「赤ん坊が天からの授かり物だと思えば腹も立つめえ」と言って小判を渡した。寅八は辰たちを連れて浪華家へ行き、酒を注文した。
寅八は赤ん坊を捨てに行くが、去ろうとすると泣き出すので、困り果ててしまった。寅八は質屋の大黒屋蜂左衛門を訪ねて「代わりに捨てて来てくれ」と頼むが、叱責された。
寅八が浪華家に戻ると、丑五郎が「子供を捨てるなんて」と激しく彼を批判していた。寅八は丑五郎への対抗心から、立派に育てて見せると宣言した。しかし、いざ育て始めると、赤ん坊の夜泣きに苛立ちを募らせる。寅八から面倒を見るよう要求された辰たちは蜂左衛門の元へ行き、引き取り先を見つけてほしいと頼んだ。
寅八が赤ん坊を連れて大黒屋へ行くと、丑五郎の姿があった。そこで寅八は「赤ん坊の名前を考えてくれ」と蜂左衛門に言い、育てる意思があるような態度を示した。蜂左衛門は「子供のために、酒やサイコロ遊び、喧嘩と縁が切れるか」と諭し、赤ん坊を手放すよう求めた。しかし寅八は意地になり、赤ん坊を育てると言い張った。
時が過ぎ、善太と名付けられた赤ん坊は3歳に成長していた。寅八は酒と博打と喧嘩から足を洗い、良き父親となっていた。大黒屋を訪れた辰たちは、寅八が以前とは変わったことを語る。
少し前、善太が高熱を出し、町医者も見放したことがあった。寅八は川会長の久右衛門から、京の名医・松尾容斉が川を渡ったと聞いた。寅八は容斉の駕籠を追い掛け、連れ戻って善太を診てもらった。
辰たちは、善太に母親を作ってやりたい、寅八とおときを結婚させたいと考えた。そこで彼らはおときの父・甚兵衛を訪ね、そのことを話した。しかし甚兵衛は「家訓があるので、刺青のある男と娘を結婚させることは出来ない」と告げた。
その夜、寅八が悪酔いして丑五郎と喧嘩をしていると、通り掛かった賀太野山が制止した。彼は巡業の帰りに立ち寄ったのだ。善太への土産である相撲人形を壊したと知り、寅八は泣いて修繕しようとする、賀太野山は彼の良き父親ぶりに感心し、「毎年、巡業の帰りに買ってくる」と告げた。
7歳に成長した善太は、宿場の子供たちを率いるガキ大将になっていた。寅八から欲しい物について問われた彼は、「刀が欲しい。侍になりたい」と言う。寅八は困惑するが、善太が泣き出したので、オモチャの刀を与えた。
寅八は子供たちに手伝わせ、大名行列ごっこに興じた。すると、向こうから本物の大名・松平対馬守の行列が近付いてきた。子供たちは遊びを中止しようとするが、善太は「こっちも大名行列だ、進め」と命じた。彼らは対馬守の家臣に捕まり、本陣に連行された。
寅八は善太の身代わりとして斬られる決意を固め、本陣へ乗り込んだ。寅八の気持ちに感じ入った対馬守は、家臣の勝谷栄之進を通じて親子を解放させただけでなく、祝宴を開いてやった。
酔っ払った寅八は、善太のことを誉められて調子に乗り、「善太は大名のご落胤だ」と適当なことを言った。宴に参加した人足や馬方が寅八の言葉を信じて言い回ったため、たちまち噂は町中に広がった。
そんな中、ある藩の重役・鎌田大学が家臣を引き連れ、寅八の家を訪れた。賀太野山と共に家へ戻って来た寅八に、大学は善太が大名のご落胤であることを告げた。
大学が事情を語り出そうとすると、賀太野山は「実の親子のように暮らしているのに水を差すのは、殺生じゃございませんか」と割って入る。すると大学は、「たったお一人のお世継ぎが亡くなられたのじゃ」と打ち明けた。
賀太野山は寅八に、善太が確かに大名のご落胤であることを告げる。善太の母親は、賀太野山の妹だった。賀太野山の妹が腰元だった頃、大名の子供を孕んだ。出産から12日後、今度は大名の奥方に子供が誕生した。
自分の息子が城にいれば面倒なことになると考えた賀太野山の妹は、暇を貰って田舎へ身を隠した。しかし彼女は産後の肥立ちが悪く、命を落としてしまった。赤ん坊を預かった賀太野山は、誰かに拾って育ててもらおうと考えた。そこで彼は、狐退治に来るような男に拾ってもらおうと考え、野っ原に赤ん坊を捨てたのだ…。
監督 脚色は丸根賛太郎、原作は谷口善太郎、撮影は石本秀雄。
出演は阪東妻三郎、羅門光三郎、原健作(原健策)、阿部九洲男、見明凡太郎(見明凡太朗)、荒木忍、香川良介、光岡龍三郎、寺島貢、谷讓二、橘公子、原聖四郎、水野浩、津島慶一郎、上田寛、大川原左雁次、岬弦太郎、福井隆次、藤川準、澤村マサヒコ(津川雅彦)、原タケシ、町田仁、仲上小夜子、高木峰子、橘昇子、近藤いん子ら。
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阪東妻三郎が戦後に映画界へ復帰した第一作。当時はGHQの指令によってチャンバラが全面的に禁じられていたため、人情時代劇での復帰となった。
寅八を阪東妻三郎、辰を羅門光三郎、容斎を原健作(原健策)、賀太野山を阿部九洲男(阿部九州男)、おときを橘公子、蜂左衛門を見明凡太郎(見明凡太朗)、大学を荒木忍、丑五郎を光岡龍三郎、六助を寺島貢、太平を谷讓二が演じている。
私は本作品の前に、1971年に勝新太郎の主演で作られたリメイク版『狐のくれた赤ん坊』を見ている。その時は「オリジナル版と同じ台本を使っているんじゃないか」と思ったのだが、この映画を見た限り、どうやら違っていたようだ。演出による細かい改変に留まらず、場面として異なる箇所が存在する。
1つは赤ん坊を捨てに行く時の経緯。リメイク版では寅八が酒を飲んでいる時、おときから「少しは面倒を見たらどうなの」と注意され、カッとなって赤ん坊を奪い、見つけた場所へ行って捨てる。
このオリジナル版では「捨てて去ろうとしたら赤ん坊が泣き出すので、慌てて戻り、抱き上げてあやす。去ろうとすると、また泣くので困って座り込んでしまう」という場面がある。
しかしリメイク版の場合、赤ん坊を捨てて、そのまま帰宅している。そして、目が覚めると、なぜか隣に赤ん坊が眠っている。寅八は辰たちを呼び寄せて赤ん坊を投げ、「大井川へ捨てて来い」と命じる。捨てることが出来ない辰たちを見た寅八は自分で赤ん坊を川へ投げ捨てようとするが、制止される。
善太が3歳に成長した後、寅八が善太を抱いて川祭りを見学し、おときが寄り添うシーンがある。ここでリメイク版では、辰たちが気を利かせて善太を預かるという展開がある。
また、辰たちが蜂左衛門に「太に母親を作ってやりたい」と相談した後、饅頭を持って訪れたおときの尻の辺りを寅八がじっと見つめるシーンもある。それと、甚兵衛が結婚話に反対したところへ寅八が現れ、「頼まれても貰ってやるもんか」と怒鳴るシーンもある。
終盤、寅八は善太を連れて逃げようとするが、蜂左衛門に「対馬守の本陣へ行った時に死んでいる。もう一度死ね」と説得され、善太を手放すことを承知する。しかしリメイク版だと、大学が「寅八が説得に応じなければ斬るしかない」と言っていたのを聞いたおときが駆け付け、「全ての関所を固められて殺されるだけ」と止める。
寅八は大黒屋で鎧と兜を借り、大学の元へ乗り込んで斬ろうと考えるが、蜂左衛門に「勝てる相手ではない。殺されるがオチ」と言われる。「善太と離れるぐらいなら死んだ方がマシ」と言う寅八を、大黒屋は「お前は対馬守の本陣へ行った時に死んでいる。死んだつもりになれ」と説得する。
ラストも、善太が川を渡る時に豪華な蓮台が用意されているが、彼は寅八の肩車を希望する。そこで寅八が肩車をして川を渡り、善太に良い世継ぎになるよう説く。しかしリメイク版では、最後まで寅八は草むらに身を隠して覗いているだけで、姿を見せない。
こうやって1つずつ挙げていくと、リメイク版で大きく改変された箇所が、ことごとくマイナスに作用していることが良く分かるなあ。
とは言え、大枠としては、オリジナル版とリメイク版の流れは同じだ。だから、リメイク版を見た時に感じたのと同じ不満も存在する。
1つ目は、寅八が「酒と博打と喧嘩をやめる」と宣言する展開。実際、善太を引き取ってから酒と博打をやらないようになるが、そもそも博打に関しては最初から一度もやっているシーンが無いので、それをやめたと言われてもピンと来ない。また、喧嘩は全くやめていない。
寅八のキャラとしては「酒飲み」よりも「喧嘩っ早い」という部分の方が強く押し出されているのだから、「善太を引き取って以来、カッとなっても喧嘩を堪えるようになった」という形にした方が、変化をアピールできたと思う。
もう1つ、7歳に成長した善太が生意気なガキンチョになってしまうのもマイナス。「侍になるから刀が欲しい」と言い出し、寅八が困惑すると「嘘つき」と激しく非難する。大名行列の駕籠を子供たちに担がせ、本物が来ても「こっちも本物だ」と言って進むよう命じる。見事に可愛げが無い。
あと、それまで親切だった賀太野山が、実は善太を捨てた張本人だと判明すると、ヒドい奴ってことになってしまう。「自分では育てられないから捨てた」って、完全なる身勝手だからね。
しかし、リメイク版と同様のマイナス点は、それぐらいだろう。リメイク版と比較して不満点が少ないのは、演出やシナリオ、そして役者の違いによるものだ。
何より異なるのは、前半における寅八に対する不快感が無い。リメイク版だと、「狐だと思っている」ということで、寅八が赤ん坊を乱暴に投げたり、柱に縛り付けて放置したりする。赤ん坊を捨てに行く時に酒を飲ますし、無慈悲に捨てている。全く罪悪感も抱かないし、目が覚めて赤ん坊がいたら、また乱暴に投げている。
一方、このオリジナル版では、赤ん坊を拾って来た時に「呑気な野郎だ、途中で寝ちまいやがった」と言う時の笑顔からして、どこか朗らかで、単純に楽しそうに見える。
また、ちゃんと赤ん坊を駕籠に寝かせているし、小便を漏らしても「やったな」と言うだけで腹を立てたりしない。赤ん坊への対応に荒っぽさはあるものの、乱暴に投げることも無いし、柔らかい雰囲気になっている。
寅八が赤ん坊を狐と思い込んでいる様子も、どこかマヌケっぽくて、微笑ましさが感じられる。また、そのくだりには、しつこさが無くて、テンポ良く進んでいく。
赤ん坊を捨てに行く時も、寅八はただ乱暴なだけでなく、「おー、よしよし」とあやしている。また、おときに「拾ってくれる人がいなくて、この子が死んじまったら」と言われると、赤ん坊にチラッと視線をやっており、「どうしようか」という逡巡が垣間見える。
寅八は「そんなことは俺の知ったことか」と口にするが、無慈悲な態度ではなく、意地になって捨てに行くという感じだ。本気で捨てようという冷たさは感じない。それに、泣いたら慌てて戻り、抱き上げてあやすという行動を見せることで、コミカルになっている。
寅八が悪態をついても、荒っぽく振る舞っても、常に優しさや温かみが見える。赤ん坊を引き取ると決めてから、良き父親になるまでの経緯が省略されていても大して気にならないのは、彼が良き父親になれる男だというのが、ちゃんと伝わって来るからだ。
あと、勝新太郎は後世に名を残す大物俳優ではあるのだが、少なくとも本作品の寅八というキャラクターにおいては、阪東妻三郎の方がピッタリだったということも大きい。
同じように荒っぽいセリフを喋ったり乱暴な態度を取ったりしても、バンツマだと「その奥にある人情が隠し切れない」という風に見える。改めて言うまでも無いが、やはり阪東妻三郎というのは、優れた役者だよなあ。
(観賞日:2011年9月25日)