
『国際市場で逢いましょう』:2014、韓国
釜山の国際市場で「コップンの店」という雑貨屋を営むドクスは、妻のヨンジャに「ワシの昔の夢を知っとるか。大きな船を操る船長だ」と話した。ヨンジャが「なぜ言わなかったの。初めて知ったわ」と言うと、彼は「言ってどうなる。昔、一度だけ話したがな」と述べた。
息子のドジュとギジュ、娘のソンジュが孫を連れて来る日、ヨンジャは具合を悪くして寝込んだ。ドクスが市販薬だけ与えて店へ行こうとするのを知ったドジュたちは、苦言を呈した。
ドジュたちはドクスとヨンジャに子供を預け、タイ旅行へ出掛けた。家族旅行だと言う彼らに、ドクスは「だったらワシらも連れていけ」と愚痴をこぼした。コップンの店は立ち退きを迫られていたが、ドクスは交渉に来た業者を激しく罵った。
「商店街の八割が賛同したら強制的に立ち退きです」と説明されると、彼は怒鳴り付けて追い払う。彼は隣の店の配達人に「邪魔だ」と怒りをぶつけ、周囲の店も立ち退き拒否で迷惑を被っていると指摘された。
ドクスは孫娘のソヨンと手を繋いで歩いている時、「そんなに怒らないで。小さい頃から怒りんぼだったの?」と質問された。通行人と肩がぶつかったドクスはバランスを崩し、ソヨンと手が離れた。その時、彼は幼少期の出来事を思い出した。
1950年12月、咸鏡南道の興南。ドクスは上の妹であるマクスンの手を繋ぎ、「遊びに行くんじゃない。手を離すなよ」と釘を刺した。彼は父のユン・ジンギュ、母のパク・キルレ、弟のスンギュ、下の妹のクッスンと共に、急いで埠頭へ向かった。
中国軍が興南に入ったという情報が届き、第七師団の退却が決定した。助けを求める大勢の人々が埠頭に押し寄せる中、第七師団の将軍は武器を捨てて避難民を乗船させる決断を下した。避難民はボートから縄梯子を使い、ビクトリー号に乗り込もうと先を争った。ドクスはマクスンを背負い、縄梯子を登る。しかし何者かが後ろから手を伸ばし、マクスンを引きずり落とす。
ジンギュはマクスンを捜しに行こうとするドクスに「今からお前が家長だ。家族を守れ」と言い残し、下船してボートに戻った。しかし彼がマクスンを捜そうとしている間にビクトリー号は出航し、直後に中国軍の攻撃が始まった。
1951年初頭。ドクスたちは国際市場で雑貨屋を営むジンギュの妹、ユン・コップンと夫の元を訪ねた。ドクスたちは夫妻の家で世話になるが、食い扶持が減るので歓迎されなかった。ドクスは学校で北の出身だと知られると、生徒からも教師からも「アカ野郎」と罵られた。
彼は路上で「尋ね人。父・ジンギュ、妹・マクスン」と書いた札を首から吊り下げ、靴磨きの仕事で金を稼いだ。現代の創設者であるチョン・ジュヨンはドクスに「私の夢は大きな船を作ることだ」と言い、「試練はあっても失敗は無い」と述べた。
ドクスと学校で知り合ったチョン・タルグは、米兵に声をかけてチョコレートを貰った。不良グループはチョコレートを奪おうと目論み、2人を襲撃した。1953年7月27日、イ・マンスン大統領が休戦調停に調印した。ドクスは興南に帰れるのではないかと期待するが、近所の住人は「国に力が無いから侵略され、勝手に分断されてしまう」と語る。
ドクスはキルレに、「僕のこと、恨んでないの?一度もマクスンの話をしない」と語った。するとキルレは、「マクスンを思うと心が張り裂けそうだけど、私はアンタたちを育てなきゃいけない。それが母親の使命」と述べた。
現在。ドクスはタルグから、「そろそろ丸くなれ。もう年なんだし、店を売ったらどうだ」と促された。彼は店を売り、ビルを建てていた。スリランカ人のカップルがコーヒー店で話していると、高校生の3人組は外国からの出稼ぎだと決め付けて嘲笑した。
カップルの男性が韓国人だと主張しても、3人は態度を改めなかった。男性が腹を立てると、高校生の男は全く悪びれずに挑発した。その様子を見たドクスは激怒し、高校生男子に「出稼ぎにきた奴はコーヒーも飲めんのか」と掴み掛かった。
1963年秋。ドクスは金も無いのに国家試験対策塾の授業を勝手に覗き、それが露呈して追い出された。彼は埠頭でタルグと共に肉体労働をしているが、稼ぎは少なかった。スンギュはソウル大学に合格したが、ドクスの家に学費を払えるほどの収入は無かった。
ドクスはタルグから、西ドイツで鉱員を募集していることを知らされた。タルグは一緒に行こうと誘うが、ドクスは「国家試験が目前なんだ」と断った。しかしスンギュが大学を諦めて鉱員に募集するつもりだと知り、ドクスは考えを変えた。
ドクスは採用試験で怪力と愛国心をアピールし、タルグたちと共に合格した。彼らは1963年12月にデュッセルフドルフ空港に到着し、翌年からハンボルン鉱山で働き始めた。死の危険もある過酷な環境だったが、ドクスは懸命に働いた。
ドイツに来てから2年が経った頃、街に出たドクスは聖アンナ学校の看護学科に通うヨンジャと出会って心を惹かれた。彼は第一回鉱員・看護婦交流会でヨンジャと再会し、一緒に踊った。ダルホは看護学校の寮長に目を奪われ、積極的にアピールした。
ドクスは夜中に寮へ行き、持ち込んだ韓国料理をヨンジャと一緒に食べた。夜のデートに出掛けたドクスは、初めてヨンジャの手を握って喜んだ。ある日、鉱山でガス漏れが発生し、天井が崩れ始めた。鉱員は慌てて逃げ出すが、ダルグが崩れた天井の下敷きになった。ドクスは彼を助けに戻り、2人とも閉じ込められた。
事故を知ったヨンジャは鉱山へ走り、鉱山管理者に救助を要請する。管理者は「危険なのでガスが抜けるまで立ち入り禁止だ」と説明し、ヨンジャが必死で訴えても決定は覆らなかった。しかしヨンジャの懇願を見た鉱員たちは鉱山へ戻り、ドクスとダルグを助け出した。
病院で回復したドクスはビザが切れたので帰国することになり、ヨンジャに「一緒に帰国しないか」と告げた。するとヨンジャは、「貴方は大金を持って堂々と帰国する。私はここで頑張って暮らします」と述べた。
1966年12月21日、鉱員第一陣が帰国し、ドクスは家族と再会した。彼は家族が住む家を買い、店の仕事を手伝い始めた。コップンは「家も買ったし、この店も譲るよ」と言い、どうせ自分が死んだら譲るつもりだったと明かした。
ダルグがソウルから来たデザイナーのアンドレ・キムを案内し、店にやって来た。生地を探していたアンドレは、コップンの着物の刺繍を見てヒントを得た。後に大物デザイナーとなるアンドレは、店を後にした。ヨンジャが店に来たので、ドクスは驚いた。
ヨンジャはドクスに、妊娠したことを話す。ドクスが帰国する前日、ヨンジャは寮を訪ねて来た彼と肉体関係を持ったのだ。ドクスはヨンジャと慎ましい結婚式を挙げ、家族の祝福を受けた。
1973年秋、ドクスは海洋大学に合格し、「もう少しで船長になれる」とダルグに笑顔を見せた。帰宅した彼は、クッスンが「豪華な結婚式が挙げたい」と母に不満を漏らして口論になる様子を目撃した。コップンは死去しており、酒浸りの叔父は店を売ることに決めた。
ドクスは抗議し、自分が店を買い取ると宣言した。彼は大学進学を諦め、850ドルが貰える技術兵としてベトナムに行くことを決めた。ダルグと共にベトナムへ渡ったドクスは、子供たちによる爆破テロや激しい戦闘に巻き込まれる…。
監督はユン・ジェギュン、脚本はパク・スジン&ユン・ジェギュン、製作はユン・ジェギュン&イ・サンジク、製作総指揮はチョン・テサン、共同製作はパク・チソン&イ・チャンヒュン&キム・ヤンヨン、共同製作総指揮はミシェル・クォン、撮影はチェ・ヨンファン、美術はリュ・ソンヒ、編集はイ・ジン、衣装はクォン・ユジン、音楽はイ・ビョンウ。
出演はファン・ジョンミン、キム・ユンジン、オ・ダルス、チョン・ジニョン、チャン・ヨンナム、ラ・ミラン、キム・スルギ、イ・ヒョン、キム・ミンジェ、テ・イノ、ファン・ソナ、オム・ジソン、チャン・デウン、シン・リナ、イ・イェウン、チェ・ジェソプ、チョン・ヨンギ、ユ・ジョンホ、メン・セチャン、ホン・ソギョン、ステラ・キム・チョイ、コ・ユン、ナム・ジンボク、パク・ソヌン、ファン・インジュン、オム・ボヨン、チョン・ユノ、パク・ヨンス他。
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第52回大鐘賞で10部門を受賞し、2019年時点で韓国映画の歴代観客動員数4位を記録した作品。監督は『マイ・ボス マイ・ヒーロー』『TSUNAMI ツナミ』のユン・ジェギュン。
ドクスを『ユア・マイ・サンシャイン』『新しき世界』のファン・ジョンミン、ヨンジャをTVドラマ『LOST』のキム・ユンジンが演じている。他に、ダルグをオ・ダルス、ジンギュをチョン・ジニョン、キルレをチャン・ヨンナム、コップンをラ・ミラン、クッスンをキム・スルギが演じている。
日本は第二次世界大戦で敗戦国となったが、戦後はめざましい復興を遂げた。高度経済成長期が長く続き、希望に満ちた未来を展望する人が多かった。一方、お隣の韓国は第二次世界大戦で解放されたはずだったが、そこから豊かな暮らしが始まることは無かった。朝鮮戦争という出来事によって、暗く沈んだ時代が長く続くことになった。
今でも日本に対して強い恨みを抱く国民性は、ひょっとすると「敗戦国の日本がめざましい成長を見せたのに、それに比べて自分たちは」という妬みが大きく影響しているのかもしれない(皮肉なことに、日本では朝鮮戦争でによって「朝鮮特需」が起きた)。
これはドクスの幼少期から老年期までを描く一代記だが、単に「ある個人の物語」というだけではない。同じ時代を生きた韓国人を代表するようなキャラクターだ。戦争で家族を失い、残された家族の生活のために自分の人生を犠牲にして懸命に働く。
さんざん苦労を重ねて来たが、それに見合う幸せが得られたとは言い難い。老人になっても、まだ平穏は訪れない。店の立ち退き問題が持ち上がっており、気の休まらない日々が続いている。
粗筋でも触れているように、現代(ヒョンデ)創設者のチョン・ジュヨンとファッションデザイナーのアンドレ・キムが登場する。歌手のナム・ジンも、ベトナムのシーンで登場する。ナム・ジンの登場だけは意味が違うが、チョン・ジュヨンとアンドレ・キムに関しては大物になる前の段階でドクスが出会っている。
そして1973年のパートでは、アンドレ・ギムのショーの様子がテレビで流れ、現代が韓国史上で最大の船を建造したことが新聞で報じられる。「韓国には苦しくて辛い時期もあったけど、めざましい成長を見せましたよ」という象徴のような存在として、この両者の成長が描かれている。
朝鮮戦争は韓国が直接的に関わっている戦争だが、ベトナム戦争は遠く離れた場所で起きた出来事だ。この映画は「韓国の近代史を描く」という枠組みで物語が構築されているので、表面的に考えればドクスがベトナム戦争に行くのは少しズレていることになる。
しかし、韓国はベトナム戦争に海兵隊を派遣していたのだ。その事実を盛り込み、ベトナムで韓国の海兵隊員が体験した地獄のような光景を描くために、「ドクスが技術兵としてベトナムへ行く」という展開が用意されているわけだ。
クッスンの挙式は、「ドクスの家族の物語」だけを描くなら、ごく普通の結婚でも構わないだろう。そこが「初の韓越結婚」という設定になっているのも、「韓国の近代史」に絡めたいからだ。
終盤に入ると、朝鮮戦争の離散家族のための特別番組が放送される。離れ離れになった家族を捜す人が出演し、テレビを通じて情報を呼び掛けるという番組だ。ここはドクスの個人的な物語を描くことが大きな目的ではあるが、それと同時に「韓国にとって、いかに朝鮮戦争が重大な出来事だったか」ってのを示す意味もある。
ベトナム行きをヨンジャから反対された時、ドクスは「俺は長男で家長だ。家族を養う責任がある」と言う。ヨンジャが「もう充分でしょ。知ってるのよ、妹の結婚式は口実で、本当は店のために戦場へ行くんでしょ」と指摘すると、「俺も好きで行くんじゃない。これが俺の運命なんだ。仕方ないだろ」と吐露する。
本人が認めているように、「家族を養う責任を果たそう」というのは、自分の意思ではない。幼い頃、父から「今からお前が家長だ。家族を守れ」と言われたからだ。それ以来、ずっとドクスは強い責任感と使命感を持って生きて来た。もちろん父に悪意は無かったのだが、その言葉がドクスを縛り付けてしまったのだ。
ドクスが店の立ち退きを頑固に拒否していることに対して、子供たちは「売ればいいのに」と思っている。ドクスが店に固執する理由は、終盤に入るまで明かされない。そして回想シーンで、興南で父がマクスンの捜索に戻る時、ドクスに「もし俺が戻らなかったら、妹の店で会おう」と告げていたことが描かれる。つまりドクスは父やマクスンと再会するための場所として、店を守り続けていたのだ。
でも、これは序盤、興南のシーンで見せておけば良かったんじゃないかな。ヨンジャが妊娠を告白して「実は帰国する前日に寮でセックスしていた」と明かされるシーンもそうなんだけど、この2つの回想パートは時系列順で良かったと思う。そもそも回想形式になっているので、その中で別の形での回想パートが入るのは、あまり恰好がよろしくない。
終盤、ドクスは離散家族のための番組に出演し、アメリカへ里子に出されていたマクスンとの再会を果たす。父との再会は叶わなかったが、母を亡くしたドクスは「父さん。仕事は果たしたよ。マクスンを見つけた。充分に頑張っただろ。でも本当に辛かった」と泣く。そして店に固執する理由が亡くなった彼は、売ることにする。
切なさや寂しさはあるし、「ようやく幸せが訪れた」とまでは言えない結末だ。しかしドクス本人が言うように「充分に頑張った」とは感じるし、少なくとも心の平穏は訪れたんじゃないだろうか。
(観賞日:2024年2月11日)