マガジンのカバー画像

ハリウッドも認めた異能の映画人・佐野雷次 (note改訂版)

28
佐野雷次は1960年代から1980年代に掛けて活躍し、主にアクション映画やホラー映画を手掛けた監督・俳優である。雷次はアメリカにも進出して地位を築き、2009年に発表された映画雑…
運営しているクリエイター

#映画監督

《二十八. 突然の終幕 》

 雷次の映画人生は、まだまだ続いていくはずだった。  しかし、終焉は突然に訪れた。  『…

《二十五. 意外な仕事への取り組み 》

 『邪法兵衛』三部作のヒットを受け、ファンや映画関係者は雷次の次回作に注目した。  そん…

《二十四. 邪法の続きと、久々の再会 》

1981年12月、『邪法兵衛』は全国公開された。  ケレン味たっぷりに演出されたアクショ…

《二十三. 邪法で挑んだ時代劇 》

 『ガンマン、サムライ、モンスター!』の撮影後、雷次はアメリカでの活動を休止し、日本へ戻…

《二十二. 侍とガンマンとモンスター 》

 アメリカに進出してからの雷次は、監督作は二本ともホラーで、出演作もシリアスな作品が続い…

《二十一. 狂気の悪役、ライジ・サノ 》

 『ママ』の公開と同じ年、雷次は再び俳優としてアメリカ映画に出演している。  製作サイド…

《二十. アメリカを怯えさせた男 》

 1977年6月、雷次のアメリカでの監督デビュー作『トランスファー・スチューデント』が公開された。『猿の惑星』でコーネリアス博士を演じたロディー・マクドウォールを除けば出演者は全て無名だったが、映画は充分すぎる黒字を出し、ロジャー・コーマンを大いに喜ばせた。  この結果を受け、コーマンは続編を企画し、雷次に監督のオファーを出した。しかし雷次は、また監督の仕事が来たことは喜んだものの、続編には消極的だった。  「評価は有り難いですけど、『トランスファー・スチューデント』は自分

《十九. B級映画の帝王との出会い 》

 『サムライロイド』は1977年1月に公開されたが、同じ年、雷次は監督としてもアメリカで…

《十八. 雷次、アメリカで侍になる 》

 一週間のアメリカ旅行を終えて、雷次は日本へ戻った。  帰国した彼が復帰一発目の仕事に選…

《十七. 怪我と兄とアメリカ旅行 》

 『魔銃変』のヒットを受けて、世間では続編への期待が高まった。再びジーナとJCの戦いを見…

《十六. 雷次、異空間の殺し屋になる 》

 「どうする?やっぱり、またホラー映画で行くか。俺は、それがいいと思うが」  雷次プロの…

《十五. 陽気に笑う殺人鬼 》

 雷次は、独立二作目もホラー映画で行くことにした。『薔薇を抱えた男』が当たったから同じ路…

《十四. 雷次プロの始動とストーカー 》

 1971年2月、独立プロの「雷次プロダクション」が設立された。雷次が社長、そして副社長…

《十三. エロ映画で大映とお別れ 》

 テレビに押されて斜陽の一歩を辿る映画界の中で、特に大映と日活の二社は経営不振に苦しんでいた。  その頃の映画会社は製作・配給・興行を全て扱うのが当たり前だったが、大映と日活には、興行部門が弱いという共通点があった。  いよいよ切羽詰まってきた両社は、1970年4月に行動を起こした。  配給網を統合し、ダイニチ映配という配給専門の会社を設立したのである。  それだけでなく、大映と日活はダイニチ映配を通して、今までとは異なるテイストの映画を多く配給するようになった。エログロと