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きみの言い訳は最高の芸術
『きみの言い訳は最高の芸術』/最果タヒ 2016年10月初版
最果タヒさんという作家さんの本をおそらく初めて読んだ。
この本は作者がブログに書いていた文章をまとめたものらしく、ひとつのタイトルにつき1〜4ページくらいの作者の思考のかたまりに触れていく作品だった。
そうだ。言われてみれば確かにそのとおりで、
自分もかつて同じようなことを感じたことがある。
だけど「あまりに些細なこと」として見逃していた。あるいは、そう感じたという事実にすら気づいていなかった。
最果さんは、そうした小さな感覚を見逃さず、的確に言語化してくれる。
中にはそのあまりのストレートさに少しドキッとしてしまう文章もあった。
特に印象に残ったのは、彼女の使う比喩表現。
例えば、冒頭の章で、ふとした時に思い出すけれど、今はすっかり縁が切れてしまったかつての友人の存在を、
「閉館した故郷の美術館みたいに、私の中できらめいている」と表現するセンスにまず心を掴まれた。
元々それらふたつの語はイコールで結びついていたのかと思うほど正確な表現が、
彼女が詩人であるということの証明になっている。
特に印象的だった言葉をいくつか。
「さみしい」という感情に、だれかがそばにいるかいないか、なんていうのはたぶん、まったく関係がない。
自分が楽なリズムで、孤独になったり、孤独をやめたりできるのかってことのほうが、ずっとずっと大事だと思う。
本当にそのとおりで、自分にとって最もほどよいその人との距離間を、いつだって探している気がする。
どんなにシェアされたって、私が聞きたいのはそれじゃない、と思う。SNSで教わった好きな食べ物、好きな音楽、そんなものを知ったところで私はまだまだきみを知らず、きみに会いたいとも思わない。p.88
共有したいっていう感情が、ずっとずっと邪魔だった。
言葉にするだけで、簡単に色々なことが切り捨てられていく。その人だけの、ささいなこと、あいまいなことが、四捨五入みたいに消えていくんだ。どこまでも意味と紐づいているからこそ、使うだけで、言葉はその人だけの感情を押しつぶして少しずつ消していく。
100%の理解なんていらないし、したくもないんだ。きっと人は、ちょっと分からないくらいがちょうどいい。
良い本を読んだとき、良い音楽を知ったとき、綺麗な景色を見たときに
どうしてわざわざ共有したくなるんだろうか。
いまだにその答えはよくわかっていない。
それでも、素敵だと思ったものは残しておきたくなる。この作品で何より素敵だと思ったのは、作者のあとがきの文章だった。
現実の世界でなら、アスファルトの上で立ちつくしていればそれだけでよかったのかもしれない。
日差しによって足元には影ができるし、通りすがりの人すべての視線に私は入っているだろう。
でも、インターネットだとなにかを作っていかなくちゃ存在自体が0になる。
だから私は文章を書いた。ブログ。それでもそこに余計な価値はいらないと思った。
知ってほしいことなんてないし溢れ出る感情もない。
人が、立ち尽くしているだけの文章を書きたい。
いつか自分の言葉で、誰かとすれ違ってふと目があった時のような、そんな瞬間が作れたらいいなと願っています。
何も伝わらないかもしれないけど、その代わり、そこにお互いがいたというそのことが瞳の奥に残ればいい。
ただ私は生きていて、あなたも生きているんだということ。そんな当たり前のことが言葉の上にも描けたらいいな。その人がどんな人であるかなんて、「そこにいる」というその事実に比べたらやっぱりとてもちっぽけだな、と思います。
SNSの「いいね」なんかもそうだけど、シェアしたものの良さが本当に伝わっているかなんて分からない。
ただ、何かを「良い」と感じた人が存在している、存在していたということが、ただ、通りすがりの誰かの視界の端に一瞬でも映れば、ひとまずそれで十分なんじゃないか。
今はそう思うことにします。