20230820-20240128 川内追廻(仙台市) #風景誤読
追廻地区があったところは現在、とある複合施設になっている。
施設の名は『緑彩館』
レストランや仙台の民芸作品、ちょっとした展示スペースがある複合施設である。
ある日の観察日記⑭
外は公園のような広場となっており、骨組みだけのボックス型休憩スペースや広瀬川と近隣エリアを一望できるデッキもある。
この広い草原は、2024年4月からはドックランも可能になるとのこと。
休日ということもあり家族連れでにぎわっていた。
追廻地区に住んでいた「詩人・スズキヘキ」さんによる、追廻にまつわる詩も展示されている。
ここは追廻住宅があったところ。
なのに…その些細な名残すら一切見当たらない。
追廻のことを遠回しに伝える書籍や石碑はあるものの、生活してきた人々の形跡が1つもないのだ。
.。o○
ほんの数年前までは確かに存在していたのに、第三者のフィルターを通してでしか知ることができない感覚... (´-﹏-`;) ナンデ...?
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▷追廻地区の歴史
仙台空襲で家を失った人や満州から引き揚げた人が暮らし始める応急簡易住宅として戦時中に準備され、戦後まもなくして建設が開始。一時は600世帯が居住したが、番地すら未だ与えてもらえず無番地のままだ。
1.ぶらぶら散策を開始する
追廻地区(現:緑彩館)を歩いていると、不思議な区画を目にする。
平穏な草原内を謎のバリケードで囲い、『危険だから入ってはいけない』と掲示してある区画だ。
一体なぜ、平穏な広い草原が《危険》と言われているのか…
謎は深まるばかりだ。
この日は滴々メンバーと一緒にお散歩をしていた。ある時、とある滴々メンバーから耳寄りな情報を教えてくれた。
『このゲートの名前は”A型バリケード( 通称 : Aゲート )”と言う。立入禁止にしては低い高さだな…。』
らしい。
”これは…、入って調査するしかないっ!”と
心の中で決意し、一人ゲートの中へ足を踏み入れた。
他のメンバーとは一旦、別行動だ。
(気になって仕方がないし、なにより
”百聞は一見にしかず”って言うじゃん?)
2.補足
現在、普通に立ち入れるエリアは追廻住宅の空気感や名残が全く感じられない場所になってしまった。 唯一、追廻に住まれていた方の空気感が残っていたのが「立ち入り禁止区間」である。
『追廻で起きたことをリアルタイムで深く調査をしたかった』というただそれだけの目的である。
3.追廻地区に足を踏み入れる
何かに呼ばれるように、一歩ずつ、一歩ずつ。慎重に歩く
追廻住宅の基礎部分とおもわれるものが、コンクリートの下から顔を出していた。
まるで追廻地区の空気感に少しだけ触れることができたような、幻のような不思議な気持ちに包まれる。
4.川が広がっていた
広瀬川のほうまで歩いてみると、穏やかな人情と共にここで暮らしていた人々の生活感すらも感じられた。
追廻地区には洗濯機がない家庭が多かった。
休みの日は、朝から晩まで植物の実(さいかちの実)を石鹸代わりに広瀬川で洗濯をしていた。
洗い終わったら家の前の道路や川沿いに広げて干していた。全て、住民による手洗いのため「洗濯をする日」=「一日つぶれる」という認識が誰かに言われなくても各々の心に染み付いていた。
こんなに水があふれているのになぜ水不足になるだろう。広瀬川はダムから放出された水なのか…?
疑問符が消えぬまま、ある光景をふと目に入る。
2~3台ほどのショベルカーが広瀬川のすぐ隣に停まっていたのだ。
「みんなの川をきれいに(しよう)」と書かれていると思われる看板が壊れている。
この折れ方は…あの方の仕業ですね?
(👤)
5.再び、未完の広場を歩く
歩く度に追廻地区の痕跡を根本から抜き、新たな景観を上書きしているのように感じるのは私だけだろうか。。。
もしかして、それを” 整備 ” と呼んでいるのか…。
そんなに追廻地区や住民をいじめないでほしい。
だから本では深入りした内容が見つけられなかったのか。。。
(もしくは、私の調査不足か。)
6. 初代からの受け継がれていた住宅の特徴
1、角材で造られた骨組みに、薄いベニヤ板の壁
2、薄くて雨音がとても反響しそうな細かい波目状のトタン屋根
3、家の柱を支える大きな丸い石
詳細:
1.
ホームセンターに売られている一番薄くて安価なベニヤ[ラワンベニヤ(通称:ラス板)]がある。おそらく外壁はそれなのではないかと推測している。
ベニヤだけでは隙間だらけで寒すぎるので、部屋の内側からこっそりと段ボールやブルーシートを併用して断熱材の代わりにしていた住宅も多かった。(外から見たときに段ボールが見えてると貧相に見えてしまうので、多くの住宅は内側から段ボールを何重にも重ねて貼っていた。)
2.
最後の一軒がショベルカーで壊される瞬間の映像によると住宅全体が薄い素材で造られており、屋根もショベルカーが触れたと同時にすぐ破壊されてしまった。
ベニヤと角材と薄いトタン一枚の屋根で構成されているため、雨漏りは日常茶飯事だった。(いかに雨漏り対策をするかにかかっていた。)
3.
家の土台にかけるお金もないため、柱を支えるくらいの大きい石を下に置き通気性を保っていた。家の柱を一点の石で支えていたため、全体的に家も斜め45°に傾いていた。
初代の住民や2代目の頃は差別や偏見に加えてとにかく貧しい生活を送っていた。
しかし(50~40年前のように)少しずつ今の暮らしに近づいてくるにつれて病院や八百屋、鮮魚店や美容院、葬儀屋などがそろっていたので遠くまで買い出しに行く必要もなくなる。
次第に追廻地区の住民やお店などで互いに助け合いながら仲良く暮らしていた。仕事も見つかるようになり偏見や差別も軽くなり、「お互い様」という言葉で思い合う温かい街だった。
今は立ち入り禁止区域だが今年の3月まで工事が行われたあと、(おそらく変わり果てた姿で)2024年6月に一般公開される。
7.行政や利便性の考えに追い出された住民
交通の利便性と車の渋滞緩和のためにつくられた道路。
一見すると大きいただの道路かもしれない。
だが、道路や橋がつくられる、ほんの数年前まで普通に住宅地であったケースも少なくない。利便性を求めつづけるのと引き換えに、何かが退化してしまうような気がするのは私だけなのだろうか。
例えば
”手書きで文章を書いてないと、漢字(文字)を忘れてしまう”
みたいな
「ここを新しい道路にして、今の住民には行政から補助金を支給するから新しいところに引っ越してもらう」
…という住民の気持ちは無視されたまま
否応なしに転居をしなきゃいけない地元民たち。
8.転居を言い渡された住民の中には
「住人との交流が無くなり、近隣同士で深く話す機会も減った。いきなり見ず知らずの土地で、0からご近所付き合いを築き上げていくのも大変。」
「なにより、後期高齢者と言われる年齢になって年々体力も記憶も衰えている中で…イチから何かを築き上げていく自信もない。外に出るのも疲れるからずっと家に引きこもって暇な時間を持て余している。」
という、追廻から移り住んだ住民の声もある。
9.自分と重ね合わせてみた
ふと、震災の頃の記憶が甦る。
(ライフラインが整っていない環境下では、電気で調理するものや温めて食べる即席ご飯があっても電気もガスも水道もない中では上手く使えない。)
(逆に祖父母の家や、私の実家の奥のほうで眠っていた電気の使わない石油ストーブや乾電池を入れるだけの懐中電灯などすごく重宝したっけ。。灯油の消費が激しいけれど、ストーブの上で加熱調理できるところが何よりも有難かったな~。)
.。o○
✽
なぜだか最近、手間や時間のかかるものに魅力を感じる。
例えば、意味もなく2層式の洗濯機の記事を見ては
ニヤニヤしちゃう。みたいな(最近の出来事)
(なんだか、逆に不便なことが利点にみえてきた。)
♪…
参照:https://youtu.be/d_7-6birPGc?si=UdBjNmj0iF2IcShR
♬…♪
( 追廻地区を歩くときの心のザワツキのような。)
♬…♫♪
( だれかの悲しみに歩くたびに触れてしまったような、立ち入り禁止区域だった)
[りな]
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